赤崩との出会い

あれからもう9年がたつ。しかし、寒染めの記憶は色褪せない。同年の夏に訪問した際、紅花の棘をものともせず素手で行う早朝の花摘みや、自然流水での花洗い、素足で踏みしだく花踏みなど、昔ながらの紅花染料"紅餅"づくりも圧巻だった。紅花は太古より尊ばれてきた特別な植物染料で、山形を象徴する花でもある。山岸さんと言えば紅花の寒染め、というくらい代表的な作業だ。けれど、山岸さんの仕事は、紅花だけでは語りきれない。
力織機から手機へと
江戸時代後期、財政難に喘いでいた米沢藩を立て直した第十代藩主・上杉鷹山公は、多くの再建策を打ち出したが、その中に養蚕の奨励や紅花の栽培があり、これらが米沢織物の基礎となった。が、明治の近代化政策により織物の産地は地場産業化、山岸さんが生まれた1946年には、機織りといえば動力による力織機が主流だった。分業、化学染料、機械化。織物で栄えてきた土地は、伝統の手仕事から大きく舵を切り、様変わりしていった。 「織機の音が子守唄でした。機が止まると泣いたらしい」 山岸さんの生家は米沢の袴地の織屋。曾祖父は青苧と呼ばれる上質な麻糸を扱っていたが、時代の流れで祖父の代には織物業に転身した。工場には力織機がずらりと並び、織り子さんたちが作業していた。父を始め、祖母、母も忙しく働く工房で、山岸さんは育ったのだ。 米沢の工業高校で染織を学び、卒業後はそのまま家業に入った。長兄が経営、次男の山岸さんは機械管理を担当。当時は服地が中心だったという。 力織機は、経糸が切れればドロッパーが落ちて機械が止まる。緯糸も巻き糸が少なくなるとストップするなど、なかなかに人間臭い。この面倒をみるのが織り子さんの仕事だ。そのためにも、機はいつも上機嫌に保ちたい。 「機械の調子は音で察知できるくらい仕事しましたね」 故障すれば、翌日までに修理を終えるべく、工場に泊まり込むこともしょっちゅうだった。ある日、元織り子のおばあさんが遊びにきて、ふと呟いた。 「昔はなあ皆おらたち機織ってたんだけどな、今の人は機織っとらんもんなあ、という言葉を聞いたわけですよ」 当たり前のように力織機を扱っていた若き山岸さんは、虚をつかれた。機械織りと手織り。違いはなんなのだろう。 「屋根裏に放置されていた高機を思い出してね。工場の仕事が終わってから、とにかく一反織ろうと思ったんです」 苦労して織り上げた紬は、指先で押すとふわっと戻った。しかも軽い。機械織りは指跡を残したままで重さもある。 「これがわたしのスタートだね」 力織機の申し子だからこそ、その差が痛いほどわかった。コペルニクス的転回が山岸さんの内部で起こったのだ。木製ゆえのひずみがある手機から生まれる風合いは、着心地が断然違う。そう気づいた山岸さんは、仕事が終われば機に向かった。寝食を忘れるほどに取り憑かれた。同時期、草木染めの素晴らしさにも衝撃を受けたという。上杉家の名品を収蔵する上杉神社稽照殿にある、謙信公ゆかりの刈安染めの装束。 「昨日染めたような金茶色でね。保存もいいのだろうけど、400年も経ってなんでこうなのか、と」 そうか、糸も染料も生きているからだ。 「変わっても見られるもの。つまり変化してなお美しいものが、明治以前のものづくりなんですよね」 糸にも注目した。不思議なきらめきがある。 「明治以前の糸は扁平糸なんですよ。座繰り糸を取るときに赤ちゃんの産毛に当てて引き出していたんです。すると扁平になって鞣(なめ)され、軽くて丈夫にもなったんですね」 糸、染め、織りの三拍子揃ってこそ、風合いのいい美しい生地が生まれる。ただ原点回帰するのではない。現場を知り、手を動かし、目で確認して、より美しくなる方法を選択する。それが、非効率的で、生活に負担をかけることであっても、山岸さんは信念を曲げなかった。ほんとうの草木染めを求めて
