小倉淳史「創作と伝承 現在に生きる辻が花」展|和織物語

小倉淳史「創作と伝承 現在に生きる辻が花」展|和織物語

今日よりも明日。
「明日は今日よりもさらにいいものを作ろう」
その信念で物づくりを続けて半世紀余り。絞り染の第一人者だった小倉建亮氏を父に持ち、そこから独自の道を探り続け「辻が花」を現代の人に似合うものとして完成させた『小倉淳史』氏。
「表現のために技術が必要」と常日頃語る父の背を見て育ち、自らも技術の研鑽に励み、また生まれ持っての感性を、小倉家代々の作品を見る事で更に磨き上げ、独自の創作力を身につけていきました。
それらを遺憾なく発揮して作り続ける平成の「辻が花」。
「何が作りたいか、どう作るか、常に技法に合わせて表現します」と言う小倉淳史氏の作品は着る人の知性を引き出し、そこに気品を加え、華やかさと女性としてのしとやかさを生み出します。
「着るものは自分自身を表現する大切な道具です」
と言う小倉淳史氏。
出会いから1年、銀座もとじのリクエストに応え、「これぞ銀座もとじの辻が花」と言う素晴らしい作品を作り上げてくださいました。
今の場所にけっして留まらず、前進を続ける小倉氏の素晴らしい作品をぜひご覧ください。

小倉淳史氏の歩み

1946年11月16日に京都の友禅染の家に一人息子として生まれました。生家は、京都三大染工房「小倉萬治郎」「田畑喜八」「上野為二」の三家の内の一家、130年以上の染織の歴史を持つ「小倉家」でした。

養子になって四代目を継ぎ、才能とそれを開花させる実力とをあわせ持っていました。建亮氏は研究熱心で大正から昭和初期に掛けて松坂屋図案部の稲垣稔次郎氏の指導を受け、江戸時代に蒐集された資料を元に友禅だけに留まらない染の作品を作り出していきます。

九寸名古屋帯 左:鳥 右:市松辻が花
九寸名古屋帯 左:鳥 右:市松辻が花

小倉家で友禅染を極めた後は、義母の実家であった「絞りの岡尾家」にも出入りし、そこの図案も描き、絞り染職人との交流を経て、自らも絞り染をマスターしていきます。
昭和30年代には染織研究家の明石染人氏からも指導を受け、友禅と絞りの混在した着物の制作を手掛け、新しい作風を打ち出しました。結果、「絞りの小倉」「辻が花の建亮」として名をなしました。

淳史氏はこの建亮氏の一人息子として誕生しました。抜群に絵の達者な父が描く絵を見て育った淳史氏は、知らず知らずのうちに「僕は絵を描くのは大の苦手で下手」と思い込んでいました。小学校の宿題は毎回、父のもとに持って行き、描いてもらうのが常となっていました。父も描くとなったら、のめり込むタイプで、小学生の子供が描いたものだからという手加減が出来ません。結果、「これが小学生の描いた絵ですか? そんな訳ないですよね。」と言う素晴らしい絵を描き上げ、それを受け取った淳史氏はさっさと学校に持って行き「はい! 僕の宿題です」とにっこり笑って提出していました。

染色の世界には余り興味がなかった淳史氏ですが、門前の小僧は、そうは言ってもやはり身近に職人仕事を見ています。「染のいろは」は、間違いなくしっかりとつかんでいました。
染色に入るきっかけは、中学2年生の時、恋心を抱いていた彼女にプレゼントのテーブルセンターを作ろうと決め、ロウケツ染に挑戦したことからでした。見よう見まねで作りましたが、何とも思うように染まりません。四苦八苦している淳史氏を見て、職人さん達が「そんなんじゃ出来ないよ」「それじゃバリバリに割れた柄になっちゃうぞ」と言います。「くそお! 」負けじ魂が動きました。そこから職人さんにコツを習って、「染」に真正面から向き合い始めました。その後「染物を作品として表現するには技術が必要なのだ」と気がつきます。職人さん達の話を聞くと、一つ一つが技術に裏打ちされた確実な内容で、発せられる言葉はどの言葉も力強く輝いています。そして染の奥深さも見えて来ました。追求すればするほど、知れば知るほど「奥の深い染の世界」にどんどん虜になっていきました。
17歳の時とうとう決心が固まり、「私も染の仕事を一生の仕事にします」と父親に伝えました。今まで決して強要してこなかった父親も息子のこの一大決心には大喜びです。
将来、京都市立芸術大学に進学と言う道もありましたが、もっと早く技術を学ぼうと、決心した翌月から京都市立芸大の講師であった寺石正作先生に染を習うことになりました。高校に通いながら週3回、3年間学び続けました。ここでデッサン、色彩構成など染の基礎を叩きこみました。
父の天才的な才能の陰に隠れがちだった淳史氏の才能を見抜き、「親父と同じように描くことは考えるな。同じ道を歩いたらいかん。自分の道を自分で描くんだぞ」と厳しくも温かいアドバイスをしてくれたのも寺石正作先生でした。これが後々の淳史氏の大切な「道しるべ」となりました。
20歳の時に父の下に入り、友禅・絞り・辻が花の修行を始めました。

