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刺繍美 三世 樹田紅陽の世界(2018年公開)|和織物語

※こちらは2018年に公開した記事です。

著者:切畑健(京都国立博物館名誉館員)

 樹田紅陽(樹田つぎ・1948年〜、1988年 三世襲名)の作品に初めて対した時のことを思い出します。先ずは個展会場が一般的な画廊である事を不思議に思ったことが忘れられません。そして実際に作品を見て「なるほど」と別の思いを持ったことも忘れられません。つまり樹田家の三代にわたる刺繍を中心とした家業の伝統をきわだてる作品が展示されていると早合点していたのです。しかし異なりました。そこには格調ある伝統をふまえつつも、現代の造形作家が、刺繍という表現の技術をこんなふうに扱って、現代のきものや帯、つまり現代そのものと格闘している姿が存在しました。そこで又しても思いつく事があります。まずそのことに触れておきます。以下に述べますように、それは物造りの基本の大切な一つであり、物造りの枠をこえてあらゆるこの世の営みの真理と考えられることです。樹田の取組にこの考えがしっかり存在することに感動します。前置きが長くなりました。ここで注目したいのは、突然でとまどわれるでしょうが『友禅ひいなかた』の一文なのです。「ひいなかた(雛形)」はご承知のように、江戸時代を通じて行われた、肉筆や木版によって小袖などにあらわされる多彩な意匠文様集です。「ひいなかたぼん」ともよばれます。その内の注目すべき一冊に『友禅ひいなかた』があります。これは貞享じょうきょう5年(元禄元年・1688年)正月に刊行されたものです。その序文末尾に筆者自身が日置友尽斎清親と署名しています。この人物のことはよくわかっていませんが、今も「友禅染」の名で世界的に知られているあの宮崎友禅はこのころ扇絵師として絶大な人気の中心にいました。また一方では小袖文様の考案にも新しい視点を登場させ、さらに小袖などの文様染技術にもそれまでとは異なる優れた特色を見せました。例えば染め上がると水にいれても染料が落ちないこと。染めた裂地が絹ならではのしなやかさを失わないことなど、意匠文様の豊かな特色のうえにさらに技術上にも、いくつもの改良を加えたことが知られています。日置友尽斎はこの友禅の教えを受けたと考えられます。おそらく友禅の後押しを得て『友禅ひいなかた』を出版したのでしょう。
 ここで樹田が登場することとなります。つづけて述べますように、樹田が伝統の重々しい環境にありながら、現代としっかり向き合っていることと相通じることがすでに江戸時代中期初めの『友禅ひいなかた』に記述され実行されているのに注目されます。今(貞享のころ)これほど友禅染が世の上下を問わず人気を得ているのはその文様や表現が
 「古風の賤しからぬをふくみて
 今様のきゃしゃ(華奢)なるものにかなひ」
しているからだとあります。つまり品格の高い伝統が尊重されているからですとまず指摘します。しかし言外には、「そればかりでは時代おくれになりますよ」との考えがひそめられていると思えてなりません。そこですぐに「今様」の語がつづくのです。つまり現代の感覚・美意識を反映させる革新性について述べるのです。そのころの現代感覚を香車(華奢)ととらえています。すなわち弱々しいまでに細っそりとしたきわめて洗練された華やかさをさしています。しかし、この考えの述べられた貞享・元禄のころの小袖意匠は華奢という表現はふさわしくありません。そのころは豪奢であっても骨太の、むしろ武骨ともいわなければならない華麗さが主流でした。そうです、友禅とその教えを受けた友尽斎は、爛熟の極に達しようとしていた次のほうえい(1704年〜1710年)、しょうとく(1711年〜1715年)期を見据えていたといえます。各種ひいなかたや、現存する小袖資料によりますとまさに宝永、正徳期こそ「華奢」と表現するのがふさわしく、二人はその先を見越した美意識で染織界を感じていたのでした。まさに新時代を予感し、生み出す原動力でもあったのです。染織分野にのみ限りません、この「古風」「今様」を両立させる考えは、繰り返しますがあらゆる人々の営みの場での真理なのです。
 樹田の制作に向かいますとこの友禅・友尽斎の言葉と生きざまが想起されます。さらに同時に樹田の世界を支えつづけた、品格ある伝統と現代をとらえ造形世界で自らを追求しつづける樹田の存在が浮かびあがります。ここでは次にその樹田が品格ある伝統と現代と取り組む革新の思いによる造形への一端をうかがうこととします。樹田のすべてを紹介しつくせないもどかしさ、筆者の無能を早くもおわびしなければなりません。
 初世紅陽のこと、樹田の祖父(初世紅陽)樹田国太郎(1889年〜1958年)は小学4年卒業後すでに著名な京の刺繍師・渡辺伝吉の門に入り、本格の繍技を仕込まれました。(以下は、廣田孝『明治大正期の染織資料の研究(髙島屋史料館所蔵)京都女子大学研究叢刊五十五』、 手記「履歴にそえて 樹田紅陽」などによる)やがて京都染織業の老舗で繍仕事に従事し、太平洋戦争前は帯の制作にあたっていました。しかし樹田が幼少の頃にはすでに繍針を持つ仕事からは、はなれていました。それは若年からの視力酷使によるものと考えられています。現代でも日本の染織美の伝統を代表する環境で本格の仕事がつづけられました。その中にそのころの世界が注目した、絵画を忠実に刺繍で表現する日本ならではの仕事がありました。類する初世の作品として23歳(明治44年・1911年)時の「太平洋の怒涛」が知られています。ライオンの雌雄が太平洋の荒波に向かって咆哮する姿を、原画は油彩画ながら繍技ならではの写生味豊かな立体感で表現しています。
 二世紅陽のこと、樹田の父・樹田国蔵(1917年〜1987年)の活躍期は、大戦中のことで、その苦労のほどが察せられます。それでもやがておとずれるに相違ない復活期を目ざしつつ、戦後は進駐軍向けのみやげものとしてネクタイ、ハンカチ、ジャンパー、ガウン、アルバム誌などに繍入れし納めたそうです。やがて和服の需要がのびはじめ、本来の仕事である繍のきもの、帯などを各地の呉服商に納めます。樹田自身は京都市立芸術大学西洋画科に入学、卒業します。手記によると「画家への強い志望ではなく、美術に潜む精神性にひかれていた」とのことですが、そのころのもちろん身近な繍美をはじめとする、多様な「美」とのふれあいから得られた「何か大きな存在」が、樹田を導き、今日の樹田をあらしめることとなったのにちがいありません。その在学中のこと二世は脳溢血に見舞われ、残念なことに半身不随となり制作をあきらめざるを得なくなります。本人はいうまでもなく周りの人々の落胆が偲ばれます。

