久米島紬 50周年記念展 ―魂にまとう織物― | 和織物語

50周年記念作品 我那覇ケイ子作 久米島紬 着尺 草木染・泥染 「ヒチサギーゴーマー5玉」

会 期 : 2020年3月20日(金・祝)〜22日(日)
場 所 : 銀座もとじ 和織 、男のきもの

二代目・泉二啓太の産地めぐり
~久米島紬の歴史と「ゆいまーる」の心を訪ねて~

著者:宮良みゆき(久米島博物館 主任学芸員)

久米島紬を育む島

紬の島・久米島は、沖縄本島那覇市の西方約100㎞の東シナ海上にある離島・孤島である。孤島であるが、中国往来の頻繁な時代は、西の玄関口としての役割を果たしていた。那覇を出港した船は久米島近海で天候をうかがい順風を待ち、一気に福州へと出発する。帰りの船は久米島を目指し、その島影をみて、那覇への航路があと一日であることを知る島であった。
自然豊かな久米島は、近世・近代の貴重な資料や文化財、古い町並みがよく残り、小さいながら、文化的景観に富んだ島である。

久米島紬の歴史

久米島で、紬がいつから織られていたかは、はっきりしない。紬の原料となる蚕の飼育について、1713年に編まれた『琉球国由来記(りゅうきゅうこくゆらいき)』という歴史書の中に「当国の蚕事のはじまりは、尚寧王(しょうねいおう)世代の万暦47年(1619)に越前(福井県)出身の坂元宗味(そうみ)が久米島に渡り、蚕を飼い、桑の木を植え、綿子(真綿)の存様等を島の百姓達に教え、それが紬布の始まりである」とあるが、同じく由来記中、別の項目には14世紀の末頃、久米島に堂の大比屋(おひや)という人物がいて、中国で養蚕の技術を学んで帰ってきたと記されている。
久米島を代表する名家上江洲(うえず)家の家譜には、「養蚕の飼育方法と真綿製造法は坂元の来島以前からあったが、繊細な伝えもなく良い品を出すことが出来なかった、坂元の指導のお陰で真綿の質もよくなり、島中の人々の為になった」との記録があり、さらに別の項目に、「薩州(鹿児島県)の友寄景友(ともよせけいゆう)という人が八丈織に精通していたので、王の命を受け久米島に渡り元来あった紬を指導し、その後、御用立てに適うまでに調えた」と記されている。これらの記録から養蚕や織物が行われていた兆しはあるものの、やはりはっきりとしない。
東シナ海に浮かぶ久米島は、古くから海上交通の要となる島で、さまざまな文物がもたらされた。その一つとして、養蚕も久米島紬の素地も同様に海を渡って伝わり、島の恵まれた自然環境と合わさり、育まれた。しかし技術は進展せず、首里王府の要求に適わずにいた。そこで王府の政策により久米島に派遣された坂元・友寄の両氏により貢納布(王府に税として納める布)として調えられ、現在の久米島紬に近い形ができあがったとされる。
17世紀以後、久米島紬は貢納布として、15歳から40歳、あるいは45歳(年により変更もあった)までの役人の妻以外の全ての女性に課せられた。貢納布を久米島では「御用布(グイフ)」と呼んでいた。御用布製作には色や絣の柄など王府の絵師が描いた御絵図(みえず)(注文書に添付された絵図帳)通りの正確さを求められ、現在の公民館にあたる場所を「布屋(ヌヌヤー)」と呼び、そこで製作にあたっていた。布屋には王府から派遣された役人がいて、彼らによる厳しい検査と徹底した品質管理が行われ島の女性達を苦しめた。
その一方で、特殊な技能が必要なことから、技術の進歩をうながし、発展につながったともいわれている。その技法は頑なに守られ、今日まで受け継がれてきている。
東恩納寛惇(ひがしおんなかんじゅん)氏は『南島風土記』の中で、『守貞漫稿(もりさだまんこう)』(註1) に記された久米島紬(琉球紬)のことを紹介している。それには「天保中は、琉球紬流布す、(中略)琉球紬を着すは、特に風流を好む者の如く、先(まず)普通には非ず、故に流布と雖ども、多からず、人品により晴服に近し」とある。東恩納氏は「その渋味のある雅致が風流人の間に賞美されていたもののようである」と、感想を記している。
前掲の家譜には、「江戸立ての御用紬」についての記述があり、その紬が江戸で流布していたのかもしれない

