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1000年以上も続く西陣織を危機にさらした3つの歴史的出来事とは?|知るを楽しむ

室町時代に織られた能装束/唐織 紅茶浅葱段青海波柴束蘺秋草模様(出典:国立文化財機構所蔵品統合検索システム

1000年以上も続く西陣織を危機にさらした3つの歴史的出来事とは?

日本を代表する絹織物として世界的にも知られている西陣織。
その源流は5~6世紀頃に渡来人・秦(はた)氏が京都の太秦界隈に住み着き、機織り技術を伝えたことに始まります。平安時代になると朝廷直属の織部司(おりべのつかさ)という役所のもとで官営工房として組織されて高級織物を生産しますが、律令制の崩壊とともに織手(職人)たちは織部町付近の大舎人町(おおとねりちょう)に移住。独立して織物業を営むようになります。以降、今日まで日本の織物業を牽引し続けていますが、その道のりは決して平坦なものではありませんでした。

今回は、幾度となく直面してきた危機の中でも特に大きかったであろう3つの出来事を取り上げながら、西陣織の歴史を紐解いていきます。

【危機その1】
約11年間も続いた「応仁の乱」

 1000年以上も続く西陣織を危機にさらした3つの歴史的出来事とは?
伝足利義政像(出典:国立文化財機構所蔵品統合検索システム

応仁の乱は、1467年から約11年間も続いた戦乱。室町幕府8代将軍・足利義政の後継者をめぐり、細川勝元が率いる東軍と山名宗全(名は持豊、宗全は法名)が率いる西軍に分かれて、全国の守護大名が争ったものです。京都はその主戦場となり、織手たちはやむなく地方に逃れることになります。

しかし、戦後に織手たちは再び京都に戻り、山名宗全の陣所であった西陣の地に大舎人座(おおとねりざ)と呼ばれる同業組合のようなものを組織。以降この辺一帯は西陣と呼ばれ、織物の一大産地として発展していくことになります。

この一連の出来事について、京都市歴史資料館の井上館長は「応仁の乱は自分たちで身を守るという町衆の自治意識が生まれた契機となった」と述べています(「応仁の乱」後 織物職人集う 西陣誕生550年(もっと関西) / 日本経済新聞)。

11年という長きにわたる空白の期間があったからこそ、西陣の強固な結束力が育まれ、後に起こる数々の危機を乗り越えることができたのかもしれません。

ここで「西陣があるなら東陣もあるのでは?」という疑問を持つ方もいらっしゃるのではないでしょうか。

実際、東陣も存在していたのです。戦後京都に戻った織手の一部が、細川勝元の陣所であった東陣付近の白雲村で練貫座(ねりぬきざ)という組合を組織し、織物を織っていました。西陣の大舎人座とは権利問題などでたびたび衝突。練貫座が大舎人座の技術を模倣したと思ったら、今度は大舎人座が練貫座の技術を模倣するなどして対立し、訴訟問題にまで発展したことも。応仁の乱が終結した後も、京都の織物業界では東西の争いが続いていたのです。

しかし、最終的に大舎人座が将軍家直属の織物所に指定されるなどして保護を受け、その後京都の織物生産の主要拠点に。一方の練貫座は、天文16(1547)年を最後に、文献史料から姿を消しています。

【危機その2】
織機3000台以上が焼失した「西陣焼け」

その後も西陣は、中国・明の技術を取り入れるなどたゆむことなく技術の研鑽に励み続けました。江戸時代に入ると、幕府の保護を受けて16世紀後半に21町といわれた機業地は、17世紀末には160余町、織機数は7,000余機にまで拡大します。さらに、明暦3(1657)年に江戸が明暦の大火で大きな被害を被ったことで西陣に衣服需要が集中。奢侈の風が強まっていた元禄時代には最盛期を迎えます。特に西陣の中心だった大宮通今出川交叉点附近は、毎日のように糸商人と千両を超える取引が行われていたことから、千両ヶ辻と呼ばれていました。

しかし、江戸時代中期頃に第2の危機が訪れます。“西陣焼け”と呼ばれる大火災が西陣を襲ったのです。享保15(1730)年6月20日、呉服所・大文字屋五兵衛方を火元とする火災が起こり、西陣地区の大部分が焼失。織機約7,000台のうち、3,000台以上が燃えてしまったそうです。