すべて樹田紅陽作
すべて樹田紅陽作 (上)袋帯 本金引箔地組繍 『煌々』、 (下)プラチナボーイ 名古屋帯古代紫地繍 『極光』

 そのころ樹田は自ら落胆をはねのけます。つまり日蓮宗の衣笠常修寺で一か月ばかり修行をします。それは「真似事のようであった」と謙遜しますが、樹田は文通の都度「合掌・再拝」の表記を必ず大切にするというようにその修行はやがて創造する自分を見つめる精神の鍛練であったのにちがいありません。次のように手記はつづけます。ある夜、居間に置かれていた二世の制作になる繍衝立に対します。そこで刺繍表現の奥深さにうたれます。修行によって得られた心の眼が自身にとって何が大事かを見きわめさせます。ほぼ同時期にさらに感動が重なります。岡山市の美村元一氏の作品との出会いでした。そしてついに本格的に刺繍の道に入ることを決心します。このような矢継ぎ早の展開がこの後の樹田の刺繍生涯を決定したのです。その出発が家業の環境であり精神的な修行の場そのものであったと言えましょう。美村氏には岡山で2年間にわたって本格の指導を受けます。氏は細かな織組織のことがわからなければとても扱えないかけつぎ業もこなされ、細い糸を用いたきわめて繊細な繍技術を指導されました。樹田がこのころ早くも2年目にして京都府伝統工芸技術コンクールで佳作賞をうけたことはそのおかげによるものでありましょう。この時期と重なって樹田にとってもうひとつの大切な繍とのかかわりがあります。それは刺繍家・間所素基氏の作品との感動的な出会いです。そして、2年間の岡山での修行から帰洛後、重ねて間所氏に師事し多くのことを学びます。今日の樹田の根幹を形づくっているともいえる、まずもって注目されるのは、制作・造形理念への言及。具体的な繍技を取り上げては、陰影や奥行き表現に欠かせないよりいとづかいの魅力ある本質。先にも「太平洋の怒涛」で見ましたが、明治時代以来の写生にもとづいた繍表現などです。このときは週4日ばかり、大阪の堺に通いました。
 手記はなおつづけます。先引の履歴にそえられた手記に、それぞれの方々から何と多くの豊かな恩恵が与えられたかがうかがえて又しても感動されます。そのことは樹田の繍制作を取材した「繍の道は、精進−樹田紅陽さんの40年−」(『季刊銀花一五四 江戸の粋、京の華−再び現れた近世刺繍の傑作』文化出版局)に樹田の言葉としてきわめて印象的に収録されています。繰り返しますが、その都度、深々とした伝統と、現実と未来を見据えて常に革新の心を前面にする樹田が育てられたと言って過言ではないと考えています。
 すでに三世を襲名(1988年)していた樹田の成果の一つが、祇園会保昌山の山の四面を飾る胴掛けの復元です。それは平成2年(1990年)のことです。まず「蘇武牧羊図」から始まります。復元は断続的に平成10年(1998年)までつづけられ、ついに完成を見ました。復元はいうまでもなく原本があり、単に旧本のとおりに復していると思われますがとんでもありません。と言って新しい何かを付け加えているのでもありません。樹田の復元に接した時、そこに現代が存在していると胸のときめきを感じたことを思い出します。保昌山胴掛には円山応挙(1733年〜1795年)の下絵屏風が共に伝えられています。