プラチナボーイ物語「天からの贈りもの」|和織物語

プラチナボーイ物語「天からの贈りもの」|和織物語

白い輝く糸

いつの時代も人工的に作り出すものが自然界からできる究極のものを超えることはない。
真っ白い小さな蚕が生み出す清らかな糸
なめらかでつややかで透明感があって……
今までこんなに綺麗な糸をみたことがあっただろうか?
光沢のある反物。なんとも言えない肌に吸い付くような着心地。
そして丈夫でありながらもしなやか……
その元の糸はこんなに小さなお蚕さまから生まれる

「あなたはそんなに小さいのにどうしてこんなに綺麗な糸を吐くの? 」
「僕たち? だってね。日本の研究者が長年かけて生み出した究極の蚕、プラチナボーイなんだもん! 」

プラチナボーイって?

「オスの蚕からは良い糸がとれる」昔からそう言われて来ましたが、なかなか実用化には至りませんでした。というのも卵から孵化した蚕のオス・メスを分けるというのは研究者でない限り、いや研究者であっても時間も手間もかかりなかなか実行することはできません。まして、養蚕農家では何万頭も一気に飼育しているのですから、毎日の蚕の排泄と餌の桑やりなどの世話だけで精一杯。一頭ずつ仕分けをしていては餌をやりそこなうか、病気にしてしまうのが関の山でした。卵を産まないオスの蚕は、身体にあるたんぱく質をすべて糸に吐き出すことができるため、メスの蚕が作り出す糸に比べて艶も丈夫さも糸の長さもそして細さも特別でした。なんとかしてオスの蚕の糸だけを取り出すことができないか? この問題を解決するのには、卵から孵化する際に『オスだけ孵化させるという至難の業』を実現するしかなかったのです。

その研究に37年の歳月を掛け成功を収めたのが、財団法人大日本蚕糸会・蚕業技術研究所の大沼昭夫氏でした。大沼氏は放射線遺伝学の権威として世界的に知られる田島弥太郎博士を学生時代の教科書で知り、「突然変異」の研究に大変興味を抱き、後に田島博士が所長を務める国立遺伝学研究所に入所しました。以来蚕の遺伝学一筋で今日に至った方です。

田島博士は1951年に染色体の操作によって蚕のメスの卵だけが黒くなる種「限性黒卵」を作ることに成功し、卵の色でオス・メスを判別する方法を発見していました。しかし、何万個と生まれる卵をその都度光に透かして選別するという方法でしたので、大変な労力とコストがかかるとあって実用化には至りませんでした。

1969年にはロシア(当時はソ連)のスツルニコフという学者がオスだけの蚕を得ることに成功しましたが、その種を保存するところまでは至らなかったのです。ちょうど同じ時期に同じ考えで研究をしている人間が異国の地にいたということは大沼氏の励みになり、その後の研究をよりいっそうはずみのつくものにしました。その後、大沼氏は「平衡致死」という考えに至り「致死遺伝子の組み合わせ」と「それを抑制する正常遺伝子」の両方を持たせた蚕を生み出し、種の保存まで至ることができたのです。

現在では、二世代前まで戻って交配させ、プラチナボーイを生み出します。これはほぼ1年かかりの交配であるため、銀座もとじがこの糸を使うためには、1年半計画で糸量を決めて卵の孵化を依頼していかなくてはなりません。
今はまだ研究者である大沼氏しかこの卵の開発は出来ない大変価値の高い蚕なのです。

プラチナボーイとの出会い

四半世紀をかけて呉服店を営んできた泉二が行き着いた先が「素材にこだわる」でした。「一本の糸から履歴の分かる正真正銘の国内産の糸で日本中何処を探しても見つけることができないような反物が作れないか!? 」それが泉二の長年の夢でした。

プラチナボーイとの出会い
その基礎を作ったのが10年以上前になる蚕の飼育。当時小学生だった息子がある日友達と揃って店にやってきてディスプレイされた反物に触れながら、「お父さんの作っているこの着物って何からできるの? 石油? 」とけがれを知らない目で素朴に聞いた一言に愕然としたことから始まりました。自分の息子に見せるだけなら蚕糸試験場に連れて行けば済んだことでしたが、一緒にいた友達の無邪気な目は「おじちゃん、僕にも教えてね」と訴えていました。そこで、当時構えていた1丁目の店舗を2週間以上休んで蚕の館にし、卵を孵化させるところから飼育を開始。

一日おきに群馬まで新鮮な桑をとりに行き、毎日お蚕さんの排泄物の始末をしました。お蔭で匂いが身体に染み付いて、家族に「お父さん、臭い臭い! こっちに来ないでよお! 」とまで言われました。
それでも止めなかった蚕の飼育が、子供達の心を動かし、地域の人々の心を温め、今、銀座で唯一の小学校、「泰明小学校の柳染め体験学習」へと繋がりました。そんな縁で大日本蚕糸学会の方とは10年来のお付き合いとなり、今までで3回に及んだ蚕の飼育ができたのです。

そんな「何でもチャレンジしよう、原点に返ろう」の泉二精神が、今回は「この研究成果を日本の養蚕業界を活性化させる一路にすることはできないか? 」と考えていた研究者たちの思いと一致し、日本初の国産の糸を実用化にするまでのプロジェクト「プラチナボーイの製品化」へと進んだのでした。