感性を磨き感性で活かす

訪問着 格子に葵・蔦・丁子
訪問着 格子に葵・蔦・丁子
「自分が感じて、自分が綺麗だと思うものを自分の技術で染める」これを繰り返し、あわせて淳史氏は己の技術を磨いて来ました。「何を作りたいか」を決め「どう作るのか」を考え、「その時の技法に合わせて表現する」。これ以上でもこれ以下でもない、その中で作りだされる作品が、小倉淳史氏が作る染の世界です。

作りたいものがあっても技術が伴わなければ表現は出来ず、技術があってもそれを活かすデザイン力がなければ完成された作品は出来ません。

常に色々なものを見て己の表現力磨き、それを表現できる技術が均等に揃って初めて小倉淳史氏の作品の世界が生み出されます。

父親の建亮氏も発想力と想像力が豊かな人でした。戦後、初めて第5回日本伝統工芸展に出品した作品の題名は「海の幸」。海底を描いたこの作品は細部にわたって緻密に描かれ、「素晴らしい」の一語に尽きました。「いつ写生したものですか」との問いに「これは幼い頃、潜った天橋立の海底の風景を描いたんだよ」と簡単に答えます。幼い時に感動した海底の様子の記憶を辿り、その時に印象に残ったものを意匠化して染め、細部にわたって再現していました。
その後も様々な制作作品で「これはどこの風景ですか」「これはどこに咲いていた花ですか」と聞くと「どこそこのあれだよ」「庭のあそこに咲いていた花だよ。見てなかったのか」と応える人で記憶力も想像力も逞しい人でした。

淳史氏も父親と同様に、色々な事に興味を持っています。モダンジャズからクラシックまで幅広く聴き、オペラから現代劇まで様々な世界を見ます。自然界の物、人工界の物、それらに対して特に区別せず、自分の心の感じるままに様々なものを見ています。そして見て行くうちに心に残ったものが、ある日ふっと「着物の図」となって頭に浮かんでくるのだそうです。そこでざっと原図を描き、改めてその物を見に行って写生を始めます。そして正確に写生をした後、不必要な部分を取り除き、デザイン化して作品の形を作り上げていきます。この間にどんな色に染めるのかも自然と浮かんでくるのだそうです。それらをより完全な姿にまとめて行くと「新しい小倉淳史作品」が生まれてきます。

徳川家の復元で確かな技術とデザイン力に磨きを

1975年、29歳の時に第22回日本伝統工芸展初入選を果たします。その後も意欲的に制作に携わり、独自のデザインを作り出します。その確かな技術とデザイン力が認められ、1988年にはNHKより徳川家康の小袖二領の復元を依頼されました。色も絵柄も風化していたものを僅かな資料を元に当時の職人の想いに寄り添い、その職人が描こうとした世界を再現する。あらゆる文献や資料を見て自ら培って来た知識と、子供の頃から磨かれて来た感性、寺石正作先生と父、小倉建亮氏によって磨かれたデザイン力と染の技術、それらを総合し取組みました。
白大島紬 横段辻が花
白大島紬 横段辻が花

復元は決して一人で出来るものではありません。生地の再現、染料の再現など分野ごとのスペシャリストが全精力を傾けて作っていきます。当然最後の工程となる染めは、小倉淳史氏にすべての責任が掛かる上、そこまで精魂込めて作ったたった1点の貴重な作品を完璧な形に仕上げるという重圧がのしかかります。染は一瞬で決まります。特に復元の作業は、生地も当時のものを再現しているため、試し染めは出来ず、すべての準備を整えた上で当日の気温、水温などによって塩梅を考えなければなりません。一瞬の判断ミスが命取りになります。

