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第1回目 国産絹「プラチナボーイ」で作り手革命 「地方行政」2020年1月20日号|メディア掲載

この度、時事通信社から発行されております、地方自治体、各行政などのご関係者向けの専門誌「地方行政」にて、『銀座から、新しい「着物時代」を創り出す』として、弊社の取り組みをご紹介いただいております。

第1回目のテーマは“国産絹「プラチナボーイ」で作り手革命”。
丁寧に取材いただき、素晴らしい記事にまとめてくださいました。長文にはなりますが、ぜひご覧くださいませ。

第1回目 国産絹「プラチナボーイ」で作り手革命
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第2回目 「銀座の柳染め」で地域貢献活動を
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第3回目 前代未聞「男の着物」専門店で産地も業界も活性化
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第4回目 故郷の大島紬を未来に!地域再生への大胆発想
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国産絹「プラチナボーイ」で作り手革命

 付加価値の創造は、極めて重要な課題。 「最良の品質」を求めて、長年の夢を実現した泉二さん。 養蚕農家と直接契約をし、何度も現場に通いながら、泥くさく行動し作り手の方たちの気持ちに寄り添い、関わる人全員の一人ひとりの高い技術と意識を結集させて、素晴らしい商品を作り出している。
 思いやりと行動の積み重ねで、夢を実現し、人々の喜びを創造し文化を作り出す泉二さんの生き方を通して、人々を輝かす素晴らしさを知っていただきたい。関わる人にスポットを当てることで、全国各地の関係者の技も地域の個性も輝き、新たな価値が創造される。まさに「ピンチはチャンス」である。
(「地方で稼ごう」コーディネーター=松藤保孝・前関西学院大経営戦略研究科教授)

 2015年は、私にとって思いがけない喜びに沸いた年でした。呉服店として全力で取り組んできたプロジェクトが、栄誉ある賞を連続受賞したのです。5月には、大日本蚕糸会が主催する第3回蚕糸絹業提携確立技術・経営コンクールにおいて「"絹を未来に"プラチナボーイ研究会」が最高賞の農林水産大臣賞を頂き、また11月には、第5回農林水産祭にて同研究会が蚕糸・地域特産部門で日本農林漁業振興会会長賞を頂きました。
 「プラチナボーイ」とは、蚕の品種の名前です。養蚕製糸業の振興に取り組む大日本蚕糸会の研究所が、蚕の開発段階で名付けた名称で、白く輝く糸をイメージして「プラチナ」、雄の蚕だけの繭から糸が採れることから「ボーイ」。今では、私の店「銀座もとじ」の看板商品ですが、最初は苦労の連続でした。

