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おぼろ型染について|読みもの

2026年3月 篠原優子さんの工房にて

おぼろ型染について

このたび、篠原優子さんよりお借りした貴重な資料を、ご了承のもと転載させていただきます。
本文は、お義母様である篠原晃代さんのこと、晃代さんが師事された人間国宝・鎌倉芳太郎先生のこと、さらに琉球紅型から朧型へとつながる流れについて記された、大変貴重な内容です。
あわせて、今回拝見した工房の様子やお写真も掲載しておりますので、ぜひご覧くださいませ。

篠原染織研究所 篠原優子 著

第一章 おぼろ型染について

㈠琉球紅型びんがた朧型おぼろがたとは

細かい文様の抑えた色調、異なる2枚の柄が織りなす複雑で奥行のある染の着物。朧型の技法で染めたおぼろ型染を皆様に知って頂くために、成りたち・技法とおぼろ型染の源流ともいえる琉球りゅうきゅう紺屋こんや宗家そうけ沢岻たくし家について紹介します。
沖縄の誇る染色・紅型の一技法で、渋紙に彫られた型紙を2枚以上使用して糊置きを重ね顔料で色差しをする型染めがおぼろ型染です。(地色にも顔料を用います)朧型として琉球紅型宗家の一つ沢岻家に代々伝わってきましたが、昭和48年篠原晃代が日本工芸会に初出品した時より鎌倉先生のご指摘を受けこの分かり易い表記にしています。
数ある日本の染色工房の中で古琉球紅型由来の柄・地色の両方に顔料のみで染めを続けていますのは今や私の工房だけかも知れません。制作技法は後述する紅型とほぼ同一の工程で作られます。五彩の色鮮やかで大きな文様の紅型に対して、細かい模様で控えめな印象ながら飽きのこない文様が着る人を美しく引き立てる、染の着物といえども絵絣などの紬織の風合いも持った染色です。一般的な一枚型染めの工程を2度以上繰り返しますので、デザイン・型紙作成・本染に2倍以上の時間を要し、年間の制作は多数というわけにはいかないのが残念です。 私の工房で創るおぼろ型染は日々の仕事や生活を大切にする大人の女性を引き立てる色と柄を考えています。文様は伝統的紅型文様も大切にしつつ細模様に拘ることなく動植物や空や風、月、星などの自然現象中心に幾何学文様を取り入れながら新しいおぼろ型染の創造につとめています。

篠原 晃代てるよ 年譜

1928年(昭和3年) 東京都北区に生まれる
人間国宝故鎌倉芳太郎に師事。中野区沼袋の鎌倉先生の工房にて直接の指導を受け、沖縄の紅型宗家・沢岻家に伝わる朧型染を学ぶ。日本画を望月春江に学ぶ。鎌倉先生から直接学んだ唯一の弟子として(公社)日本工芸会に所属しておぼろ型染による作品を発表しました。
1973年(昭和48年) 日本伝統工芸展に初入選
1975年(昭和50年) 日本伝統工芸染織展に初入選
1976年(昭和51年) 日本工芸会正会員に認定
1977年(昭和52年) 鎌倉芳太郎先生が石垣島の名誉市民に選ばれた祝賀会に先生ご夫妻と共に石垣島へ
1982年(昭和57年) 第19回伝統工芸染織展にて東京都教育委員会賞を受賞
「おぼろ型染長着 花篝」
1987年(昭和62年) 第24回伝統工芸染織展にて文化庁長官賞を受賞
「おぼろ型染長着 漣」
1989年(平成元年) ニューヨークメトロポリタン美術館に紅型染額を寄贈、収蔵される。
1992年(平成4年) 第32回伝統工芸新作展にて日本工芸会賞を受賞
「おぼろ型染長着 玲」
2013年(平成25年) 日本工芸会功労会員に認定
2022年(令和4年) 4月26日逝去 享年93歳