樹田ははぼ250年の時間をさぐりさぐり手繰り寄せました。素材・意匠・技法の伝統を忠実に抑えた復元にどうして現代が感じられるのか。『友禅ひいなかた』のあの言葉を思い出します。また樹田は原本について、つぶさに観察し、なぞった経験から、当時のぬいびとたちが各部分に、持てる「最新」の力を発揮したのを感じたと言います。ここで指摘の「最新」は繍人達の精神上の高揚そのものでしょうか。さらに樹田自身は「迷いが生じると応挙の原画と向き合ってその品格や芸術性」にうたれ、新しく力を得たと言います。あらためて繰り返しますが、初世・二世の繍を通じての現実と確かな向き合い、三世を指導された方の理念ははるか『友禅ひいなかた』に通じていると言いたいのです。
 最後になりました。次のことは本来もっと詳細に述べられなければなりませんが、それは是非とも次回展にゆずるとして、樹田がすでに初めての個展で取り組んでいました意欲的に追求する幾何学的抽象表現を落とすことはできません。樹田はそれらについて「三次元的に表現されたキュは、宇宙に浮かぶ箱か、コンピューター・グラフックスを見るような不思議な感覚を与える」(『デザインの現場』美術出版社)と言います。見る者も不思議な感動に立ちつくします。その造形には絹糸ならではの魅力が生き、せいがいくみぬいすがぬいぬいさがぬいこまぬいなど、繍技の伝統そのものが競いあっています。まさに
 「古風の賤しからぬをふくみて
 今様の香車なる物数寄にかなひ」
の世界が展開しているのです。

こうよう 年譜

1948年 京都に生まれる。祖父は初代樹田紅陽(国太郎) 1971年 京都市立芸術大学美術学部西洋画科卒業。父、国蔵に師事 1973年 美村元一先生に師事 1975年 間所素基先生に師事 1980年 東大寺昭和大納経櫃覆刺繍制作 1990年 祇園祭保昌山胴掛類復原刺繍制作 以降現在まで保昌山胴掛や船鉾の水引の復元・修理、 函谷鉾天井幕の新調に携わる。 2001年 伝統文化賞(財団法人 民族衣装文化普及協会) 2005年 国立京都迎賓館 大晩餐室几帳野筋刺繍制作 2018年 奈良国立博物館「糸のみほとけ展」に技法解説資料展示等に協力 京都府匠会会員/京都祇園祭山鉾連合会・調査員/(社)文化財保存修復学会会員

きりはたけんプロフィール

1936年5月 大阪市に生まれる 1963年3月 京都市立美術大学(現・京都市立芸術大学)日本画科卒業 1963年10月 京都国立博物館学芸科勤務 1990年4月 大手前女子大学(現・大手前大学)日本文化学科勤務 2005年3月 退職 現在、京都国立博物館名誉館員

刺繍美 三世・樹田紅陽の世界|10月催事

京都で繍を司る樹田家。初世・紅陽(樹田国太郎氏)の孫として生まれ、京都市立芸術大学西洋画科卒業後、二人の師より繍表現を学び、39歳で三世・樹田紅陽を襲名。
祇園祭の山鉾「保昌山」胴懸類の復元や国立京都迎賓館内の几帳刺繍制作など、文化財修復にも携わり、深淵なる伝統を仰ぎながらも、現代に生きる刺繍美として革新性を宿した作品を手掛けています。
一針、一針の集積が軌跡となる樹田氏の世界をぜひ、ご高覧ください。

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