息子の一言で糸に目覚める

  日本では、明治から大正時代にかけて、外貨獲得のための輸出主力商品として蚕糸製造に力を入れ、研究に取り組んできました。より良い糸を追求し、さまざまな蚕の品種が開発されましたが、昔から、雄の蚕の繭だけを使った生糸を作りたい、というのが製糸業に関わる人たちの夢でした。蚕の雄は卵を産まない分、体に蓄えられたタンパク質と栄養素をすべて糸作りに使います。また、口が小さいので、雌に比べて細く長く艶のある良い糸を作るのです。 けれど、生まれたばかりのアリ のように小さい蚕を雌雄選り分けるのは至難の業です。それでも「雄の蚕だけから糸を採ることが最良の品質を生み出す」ということを経験上知っている人々は、諦めませんでした。2006年、37年に及ぶ研究の末、ついに世界初の雄だけの蚕、「プラチナボーイ」が誕生しました。 大日本蚕糸会から「プラチナボーイ」の糸を使った商品開発を、と相談され、ああ、長年の夢が実現する、 そんな予感で私の胸は高鳴りました。 長年の夢とは、「一本の糸から履歴が分かる、正真正銘の純国産の糸で日本中どこを探しても見つけることができないような反物を作りたい、そのために養蚕農家と契約をしてオリジナルを作りたい」というものでした。きっかけは25年前に息子が投げ掛けた素朴な質問でした。
 現在、銀座もとじの2代目として働いている息子の啓太が、銀座の小学校に通っていた頃友達と店にやって来て、店内にディスプレーされた反物に恐る恐る触れながら、「着物って何からできるの?石油?」と尋ねたのです。着物は絹でできていると当たり前に思っていた私は、ガツンとハンマーで殴られたような衝撃を受けました。自分の息子に教えるだけなら蚕糸試験場に連れて行けば済んだことでしたが、一緒にいた友達も首を傾げています。都会育ちの子どもたちは、蚕を見たこともないのだと思い知りました。そこで、当時銀座1丁目にあった店舗を約2週間クローズして「蚕の館」にし、「蚕飼育展」と銘打って卵を孵化させるところから飼育を開始することにしました。私は毎日お蚕さんの棚を掃除し、排せつ物の始末をしました。餌の桑の葉は、1日置きに群馬県まで採りに行きました。おかげで体に臭いが 染み付き、家族に「お父さん、臭い。こっちに来ないでよ」と避けられてしまうほどでした。
 息子の友達は、連日観察にやって来ました。近所の人や、通り掛かりの人も興味津々でのぞきます。それは私自身の勉強にもなりました。当時、着物を販売することに必死で、絹のことを少しも知らなかったのです。お蚕さんが何メートルの糸を吐き、何粒の繭から一反の着物ができているのかもその時まで知りませんでした。私に限らず着物業界全体が、蚕や糸のことなど考えもせずに商売していたと思います。
 店を「蚕の館」にした経験で、私は一本の絹糸に宿る命の尊さを学びました。また、糸の質によって着物の良しあしが決まることも知りました。そして私は、養蚕農家と契約してものづくりをし たいと、いつしか考えるようになっていたのです。
  当時はまだ養蚕業は国の補助金で守られていて、小さな小売店が養蚕農家と直接提携することなど夢のまた夢でした。しかし、願い続ければかなう 時がやってくるものなのです。

銀座の路面店で「蚕飼育展」を初開催した時の様子。多くの人が関心を寄せた。

農家を変えた熱い思い

 新しく開発された「プラチナボーイ」での商品作りは、これまで誰も手掛けてこなかった仕事です。簡単には進まないぞ、と覚悟はしていましたが、想像以上でした。こちらがどんなに意気込んでも、養蚕農家の人にとっては「プラチナボーイ」を育てようが、これまでの蚕を育てようが、何も違いはないのです。違いがないどころか、飼育し慣れた蚕種ならば癖も知り尽くしていますが、 新しい品種は未知数ですから、わざわざ苦労して育てることに抵抗があるわけです。それでも何とか取り組んでくれる養蚕農家を紹介してもらい、「プラチナボーイ」のプロジェクトが始まりました。
 「プラチナボーイ」は夢の蚕種です。糸は、細 く、長く、しなやかで強く、毛羽立ちません。その特長を生かして、より良い絹、美しい生地を目指すのです。養蚕農家に通いながら、私たちも勉強します。いい糸を作るためには、蚕を育てる環境が重要。温度調整に気配りし、清潔に保ち、風通しを良くすることで、蚕は良い繭を作るのです。しかし、なかなか思い通りにはいきません。温度を低温に保つことができなければ、蚕は糸を吐くのをやめてしまったり、せっかく吐いても糸が切れやすくなってしまったりするなど、糸の質を左右してしまいます。そこで、飼育法を改善してほしいと、養蚕農家に一升瓶を持って談判に行きました。泥くさいやり方ですが、ほかに思い付きませんでした。
 一杯やりながら話している時は、「よし、やろう」と盛り上がります。でも、酔いがさめれば元の木阿弥です。蚕を育てて、繭を納めて、補助金をもらう、そんな補助金で成り立っている世界で、手のかかる大変な仕事をしてもらうにはどうしたらいいか、かなり悩みました。
 当時、日本の絹の自給率は3%にまで落ち込んでいました(現在は1%未満)。かつて、世界のシルク市場を独占するほど絹を輸出していた日本が、化学繊維に押され、また安価な中国やブラジルからの輸入絹に席巻されて、日本の着物のほとんどが国産の絹で作られていないという状況でし た。減る一方の養蚕農家を守るために、国の補助金が投入されていたのです。そんな状況で、「プ ラチナボーイ」に国産絹の未来を託したいとこちらが意気込んでも、長年養蚕をしてきた人たちにはピンときません。自分の育てた繭が着物になることなど考えたこともないのです。それもそのはず、繭はあくまで換金作物で、その先の川下のことなど考える環境ではなかったのですから。
 そうは言っても、この人たちが育ててくれなかったら、意識改革をしてくれなかったら、日本の着物は、すべて中国産、ブラジル産の絹に頼ることになります。日本の養蚕が残るためにも、クオ リティーの高い糸を作ることで存在意義を高めなければいけません。どうしたらこの人たちに思いを伝えることができるのでしょうか。 そこで私は、 前年にその養蚕農家が懸命に育てた繭から作った反物を、見せに行きました。 そして、「あなたの育てた蚕の繭がこうなりましたよ」とお伝えしたのです。すると、どうでしょう。その反物を手にしたご夫婦が涙ぐみながら言ったのです。「私たちは50年養蚕農家をしてきたけれど、自分たちが育てた蚕でできた着物を初めて見ました」。さらに、「この反物を自分に売ってほしい。孫、ひ孫、やしゃ孫にまで家宝として大切に伝えたい」と。嬉しかったですね。
 これが大きなきっかけとなり、養蚕農家の意識に変化が表れました。私は予算を捻出して「蚕 からの着物づくり 天の虫 天の糸」(ラトルズ) という、プラチナボーイの開発から着物作りまでを追った書籍も製作しました。 プラチナボーイと取り組んでいく決意表明をしたのです。