註1  近世の風俗志。著喜田川季荘(守貞)(天保8-嘉永6年)文中の省略は筆者による。

現在の久米島紬

久米島紬は、原材料に真綿から紡いだ紬糸を用い、デザインから仕上げまで、全ての工程を一貫して一人の織手が手作業で行う。一時中断していた桑の栽培と養蚕は近年復活し、久米島紬保持団体(代表桃原禎子、以下保持団体)が中心となり、久米島紬事業協同組合(理事長松元徹、以下紬組合)と協同で技術の伝承を行っている。
大切に守り受け継がれてきた久米島紬は、芸術的にも工芸的にも価値が高く、地方の特色が顕著な染織物として、平成16年9月に国の重要無形文化財に指定された。全国で14番目、沖縄県では喜如嘉の芭蕉布、宮古上布に続いて3番目の指定である。
松元理事長は、紬組合が産業振興を行い、久米島博物館(文化財保護課を兼務)が文化振興を担い、両輪となり久米島紬の振興・発展に取り組んできたと話す。紬組合は、沖縄の日本復帰前、昭和44年に設立され、令和元年で創立50周年を迎えた。常に織手に寄り添い、織手と共に久米島紬の発展に貢献してきた。紬の魅力を発信する活動も行い、後継者育成事業も充実してきた。今年2月には創立50周年の記念式典も行われ、県内外から多くの関係者が参加し盛大に行われた。紬組合の節目となる年に、「銀座もとじ」で展示会が開催されることで、紬組合の活動にさらに弾みがつき、大きく羽ばたく飛躍の年になるに違いない。
銀座もとじの泉二弘明社長と織手とのご縁は今から20年前に遡る。その頃、売り上げが伸び悩んでいた久米島紬の関係者が泉二社長を頼って、織手と着物好きのお客様との座談会を開いてもらったのがきっかけだ。会は有意義なものとなり、新たな久米島紬の魅力が引き出され、王国時代から伝わる伝統染色「ゆうな染め」の商品開発に繋がった。シックな色味が都会に映えると人気を博したという。その後も、泉二社長と織手との交流は続いている。泉二社長とは、織手にとって創作意欲を刺激する大切な存在である。

黒褐色の紬「黒物」のわざ

久米島紬の大きな特徴一つが、島に自生する植物を活用し染められる染色であるが、その植物染めを更に発展させた方法が泥染めである。泥染めとは、植物で染めた糸を島の池から採取した泥にくぐらせることで、泥の中に含まれる鉄分などの有機質と、植物で染めた糸に付着したタンニンとが結合して、糸の色を変化させる。
その泥染めを用いた久米島独特の色が、黒褐色である。その紬を島では「黒物」と呼び、黒物以外の反物を「色物」と呼んでいる。黒褐色を得るには、まず島の植物、グール(オキナワサルトリイバラ)やティカチ(シャリンバイ)を用いて下地を濃い茶褐色に染める。その後、泥染めを行うと、茶褐色から徐々に黒褐色へと変化していく。最終的には、植物染めと泥染めを、合わせて100回近く行うことになるが、ただ回数を重ねて染めれば良いという訳ではなく、同じような黒褐色でも、青みがかかった色、赤みがかかった色を表現するために、織手は、泥をかける前に下地となる染料の配合を変えて調整する。染色回数も気温や天候を考え、長年の経験や勘に頼ることが多く、気力も体力も使うため、熟練した織手でさえ、黒物製作には気合いが入る。
黒物の染色は、とにかく朝が早く、重労働である。括りを施した部分にカビが入らぬよう、短期間で回数を多く染めるため、夜が明けきらぬうちから準備し、染色作業を行う。染色中は、中腰の体勢で糸の束を染液に浸し、その中で何度も振り、絞り、洗い、絞り、乾かして、また染液にくぐらせる。この作業を目当ての色になるまで延々と繰り返す。日に何度も水分を含んで重くなった糸の束をいくつも振り続けるため、腕や肩、背中、腰と痛くなり、洗った糸の束を何度も絞るので、手も強張ってくる。この作業が約1ヶ月と続き、染色が終わる頃には、あちらこちら全身筋肉痛だという。

(奥)プラチナボーイ 山城智子作 久米島紬 広巾着尺 草木染・ゆうな染 (手前)50周年記念作品 高坂エミ子作 久米島紬 着尺 草木染・泥染 「カンカキーショウジ絣3玉」

