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日本の刺繍文化の歴史~祈りの繍仏から、贅を尽くした服飾装飾、さらに教育へ|知るを楽しむ

日本のみならず、世界各地に存在している刺繍。具体的にいつどこで発明されたものなのかは明らかでないものの、古代エジプトのピラミッドからビーズ刺繍を施した布が発見されているなど、非常に古い歴史を持っています。

刺繍は、高位の人々や聖職者の権威を示すためのステイタスシンボルになったり、子供を病気や悪霊から守る魔除けとして使ったりと、その時代や地域に応じてさまざまな用途で取り入れられてきました。

そんな刺繍は、日本ではどのような歴史をたどってきたのでしょうか。今回は、日本の刺繍受容の変遷を「宗教・呪術」「服飾装飾」「教育」の3つの側面からご紹介します。

宗教的・呪術的に受容された刺繍

 

『刺繍釈迦如来説法図』 / 奈良時代または中国・唐時代・8世紀
出典:国立文化財機構所蔵品統合検索システム

日本の刺繍は、5世紀頃にインドから中国を経由して仏教とともに伝来した繍仏(ぬいぼとけ)が起源と考えられています。繍仏とは、刺繍によって仏像を表現したもののこと。代表的なものとして、奈良・中宮寺に伝わる『天寿国曼荼羅繍帳(てんじゅこくまんだらしゅうちょう)』が挙げられます。これは、聖徳太子の死を悼んで、妃である橘大郎女(たちばなのおおいらつめ)が推古天皇の許可をとって采女(うねめ)と呼ばれる女官たちに作らせたと言われているものです。

また、正倉院にも多くの刺繍群が残されています。仏教による国家鎮護を進めていた奈良時代、多くの官寺(かんじ・国が監督する寺)が建てられ、それに伴い専業の職工が諸堂を飾る多くの荘厳具(しょうごんぐ・人々に浄土を想起させる善美を尽くした装飾品)を制作。法会を飾る幡(はん・仏教祭祀で用いられる旗)や余興で演じられた伎楽(ぎがく・寺に奉納された舞楽)の装束などの遺物に、当時の刺繍技術を垣間見ることができます。

 

『刺繍釈迦阿弥陀二尊像』 / 鎌倉時代・13~14世紀
出典:国立文化財機構所蔵品統合検索システム

その後、平安時代になると末法思想(まっぽうしそう)※の高まりから、貴族を中心に造寺造仏が流行。仏教が国家だけでなく個人を救済する教えとして広く受け入れられるようになり、鎌倉時代にかけては小ぶりな繍仏も作られるようになりました。

※末法思想・・・平安時代に流行した仏教の歴史観。 釈迦の死後、次第に教えが廃れ、悟りを開けず現世では救われることがなくなるという考え。

ひと刺しひと刺し無心で縫っていく繍仏制作の単調な作業は、読経や写経と同様に追善作善※の意味が込められるようになり、発願者、あるいは追善するべき個人の毛髪を繍いこむこともあったといいます。実際に、伊豆山神社に伝わる『刺繍法華曼荼羅』には、頼朝の供養のために夫人の北条政子が自分の毛髪を用いて縫ったといわれている刺繍が残されています。

※追善作善・・・追善は、死者の冥福を祈り善を積み、死者の悪業を軽減するもの。作善は、よい報いを招くもとになる行いを積むこと。

また、現代でもお宮参り等で子供の着物の背中に施される縫い「背守り(せまもり)」も、鎌倉時代にはすでにあったようです。古くから「目」は魔除けの力があると信じられており、背縫いの縫い目も背後から忍び寄る魔の力を防ぐものと考えられていました。そのため、子供の一ツ身のような背中心に縫い目のない着物の場合は、背守りがその役割を担っていたのです。

服飾装飾としての刺繍

仏教信仰という宗教的な様相を持っていた刺繍ですが、一方で奈良時代においては、朝廷内で働く役人の官位を表すものとして官服に刺繍文様が施されていたようです。

また、戦で武士が身にまとう胴服や陣羽織にも多用されていました。具足や小袖の上に羽織る上着であるため、刺繍をはじめ、辻が花や舶来の織物などを使用し、自らの美意識や威厳を誇示。個性を競い合う伊達な衣装として、自らを鼓舞するとともに、敵を圧倒する一つの手段になっていたと考えられます。

 

『陣羽織 萌黄繻子地獅子模様』 / 安土桃山時代・16世紀
出典:国立文化財機構所蔵品統合検索システム

そんな刺繍が一般的な衣服の意匠表現のひとつとして現れ始めたのが室町時代以降。貴族の下着だった小袖が普段着として着用されるようになった時期でもあり、特に桃山時代は男女問わず華やかな刺繍の衣服を身につけており、日本の刺繍史史上もっとも魅力的な時代と言えます。

 

桃山小袖『縫箔(子方) 白地桐鳳凰芦桜雪持竹肩裾模様』 / 安土桃山時代・16世紀
出典:国立文化財機構所蔵品統合検索システム

桃山時代の小袖は、肩と裾だけに模様を配置する「肩裾」や、左右片身ずつで意匠を変える「片身替わり」、上下左右で区切った「段替わり」など、整然と区画された左右対称な構図が特長。摺箔(すりはく・型紙を用いて金箔をこすりつける装飾技法)と刺繍を併用し、植物などのモチーフが伸びやかに表現されており、武家も庶民もこの時代ならではの華やかで自由な装いを楽しんでいたようです。

 