着物にもトレーサビリティーを

 そんな中、長らく養蚕農家を支えてきた補助金システムに大きな改革がありました。新たに「蚕糸・絹業提携支援緊急対策事業」の制度が導入さ れたのです。これは、養蚕農家と製糸、製織、染色、流通、小売りなど絹製品に関わる事業者でつくる、純国産絹製品作りに取り組むグループに対して、国が応援するというものです。この流れを受けて、プラチナボーイ研究会は、具体的にチームでものづくりができるようになります。蚕を孵化させる「研究者」、蚕を育てて繭を作る「養蚕農家」、生糸にする「製糸業者」、生地にする「製織業者」、繭からプロデュース、作品作り、お客 さまに届ける「銀座もとじ」。私は、このチームのメンバーを漏れなく証紙に記そうと考えました。トレーサビリティー(履歴管理)の導入です。 デパートの食品売り場に並んでいるホウレンソウに、「私が作りました」とシールが貼られていますよね。生産者の名前が品質の信頼を生んでいます。通常の反物には、最後の作り手の名前しかありません。織りや染めの作り手の名前はあるけれど、完成までに関わってきたその他の方たちの名前がないのです。 不思議ですよね。これまで表に出てこなかった、縁の下の力持ちで支えてくれてきた人たちが残らなければ、着物の未来はありません。チームによるものづくりを経験して、私はそのことに気付かされました。トレーサビリティーに配慮し、それぞれの作業を責任というたすきでつなぎ、誇りを持って「プラチナボーイ」 ブランドを育てていく。そんな、関わる人全員の「顔 が見えるものづくり」を徹底して行うことによって、一人ひとりが高い技術、高い意識でものづくりに挑み、その結果、素晴らしい着物や帯が作り出されるのです