(写真左)篠原晃代さん(写真右)篠原優子さん

㈡おぼろ型染の源流―沢岻たくし家の歴史

紅型の制作は琉球王府紺屋三宗家城間しろま家・知念ちねん家・沢岻たくし家が代々携わってきましたが、摺込み手法印金型の浦添型と朧型の制作は沢岻家の秘伝とされてきました。 沢岻家宗家の大沢岻家は紺屋のうち最も古い家系で代々首里市に居住。明治時代につくられた元祖書「処方御神拝並御水撫日記」によると、琉球王国が隆盛を極めた琉球国12代しょう貞王(1645~1709)の時代に、初代秋林皎月禅定門が染色業を始め王国黄金時代13代尚敬王(1700~1752)の時に絵師山口宗季と共に活躍した沢岻家三代本源了心禅天門は功労により掟親雲上うつちべえちんになりました。この称号は首里王府の下級士族の中の高い位で大沢岻だいたくしの基を築いた人物です。以降、琉球処分(1879年明治12年)による沖縄県配置までの長い間首里で家伝の仕事を継続してきましたが王家の庇護のもとに栄えた染色業も明治期以降衰退し12代王仁わに氏の代には長年工房のあった首里から那覇市に移転。大正15年と昭和2年この地で鎌倉芳太郎先生との運命の出会いがあり『浦添型うらそえかた見本帖』や『風呂敷型手本帖』等貴重な家伝の資料、及び技法を直接伝えました。その後残念ながら筆頭宗家の大沢岻家は王仁氏を以て途絶えたことから「幻の朧型」といわれた時期がありました。
今私たちが沢岻家に始まるおぼろ型染を皆様に紹介できますのも奇跡にも近いお2人の出会いがあればこその事と感慨深い思いになります。
琉球王国時代の実物史料としては那覇市歴史博物館に琉球国王尚家しょうけの「紅型衣裳」、沖縄県立芸術大学附属図書館・芸術資料館所蔵の『鎌倉芳太郎資 料』として「紅型見本・裂」として保管されています。尚、鎌倉先生が沖縄調査で収集した膨大な琉球芸術資料(「鎌倉ノート」を中心とする文献資料の他、『沖縄文化の遺宝』で紹介された写真資料、そして紅型関係資料)は1986年の沖縄県立芸術大学の開学を記念した第1次寄贈から2007年まで4回にわたって沖縄県にその全てが寄贈されました。

第二章 鎌倉芳太郎先生と沖縄

世に比類を見ない沖縄の文化財の数々は第二次世界大戦による戦禍で大部分は失われました。しかしながら東京美術学校を出た若き日の鎌倉芳太郎先生が大正10年沖縄県女子師範学校の教諭として那覇市に赴任した事で染織を始めとする戦後沖縄の文化財復興が果たされたともいえるでしょう。
沖縄の紅型の研究者、伝承者、重要無形文化財「型絵染」保持者、人間国宝鎌倉芳太郎先生の功績については私から申し上げるまでもなく、また短い紙面でその業績の全てを詳らかにすることは不可能なことですが、若い方のためにぜひ記憶に留めて欲しいとの思いからここにご紹介します。
明治31年(1898)10月19日香川県に生まれ、香川県師範学校本科第一部を卒業。『学問好き絵もまた好きで、一五歳頃から日本画を学ぶ機会に恵まれ、将来は富岡鉄斎のような学問のある絵かきになりたい、郷土の人平賀源内も好きであったが、またレオナルド・ダ・ビンチのような生涯を送りたい、などと思うようになっていた』(「紅型は琉球工芸の王者」『季刊藍』より) 東京美術学校図画師範科を卒業した大正10年、2年の任期で沖縄に赴任。琉球芸術の研究、資料の収集や撮影に没頭。大正12年東京美術学校研究科に入学。正木直彦校長、帝大の伊東忠太博士の指導を受け更に琉球文化研究を続けられました。翌年財団法人啓明会の補助をうけ東京美術学校助手として沖縄県に出張。首里市の援助も得て尚侯爵家その他名家の所蔵品の調査・撮影、更に 建築、絵画、彫刻、漆工、金工、木竹工等にわたり文献資料、遺品の写真や実物収集に当たられました。大正15年には沖縄本島、奄美大島、宮古島、八重山の諸島にも足を延ばしそれら独自の文化を調査研究しました。大正13年からの調査で衰退の危機にあった紅型紺屋三宗家から技法の聞き取り、裂地や型紙など数千点の染色資料の収集など沖縄研究に没頭されましたが、この現地調査の研究業績を昭和3年『琉球染織に就きて』と題して東京美術学校にて講演。併せて展覧会も開催され工芸史料3000点を陳列致しました。昭和5年東京美術学校講師となり『東洋美術史』(イデア書院刊)を刊行。昭和12年には沖縄県にて首里城などの発掘調査を行いました。昭和20年東京中野の自宅が戦禍に遭い多数の蔵書、東洋美術史研究資料を焼失しましたが 琉球芸術資料は東京美術学校文庫に保管されていた為、戦火から逸がれることができたのです。
戦後昭和31年には琉球紅型の実大手彩色本を完成『琉球紅型』(京都書院)を刊行され、以降多くの文献をまとめ論文を発表されました。この前後より作家生活に入られ昭和33年日本伝統工芸展に初入選を果たしたのは60歳の時でした。昭和39年には冒頭の「藍朧型印金芦文 そう」で日本工芸会会長賞を受賞するなど以降紅型・朧型の作品を多数発表。更に昭和48年には重要無形文化財技術保持者「型絵染」に認定。昭和58(1983)年8月3日84歳でその生涯を終えられる迄数々の作品創りに励まれました。沖縄の空を思わせる暑い夏の日のご葬儀に先生のお人柄と業績を偲び多くの参列者がお見送りされた事、当時名古屋在住で三人の幼子を抱えて参列出来なかった私は姑からこの日のことを幾度となく聞いてまいりました。
昭和47年5月15日沖縄はアメリカより返還され本土復帰を果しましたが、同年2月には首里の琉球政府博物館にて『五十年前の沖縄』の記録写真展が開催され多くの方が来館されたそうです。先生の撮影した写真で多くの沖縄県民を勇気付けたこの展覧会は東京他の都市でも開催され、昭和57年『沖縄文化の遺宝』(岩波書店が発刊されました。太平洋戦争で失われた首里城を始めとする沖縄の貴重な文化財の再現に大きな力となり、現在の首里城はこの記録をもとに忠実に再現されております。2019年10月31日未明の首里城火災で再び正殿はじめ9施設が焼失しました。多くの人々の援助をうけ再建が進められ2026年には完成の予定です。