デザインの再現で1か月、染の糸入れで1か月以上掛かり、最後の染めは様々な検証から完璧に染料を揃えていても、一瞬一瞬の判断が出来栄えを左右します。これらを無事に成し遂げ、1988年に「徳川家康の小袖二領の復元」を見事に完遂しました。その後、1998年には京都国立博物館蔵の「小袖」の欠損部分を復元、2004年にはCBCテレビの依頼で「徳川家康の羽織」を復元し、2008年には重要文化財指定品「徳川家康小袖」を復元制作しました。
これらは、小倉氏にとって大きなチャレンジでもありましたが、結果として一つの復元を終える度に大きな財産も残しました。徳川家と言えば、当時国内で最大の権力を持っていた将軍家。その最たる長が身に着けていた小袖や羽織は、当然のことながら素材から織、染まで当時の最高の技術を備えた選ばれし職人達が制作したことは明白です。「最高の技術と素材を結集して仕上げた最高の完成品」を再現するのです。当時、日本一の匠と呼ばれた人達がどんな想いでこの作品を手掛けたのか。
小倉淳史氏は持ち前の想像力と企画力を研ぎ澄ませ、持てる技術を結集して当時の職人の技との勝負をしました。
そして古の職人が何を考えどう表現していったのか、様々な角度から学ぶまたとない機会にしたのでした。

現代の女性が着て美しいものを

九寸名古屋帯 左:桜と藤 右:雲取辻が花
九寸名古屋帯 左:桜と藤 右:雲取辻が花
復元で「古の匠」と言われた職人の技を伝承という形で学び、伝統工芸展への出品作では「将来の着物美を創作する」と言う視点で制作をします。
そしてもう一つ「創作と伝承の中間点」と言う視点を持って「現代の女性が着て美しいものを着物や帯」に作ります。お召しになる人の事を考えて、色合いや模様の配置を頭に描き、今の日本女性に似合うものを、様々な分野から得た感性で作り上げる。このデザイン力は、今と言う時代に敏感に反応しています。

だからこそ、小倉淳史氏の作品はいつ見ても「今を生きている」と言う実感と躍動感があり、時には抒情的な印象をも醸し出します。
「着物や帯は、着る人のために作るものだと思います。着て良かったと思ってもらえるものを作ることが私の使命です。そして一つの作品が完成する頃に、次の作品を、こんな風にしたい、あんな風にしたいとすぐにまた新しい発想が芽生えます。毎日が挑戦です。」と言う淳史氏。

常に前進し今に留まらない小倉淳史氏は、現在、「平成の辻が花」の心と技を伝え続けるために、これが最後になるであろう修行3年目の弟子を育てています。

銀座もとじとの物づくり

今回の催事に当り1年の期間を掛けて、小倉先生には銀座もとじのオリジナル作品を制作していただきました。
先生が描いて来た作品の中から店主泉二と企画室長の續が銀座もとじのお客様に似合いそうなデザインを選び、そこに更に小倉先生が新たなデザインを加えて制作した作品です。
店主泉二は「先生の物づくりへの真摯な態度と肌理細かな仕事に心底惚れ」、室長の續は「抒情感溢れる先生の作風にとても魅力を感じ、見れば見るほど作品の質の高さと色と柄行きのバランスの良さを知り、その確かな仕事から伝わる風格に感嘆いたしました。現代の色にもの凄く敏感な先生の作品は銀座もとじのお客様にぜひご紹介したいと思いました。」と言います。
小倉先生はそれらの希望に応え、制作を続けてくださいました。
「作者の気持ちだけで作った工芸作品は、やはり着づらいのだと感じます。客観的にものを見て一歩引き、冷静になって物を作ることが必要でしょうね。今は色彩が過剰にないものがすっきりしていていいと思うんです。泉二さん達が選んだデザインはそういうセンスが良く、時代を問わず着ることができると思います」と。

今回制作したオリジナル作品は訪問着3点、帯6本ですべてが1点ものです。そこに徳川家康の小袖復元で小倉先生が得た経験から、新たに男物で「平成の辻が花羽織」(男性用)1点、「辻が花額裏」(男性用)1点も制作してくださいました。
ぜひこの機会に小倉淳史先生の素晴らしい作品をご覧ください。