ユイマールの心で黒物再興

黒物の製作が盛んだった頃、年配の熟練者を助け、地域の人々(主に隣近所の親戚筋同士)が集まって、各家庭から持ち寄った糸をまとめて1年分を染めていた。皆で集まり、助け合いながら行う作業を、島では「ユイマール」と呼んでいる。黒物の染色は重労働だが、ユイマールで年配者でも幾分か楽に染められ、また、黒物の経験の浅い織手が年配の熟練者の染色を手伝うことで、その技術が自然と継承されていた。
以前、泥染め調査で、織手の自宅を訪ねたことがある。集まった人々は、泥で汚れてもいいように雨合羽に長靴、ゴム手袋にビニールエプロン等を身に着け、作業にあたっていた。気心の知れた者同士、時折冗談を交えながら次々と糸の束を染めていた。全身泥まみれで、もちろん顔にも泥が飛んでいた。だが、その顔は泥で曇ることは全くなく、朝日に照らされた笑顔はどこまでも明るく、誇らしげであった。
そんな光景が徐々に失われつつある。ここ20年は、消費者の需要が黒物から色物へと移り、黒物を織る機会が減る中、その担い手たちも高齢化し、黒物の生産反数が徐々に減っていった。紬組合によれば、一昨年の製作反数は100反で、昨年は80反、今年度はさらに減少し50反だという。このままでは、黒物技術の継承が危ぶまれると危機感を持った保持団体は、紬組合と協働で、国・県・町の指導の元、黒物製作の事業を行うこととした。
保持団体の会員は桃原代表を筆頭に13名、その下には会員候補生(伝承生と呼んでいる)が9名おり、日々、久米島紬の手わざの研鑽と伝承に励んでいる。会員は、黒物であろうと色物であろうと躊躇なく製作できる熟練した織手集団で、伝承生も20年近い製作経験を持つ中堅の織手たちである。
平成30年4月から3年計画で、保持団体の一部の会員を講師に、伝承生が3手に分かれ、現在も黒物の製作に励んでいる。

魂にまとうマットーバーな織物

久米島では、80歳以上の織手が今も現役で頑張っている。気の遠くなるような作業を根気よく行い、着る人を思い、我が子を慈しむように織り続けている。
ある織手が「久米島紬は、マットーバー(性格や物の形が真っ直ぐなこと)でないと、織れないよ」と話してくれた。反物に性格や製作工程が表れてしまうというのだ。熟練の織手の言葉だけに、一層心に沁みた。
織手は、辛いこと、楽しいことを機と共にマットーバーに生きてきた。染色で困っている人がいれば、遠くでも行って助け、悲しむ人がいれば、自分の痛みとして感じて寄り添い、無事に織り上げた人がいれば一緒に喜んできた。歳を重ねても向上心を失わず、今日より明日、明日より明後日、もっと良いもの作りを行いたいと日々を過ごされている姿を見ると、胸が熱くなり、その姿をいつまでも見守りたいと心から思う。
真っ直ぐに機に向かうその姿に、名著『沖縄織物の研究』(田中俊雄・田中玲子著)に寄せられた柳宗悦氏の序の一文が重なる。柳氏は「沖縄の人達」は「魂へ着せる着物」を作るとし、「何よりも魂への献げ物だとなれば、心を込め、時を注ぎ、身を忘れるのは必定である。だから粗末には行はぬ心で、糸が紡がれ、柄が染められ、又機に掛けられ、筬が動かされるのである。」と記している。
柳氏が序文を記した年から60年以上経つが、久米島では今でも、手わざと心をもったマットーバーな織手たちにより、魂にまとう「マットーバーな織物」が作り続けられている。

ぎゃらりートーク

3月21日(土)と22日(日)に予定しておりました「ぎゃらりートーク」は、新型コロナウィルスの感染拡大防止のため、急遽、無観客にて「動画配信」の形で開催とさせていただく運びとなりました。
3月21日(土) 10時より「銀座もとじインスタグラム」上でライブ配信したものを、現在YouTubeにて公開しておりますのでぜひご覧ください。

動画開始画面の左より、久米島紬保持団体の桃原禎子さん、平田とき子さん、山城智子さん、久米島紬事業協同組合・松元徹理事長 、銀座もとじ店主・泉二弘明

久米島紬事業協同組合・松元徹理事長と織手さん3名をお迎えし、ものづくりについてお話を伺います。

日 程 : 2020年 3月21日(土)、22日(日) 【両日ともに受付終了】
時 間 : 10:00〜11:00
場 所 : 銀座もとじ 和織
会 費 : 無料
定 員 : 20名様(要予約・先着順)
お問い合わせ : 銀座もとじ 和織 03-3538-7878

宮良みやらみゆき プロフィール

1973年沖縄県生まれ。幼少の頃より久米島紬を織る祖母の姿を見て紬に親しむ。女子美術短期大学卒業後、沖縄の織物を学ぶ為に沖縄県立芸術大学(染織コース)入学。卒業後、久米島博物館学芸員として勤務。現在は、博物館業務と兼務で、文化財(久米島紬)の保護・普及を行う。