鎌倉芳太郎先生

第三章 紅型びんがたについて

沖縄の染織には芭蕉布、久米島紬、宮古・八重山上布を始めとした数々の織の名品がありますが、その色彩や文様の華やかさ、王家庇護のもと発展してきた歴史的観点からも突出した染めが紅型です。明るい直射日光のもとで自然に調和する色彩美の型染。花や木の植物・動物・海や山の自然の他多彩なモチーフで染め上げられてきました。現在も城間栄順氏、人間国宝玉那覇たまなは有公氏を中心として沖縄県で多彩な作品の数々が生み出されております。

㈠古琉球紅型とは

現代の紅型とは区別する為に明治期以前に制作されたものは古琉球紅型と呼びますがその歴史・名称・種類・技法・文様について取り上げていきます。その内「上手・首里型」の紅型は王家やその周辺の士族の為の染色であり清国、薩摩あるいは江戸幕府への朝貢にも使われた重要な貿易品でありました。同時代九州鍋島藩の御用赤絵師として活躍した今右衛門窯の様に、最も優れた技術を持つ家を筆頭家にして保護していたと同様、琉球王府は沢岻家、城間家、知念家の三宗家を御用紺屋として遇していたと思われます。ここでは首里型の古琉球紅型について取り上げていきます。

㈡その歴史

友禅の創造に先立つ14世紀以降中国明代に福建省から衣料絵画に用いられていた顔料彩色技法が移入され、琉球王家の庇護のもとに発展した染色が古琉球紅型です。現存最古の紅型は久米島で発見された「菊花鎖繋文絹地型 付胴衣裂地」(沖縄県立博物館所蔵)で初代尚円王の拝領品と思われることから15世紀には既に型付けの制作が開始しており、奄美大島大和氏伝来の「羽二重地筒引き糊置き色差簾に鉄線花・富士の花・檜扇」は16世紀のものと推測されます。琉球王家は三山統一した尚巴志の第一尚王朝の後、1470年初代尚円王が首里に開いた第二尚王朝は、13代尚敬王(1713~1751)代で文化産業を奨励して黄金期を迎えました。次代尚穆王(1752~1794)は久米島に養蚕業を起こし紬織、絹真綿の生産を奨励し、清との生糸貿易などで経済的にもまた文芸も興隆しました。時代はくだり19代尚泰王の時代1879年に琉球処分があり沖縄県が誕生ました。王朝の発展と共にその消長があった紅型は琉球藩の解体で絶対的庇護者を失い、紺屋宗家も新しい販路を求めていくが様々な困難に遭遇しました。第二次世界大戦で甚大な被害を受け紅型も壊滅的な危機に瀕しながらも、戦後は沖縄の皆さんのご尽力と鎌倉先生などの働きで見事に復活現在に至っています。

㈢名称と種類

「紅」は色の総称で「型」は模様を表します。名称の由来ついては諸説ありますが、その一つは城間氏による14世紀のはじめ中国から帰化した閩人びんじんが型染めの技法を移入して初期には閩型びんがた、後に紅型となったという説。また鎌倉先生は沢岻家史料の注文書には紅型の文字は見られず「型付」と記載された中に「紅差型」「紅入色型」の記述があることから、啓明会・第15回講演会『琉球美術工芸に就きて』で、先生自ら国内で紅型と紹介したのが最初とする説があります。種類はいくつかの分類法がありますがその内の4分類を紹介します。
〈技法〉一、紅型 二、藍型 三、朧型 四、浦添型
〈着装する階級〉一、御殿型 二、殿内型 三、若衆型 四、御冠船模様 五、がんじ型(稲妻)
〈型紙の模様の大きさ〉一、大模様 二、三分二中手 三、中手模様 四、中模様 五、細模様
〈作られた場所〉一、首里型(上手型) 二、那覇型・泊型(下手型)
型紙を使用せずに風呂敷などの型紙を用いずに糊置きする「筒描き」も広義では紅型に入ります。用途については先に述べた着装する階級の分類があるが藍型、朧型は王族、士族夫人の日常衣裳としても重宝されていたのではと推測されます。