独立前、山岸さんは伝統的な紬の産地である結城で修業し、草木染めの心を山崎青樹氏より学んだ。草木染めという言葉は、山崎青樹氏の父、山崎斌氏が化学染料に対し、天然染料の表現として、生み出したものだ。息子である青樹氏はその言葉を独占せず、草木の色の美しさを知ってもらうためにも、広く使われることを願った。青樹氏の「草木染めは心の豊かな貧乏でないとできないよ」という言葉にも打たれた山岸さんは、紅花や藍草、山藍を始めとする染料になる植物を自分で育て、また昔ながらの自然媒染や無媒染で色素を染め重ねようと考える。紅花の寒染めでは、前年染めた糸に染め重ねる作業も平行して進めていたことを思い出す。 「植物染料って時間が経つほど糸の奥に浸透していくんです。だから1年寝かせて染め重ねるといい色になるんです」 また、時間をかけていい色を定着させるためには生糸の天然コーディングであるセリシンと呼ばれる蛋白質が重要になる。これがまた悩ましい。 「仕入れた真綿や糸だと製糸する過程でセリシンを取り除きすぎるので、植物染料が定着しにくくて、染めムラができるなど思うような色にならないことがあったんです」 よりよい繭を探しているうちに、山岸さんはいっそ自分で養蚕を手がけようと思い立つ。これは寒染めよりも大変な作業ではないだろうか。餌になる桑も育てなければならない。しかし、「ないものは作る主義なんです」と楽しげに笑う。 糸作りも、自ら紡ぎ、工夫を重ねた。 「軽さと温かさを求めると、中空の糸が理想なんです」 ここではフライヤーと呼ばれる糸繰りの道具の力を借りることを選んだ。ブーンと唸るワイヤーが繭を袋状に広げた帽子真綿に働きかけ、吸い込むようにして糸になるさまは、細い細いマカロニを連想させる。 「遠心力が働いて、ほとんど撚りを掛けることなく、中空の糸を紡げるんです。これは機械じゃなくて道具ですね」 そして、これらすべての集大成が機織りで、山岸さんがなにより好きな作業だ。すばやく踏み木を踏んで経糸が開口し切ったその瞬間に、緯糸の杼を投げて、まるでピアノを演奏するような姿で両手指の第一関節を使って、ぱんぱんっと筬を打つ。筬が経糸を通過する距離は最短で、緯糸がもっとも美しく見える位置に的確に打ち込む。素早く、リズミカルに、糸に負担をかけないこと。それが最も基本的な平織りを美しく織るために不可欠なのだ。 「私の織り方だと中空糸が扁平にもなる。つまり丈夫で美しい明治以前の糸になるんですよ」 山岸さんの織りは、基本経糸・緯糸ともに真綿の紬糸だが、高機でありながら、経糸の張りを微妙に調節する工夫をして、腰で経糸の張りを調節する地機織り結城紬の風合いを可能にした。こうして生まれるのが、草木染めの双紬織物である赤崩紬だ。 「結城紬は真綿の、大島紬は生糸の双糸。同じ性質の糸同士のほうが丈夫だとわたしは思うんです」 赤崩紬を結城紬や大島紬と並び称される存在にすることが、山岸さんの目下の目標だと言う。古きを温め、未来を目指す
紅花の寒染めを始めとする山岸さんの仕事ぶりは、ぬるま湯に浸かり野性を失った現代人にとって鮮烈な感動を呼び起こすものだ。が、同居する家族にしてみれば、なかなかにしんどい暮らしだろう。実際、「子どもたちに反発された時期もありました」と山岸さんは回想する。家業を継いで欲しい思いが空回りしていた時間が長く続いた。しかし…。
昨年の日本伝統工芸染織展に、山岸久子の名前があった。山岸さんの長女だ。