初めて自分の育てた蚕でできた着物を手にし、感動された養蚕農家のご夫婦

顧客も巻き込む新商品

 2015年の連続受賞の年は、銀座もとじが創業55周年を迎え、また、「プラチナボーイ」に取り組んで10周年という記念すべき年でもありました。これを記念し同年の3月に〝彩(いろど り)"をテーマに、3人の作家、産地の方々と共 に、「プラチナボーイ」を用いた、100点の作品を制作発表しました。「プラチナボーイ」と歩んだ10年の間に、着物や帯を購入してくださったお客さまからは「軽い」「シワになりにくい」「光 沢が抜群」 など高い評価を頂いてきましたが、作品を手掛けた作り手の方々にとっても、「プラチ ナボーイ」の糸や生地は魅力的であることが証明されました。
 そこで、プロジェクトをさらに一歩進めることにしました。自分で蚕を飼育し、収穫した 「プラチナボーイ」の繭を使用した、一本の糸からのお誂え、「プラチナボーイ物語」と題した世界で一つの着物作りです。
 第1回は参加者が養蚕農家を訪ねてその現場を知り、餌となる桑の葉の収穫と餌やりを体験。 第2回はできた繭を製糸する座繰り体験や製糸工場見学。第3回は、この糸で白生地を織る機屋を見学。約1年をかけこの工程を体験した後に白生地を染め、着物に仕上げます。特筆すべきは、反物の証紙の最後に、 作り手と共に”主”としてお客さまの名前が入ることでしょう。この参加型のプロジェクトは、2016年5月にスタートし、すでに7回を数えます。
 「プラチナボーイ物語」を通して、着物を着る人が養蚕農家を訪ね、着る人たちが目を輝かせて養蚕の現場を体験し、養蚕の歴史や蚕について理解を深めることで、養蚕農家はやりがいを感じるようになるのです。これまで触れ合うことがなかった人同士の交流が、確実に変化を起こしていま す。人前では絶対しゃべれないと言っていた人が、今では銀座もとじの店に集まったお客さまの前でトーク会までできるようにもなったのです。 ものづくりをする人たちは、みんな言葉を秘めています。他のことは話せなくても、蚕の育て方ならどんどん言葉が出てくる。そうすると自信と笑顔が生まれて、元気になるのです。
 ある日、そんな養蚕農家の人から私に電話がありました。「自分たちがどんな仕事をすれば、次の人の仕事がやりやすくなるのかを知りたい」と言うのです。そのためにも、糸を作る碓氷製糸 (群馬県安中市)の人や、新潟県五泉市で白生地を織る人と意見交換したいので、私の同行で訪ねることはできないか、という相談でした。「プラ チナボーイ」を通して、養蚕農家の人たちの意識がここまで変わってくれたと思うと、私は感無量でした。取り組みが始まったばかりの15年前には、考えられないことでしたが、いよいよ自分たちの仕事に誇りを持つまでになったのです。
 考えてみれば、呉服業界や養蚕業が不景気だったからこそ成功した事例だと思います。景気が良かったら、こんな手のかかる、面倒なことなど、誰も相手にしてくれません。私はいつも「ピンチはチャンス」だと言っています。 不景気もチャン スになり得るのです。チームとして取り組んだことも、良い効果を生みました。そもそも着物は一人ではできないもので、人から人へとたすきリレーして作るものです。みんなの名前を出して当たり前なのです。その当たり前を形にしただけで、こんなにも大きく変わることがあるのです。
 先の養蚕農家夫婦のお孫さんが、自分のおじいちゃんを「自慢のおじいちゃん」と言うそうです。理由は、「私の名前をネットで検索しても出てこないのに、おじいちゃんの名前はいっぱい出てくる、自分もおじいちゃんみたいになりたい」と。また、今は教員の息子さんが、定年退職後に、後を継ぐと言うのです。 養蚕農家が輝くことで、後継者を生むことにもつながる。これこそがまさに人生100年時代の後継者育成の形です。
 銀座もとじを含むプラチナボーイ研究会が賞を頂いたのは、プロジェクト始動からの10年間の実績とともに、銀座もとじの地域に根差した活動も評価の対象になったからです。
 そこで次回は、1998年より現在まで取り組み続けている銀座の柳を使った「銀座の柳染め課外授業」を、息子の啓太が通った銀座で唯一の小学校である泰明小学校で開催させていただいている話に触れながら、地域との関わり合い、土地の力を生かす話をさせていただきたいと思います。


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