慶長小袖『小袖 染分綸子地若松小花鹿紅葉模様』 / 江戸時代・17世紀
出典:国立文化財機構所蔵品統合検索システム

桃山時代の優美な小袖は江戸時代の慶長小袖に受け継がれます。刺繍や鹿の子絞り、摺箔など桃山時代の技法を踏襲しつつ、山水花鳥などさまざまなモチーフをより躍動感あふれるデザインで表現しています。

 

寛文小袖『小袖 白綸子地叉手網模様』 / 江戸時代・17世紀
出典:国立文化財機構所蔵品統合検索システム

寛文~元禄期になっても刺繍や鹿の子絞りを主体とする意匠は健在。

寛文期の小袖は、慶長期に比べて余白を十分にとりながら大胆なモチーフを展開する左右非対称な構図になっており、元禄期の小袖は寛文期より文様部分が拡大。どちらの小袖も、経済力を持ち、文化的流行を先導するようになった町人たちの旺盛な装飾欲が結実したものと言えます。

 

元禄小袖『小袖 白綸子地透垣鉄線茅屋模様』 / 江戸時代・18世紀
出典:国立文化財機構所蔵品統合検索システム

しかし、17世紀後半ごろになると、町人たちの贅沢志向に歯止めをかけるべく、幕府が鹿の子絞り・金紗(金糸)・縫箔の制作・売買・着用を禁止する禁令を発布。また、この頃には縫箔による意匠の洗練度や独自性が高まる一方、刺繍と絞りのみによる文様表現の限界が現れ始め、新鮮味に欠ける傾向がありました。

そんな停滞した小袖意匠に大きな変革をもたらしたのが友禅染でした。糸目糊と多彩な色挿しによる染色技法によって、刺繍や絞りだけでは叶わなかった新たな模様表現が可能に。刺繍は、公家や武家の小袖、婚礼衣装を除いて、染文様の色彩や立体感を補う補助的なものとして定着していきました。

 

『単衣 紫浅葱腰替絽地流水草木模様』 / 江戸時代・19世紀
出典:国立文化財機構所蔵品統合検索システム

補助的な技術におさまった刺繍でしたが、江戸時代後期になると、より洗練度の高い精緻で写実的な繍技が見られるようになります。明治時代になるとその傾向がより顕著になり、意匠考案に画家が参画するなど、次項の染織品としての刺繍に受け継がれていくのです。

女性の社会進出のための刺繍

明治時代後期から末期にかけて、日本では日本画を図案にした大型の染織品を積極的に制作。これら刺繍絵画とも呼ばれる染織品は国内外の万博等で高く評価され、日本を代表する美術品、かつ輸出用作品となり、染織業界において注目を集めました。

 

『刺繍孔雀図屏風』 / 明治26年(1893)
出典:国立文化財機構所蔵品統合検索システム

そんな海外向けの新産業のひとつになりつつあった刺繍は、女性の社会進出の手段としての側面も見せます。明治時代前期まで、女子教育の一環として趣味や実用向けの慣習的な手芸は行われていましたが、明治時代後期になると職業としての刺繍教育も行われるようになります。特に明治維新の影響で染織業界が壊滅的な状況になっていた京都では経済再建の施策の一つとしていち早くこの傾向が見られ、すでに明治5年にはイギリス人を招聘して学校を設立し、和洋両方に通じる手芸や裁縫、指導者の育成が進められました。

さらに、明治時代末期から大正時代にかけては単なる技術の習得に留まらず、もともと分業で制作していた刺繍絵画を、図案の描画から作品制作まで一人で行える高い技術とセンスを持った職人や作家のような人材育成も行われるようになります。刺繍は女子教育を通じて新たな可能性を広げ、美術分野の発展と女性の社会進出にも大きく貢献したのです。

以上のように、縫うという行為は本来、繋ぐ、封じる、強化するためのものですが、針と糸さえあれば簡単にできる上、自由な模様表現が叶うことから、人々はそこにさまざまな想いを込めて刺繍文化を紡いできました。

身近な技術だからこそ、人々の想いの置き所になっている刺繍。この令和の世で私たちは刺繍にどのような意味を込め、次の世代に繋いでいくのでしょうか。

刺繍美 三世・樹田紅陽の世界

銀座もとじでは、京都で繍を司る三世・樹田紅陽氏の刺繍美を堪能できる催事を開催。
文化財修復にも携わるなど深淵なる伝統を仰ぎながらも、現代になじむモダンで革新的な作品を多く手掛けています。

樹田紅陽氏と京都国立博物館名誉館員・切畑健先生によるぎゃらりートークも予定しておりますので、ぜひ奮ってご参加ください。

京都で繍を司る樹田家。初世・紅陽(樹田国太郎氏)の孫として生まれ、京都市立芸術大学西洋画科卒業後、二人の師より繍表現を学び、39歳で三世・樹田紅陽を襲名。
祇園祭の山鉾「保昌山」胴懸類の復元や国立京都迎賓館内の几帳刺繍制作など、文化財修復にも携わり、深淵なる伝統を仰ぎながらも、現代に生きる刺繍美として革新性を宿した作品を手掛けています。
一針、一針の集積が軌跡となる樹田氏の世界をぜひ、ご高覧ください。

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作品一覧はこちら


【参考】
日本刺繍 紅会
『桃山時代における小袖の意匠について』中島清子
『明治時代後期における「繍畫」の誕生と発展』中川麻子
『明治時代の女子教育における刺繍について』中川麻子・田中淑江
『別冊太陽 美を極めた染めと織り 小袖からきものへ』

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