これによって職を失った織手たちは地方に離散。逃れた地で技術を伝えたため地方の織物業の発展を促すことになりましたが、西陣にとっては大きな打撃に。幕府からの支援と、西陣の人々の努力によって火災の被害からは復興を果たしたものの、地方織物の台頭や江戸時代後期の株仲間解散・倹約令などが追い打ちとなり、西陣織は苦境の時代へと入っていきます。

【危機その3】
明治維新による「東京遷都」

各地で討幕派と幕府を擁護する勢力(佐幕派)との争いが勃発し、混沌と化していた幕末の日本。この動乱の最中に起こった「禁門の変(蛤御門の変)」で、京都は再び“どんどん焼け”と呼ばれる大火災に見舞われます。これによって現在の中京区・下京区のほとんどの地域が罹災。“西陣焼け”に次ぐ惨事となり、幕末の混乱期に起きたため復興も思うように進まず、西陣は窮地に立たされます。

さらに追い打ちをかけるように、明治2(1869)年に首都が東京へと移されます。その時の京都の人々の心情について、日本史学者・森谷尅久(もりやかつひさ)氏は「幕末の戦火をうけて、京都の65%が焼失した上に、その復興が緒につかぬ間に遷都とは何か落胆失望が京都をおおっていたのである」と述べています。

町が甚大な被害を受けたうえ、首都移転により消費者までも奪われようとする状況でしたが、明治政府の保護を受けて、西陣は新たな試みに挑戦。日本より技術が進んでいたフランスに人材を派遣してジャガード織物などのノウハウを習得し、近代化に成功。丁度この頃に興った着物ブームの追い風を受けて、再び西陣は日本をリードする織物産業の地として息を吹き返したのです。

以上のように、幾度となく深刻な打撃を受けながらも、1000年以上も技術を継承し続けてきた西陣織。それをなしえたのは、西陣の人々の結束力と新しいものを取り入れて模索する柔軟な発想、そしてトップに君臨しながらもたゆむことなく研鑽を積んできた職人魂によるものなのではないでしょうか。西陣織の軌跡は、卓越した技術だけでなく、困難な中でも生き抜くための知恵をも教示してくれているように感じます。

京都が生んだ西陣織と友禅染。
それぞれの人間国宝同士による
史上初のコラボレーションが実現。

そして西陣織は、同じく京都を起源とする京友禅とともに新たな歴史を刻もうとしています。

友禅染は江戸時代に扇面絵師として活躍していた宮崎友禅斎が大成した染織技術です。繊細なデザインと豊かな色彩で描き出される絵画的な美しさは、西陣織同様国内のみならず海外でも高い評価を受けています。

《コラム》"前衛"の精神が紡ぐ友禅染の魅力とは

この日本屈指の染めと織りの史上初のコラボレーションが、今冬「銀座もとじ」で実現。
西陣織の羅と経錦の技法において重要無形文化財を保持している北村武資氏と、友禅の技法で同じく重要無形文化財を保持している森口邦彦氏による二人展『二大巨匠展  競演する織と染―北村武資と森口邦彦』を開催します。
また期間中は記念作品として、北村武資氏が織った布に森口邦彦氏が染めた世紀の合作「雪景」が公開されます。

度重なる困難を乗り越えて悠久の美を伝え続ける京都が生んだ、二大巨匠による技術と感性の極致。心を潤す優美な世界をこの機会にぜひご堪能ください。

二大巨匠展 競演する織と染
-北村武資と森口邦彦

二大巨匠展  競演する織と染―北村武資と森口邦彦

催事詳細はこちら



【参考資料】
「応仁の乱」後 織物職人集う 西陣誕生550年(もっと関西) / 日本経済新聞
・フィールド・ミュージアム京都 / 京都市歴史資料館
・『西陣機業の源流』 豊田武
・『西陣機業の歴史と展開』森谷尅久
西陣の歴史 / 西陣織工業組合HP
西陣の発展と西陣焼け / 京都市上京区HP

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