㈣技法と文様

技法については現在の紅型染制作とほぼ同じと考えられ、17世紀京都に始まった友禅染が分業体制をとるのに対して全てを同じ紺屋で行います。奉書紙に柿渋で補強してデザインを施した型紙に刀で型を彫ります。その型紙を使用して米糠、糯米粉で作られた防染糊で型付けをした後に、大豆で作ったご汁で溶いた顔料を刷毛や筆で彩色する。最後に水元という糊を落とす作業をして完成。この染の作業は首里王府の役所である納殿うさみづん殿(舶載の貴重な薬用・工芸材料を格護)管轄下の紺屋が担いました。王府御用紺屋は下級士族として首里王府に属し貝摺奉行絵師がデザインを施した図案で制作、首里にて上手型付を代々生業として続いてきました。文様や色彩については、当時の身分や主従関係を重視する身分制度が色濃く反映されたもので、中国王朝にならった龍・鳳凰・牡丹などの大きい図柄は禁制模様とされ、色彩についても、黄色は王族専用、桃色は上下級士族、水色はその他の人々に許されていました。文様について、日本の能衣装に見られる有職文様、中国印花布、ジャワ、インド更紗の影響が見られるデザインに日本、東南アジアとの交流が認められますが、この様式の完成は13代尚敬王の頃と考えられます。これは、日本国内の慶長、寛文期の元禄小袖の広がりに続く友禅染の創作開始とほぼ同時代に当たり、絵画に近い文様表現の京や加賀友禅の影響も大であったと考えられる。当時の人気風俗画と言える菱川師宣の「見返り美人図」以降勝川春章、喜多川歌麿等の浮世絵の流布も創作に影響を与えたかもしれません。

これからの朧型

20歳代始めに姑の晃代に紅型の手ほどきを受け、子育て一段落の50歳を過ぎてから憧れのおぼろ型染にやっと取り組むことが出来ました。この昭和から平成に至る期間に着物を取り巻く環境は激変して、身近な衣類から憧れのお洒落着へ変わりました。また制作するサイドから見ますと国産生糸生産の減少、染色に欠かせない糊屋さんの廃業など供給面での不安もありますがそれにもまして創作活動は苦しくもまた愉しい日々の連続です。新しいデザインを考え、更に技を磨いて良い作品を丁寧に創っていきたいと思います。2020年の東京オリンピックの公式エンブレムに藍染の市松模様が採用されました。日本の伝統的な文様の良さを若い人たちが「いいね!」と言う時代がきたなと感じ心強く思っています。 東京沼袋の鎌倉邸に先生の面影を映すご子息日本美術院理事の秀雄先生ご夫妻をお訪ねする度に、美しく整えられたお庭の中央にある鎌倉先生が大切にしておられた梅の木を見るとなぜか身が引き締まります。鎌倉先生が重要無形文化財の指定を受け人間国宝に選ばれたのは紅型でなく型絵染。姑がこの横浜の地で古琉球紅型の型の復元と新しいおぼろ型の創作に多くのヒントを得たのもこの横浜の自然の景色からです。鎌倉先生が度々言っておられた言葉 「沖縄古謡の『おもろさうし』の抒情が紅型で歌われた様に、沖縄以外の日本では『万葉集』・『古今集』から繋がる美意識、幽玄美を染で表現せよ・・・」を創作活動の指針として新しいおぼろ型染を次代に繋げていければと思っています。


2026年3月に篠原優子さんの工房へお邪魔いたしました。工房内のお写真を一部ご紹介いたします。

工房写真1

工房写真2

工房写真3


おぼろ型染 篠原優子展|4月催事

若き日に、人間国宝鎌倉芳太郎先生に師事していた姑・篠原晃代の美しい紅型染めの布に出会い、幾年月を経てから染修行を開始出来ました。
自然を写しデザイン構成から渋紙に型彫りを経て型紙が完成して、染作業に入ります。二枚の型紙を用いてのおぼろ型染の作業工程の複雑さが面白く難しく、惹き込まれていくうちに二十数年が経ちました。
春の佳き日に、皆様のお越しを心よりお待ち致しております。

篠原優子

おぼろ型染 篠原優子展
会期:
2026年4月3日(金)〜5日(日)
場所:銀座もとじ 和染、オンラインショップ

催事詳細はこちら

【お問い合わせ】
銀座もとじ女性のきもの 03-3538-7878
銀座もとじ男のきもの 03-5524-7472

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