今回は、紋付にする羽二重、夏物の駒絽、おしゃれ着の白生地、江戸小紋、結城紬、大島紬にと出来上がりました。
5年後には冷染の技法で染める「寒染め(R)」、紅花染めの山岸さんの作品も出来上がってくる予定です。こちらは染と織に5年の歳月が必要となります。第一弾の糸はすでに生繭の状態で山岸さんの手に渡り、すでに真綿にし糸を引いてもらっています。

つくり手たちは

養蚕農家はJA全農ちばより依頼された増田さんや早川さんにお願いしました。卵から孵化するまでは大沼教授の居る茨城の蚕業技術研究所で育てられ、その後、無菌状態で千葉の東金稚蚕共同飼育所に運ばれ二齢*まで育てられました。二齢から先は養蚕農家の増田さん、早川さんの出番です。午前8時半に東金から運ばれた蚕は、お二人の手ですぐに桑の葉での飼育に入りました。今回のプロジェクトではプラチナボーイの卵の孵化数が限られていたため、一頭たりとも無駄死には許されません。飼育状態が抜群に優れている養蚕農家にプラチナボーイをお願いすると言う暗黙の了解のもと、選抜された増田さん達の責任とプレッシャーはものすごいものだったと思います。試行錯誤の中でお二人の家の方達は一瞬たりとも気が抜けません。お二人の心配をよそに、予想以上にプラチナボーイ達は元気に病気にもならず食欲旺盛で育っていきました。念願の繭が徐々に出来、全てが揃ったときを見計らって、すぐにクール便が準備され、一部は群馬県安中市の碓氷製糸へ、一部は米沢市赤崩の山岸さんに、その他は福島県の保原へと運ばれました。

通常は繭が出来上がると熱風を掛けて中の蛾を殺し、繭のまま保存します。これを乾繭(かんけん)と言いますが、今回は繭から糸を引く直前まで、中の蛾が生きている状態(生繭)で糸を引こうとしました。通常の繭でも、生繭から引く糸は乾繭から引く糸より、「光沢が出て艶があり糸に輝きと強さが増す」のです。通常は2週間前後で繭の中から蛾が繭を食い破って出てきます。こうなったら糸は採れません。これを今回はよりつややかで強い糸ができるプラチナボーイでしようと言うのですから、数少ない繭と各地で待っている関係者と養蚕農家との連携プレーで、時間勝負の仕事でした。

繭から真綿にするのは40年以上結城紬の真綿を採り続けている佐藤米子さんの出番です。生き物との時間勝負で今回はとうとう土日返上で真綿採りをしていただくことになってしまいました。米子さんは振り返りこう言います。「プラチナボーイの蚕を預かったときあまりの繭の綺麗さにびっくりしてね。次には引きの強さに驚いた。生繭を広げるとき糸が締まっているので引きが強く、手が切れそうになったよ。いつもよりもっとキシキシ音がするんだよね。こんなちっこいお繭さまなのにこんな丈夫なのは見たことが無いよ。
繭から真綿にするのは40年以上結城紬の真綿を採り続けている佐藤米子さん

糸が細いし繭が小さいから真綿も通常5枚重ねるところ、6枚から7枚重ねないと駄目だったねえ。でもこれだけ重ねて糸を引いたら強くてしなやかな糸ができて、織ったらきっといいもんがつくれるんじゃろうなあと期待していたよ」と。米子さんのお蔭で採れた真綿は次に糸引きにかかりました。
一方、碓氷製糸に送られた繭は製糸所の担当者達から「糸のほぐれ具合が凄く良い繭だなあ。その上に糸は細い! なのに強い! 長い。今まで見たことの無い素晴らしい糸だ」とあちこちで誉められていました。
各地で出来上がった糸は今まで見たこともないくらい艶やかで、かかわった全ての人が拍手喝采した出来でした。

糸は各産地へ

糸は泉二が信頼し、お願いしている作り手の元へ送られました。
一部は結城紬にそして一部は泉二の故郷を代表する大島紬に。特に大島紬は、図案から染織まで全工程を一貫して一人でやり通す鹿児島の益田勇吉さん、田畑安之助さんにお願いしました。五泉(ごせん)では紋付用の羽二重、そして涼しげな駒絽、丹後ではお洒落着の白生地が作られていきました。全国各地で新たな反物へと仕上がっていくプラチナボーイ達。作り手たちが感嘆の声を上げたのは、言うまでもありません。「糸が切れにくい上に丈夫。なのに決して毛羽立たない」「染料が綺麗に染み込んで行く」「艶が違う」「筬に触れたときの反応が違う」などなど。かかわった全ての人が「また来年もやりたいねえ! 」と言ってくださるプラチナボーイでした。

プラチナボーイの里帰りに産みの親が涙

研究者ゆえに大沼氏ら研究所の人達は卵や蚕を見るだけで、出来上がった商品を見たことがありません。そこで泉二は、プラチナボーイの里帰りを計画。産みの親の大沼氏が勤める蚕糸技術研究所へプラチナボーイで作った出来上がったばかりの大島紬と結城紬を持っていきました。
「大沼さん、出来ましたよ」と言う言葉とともに、うこんに包んだ結城紬と大島紬をゆっくり広げると大沼氏はただただ目を見張り言葉が出ません。ごくりと唾を呑んだ後、「触って良いですか? 」と言う声が返ってきました。ゆっくり頷く泉二。子供が帰ってきたようにそっと大事そうに触れる大沼氏。感動の親子対面の場でした。
「学問としてだけでなく、実際の社会に役に立てたんですね。これがあのプラチナボーイですか。綺麗だなあ。美しいなあ。研究者としてこうやって実際の社会に役に立てるというのは本当に喜ばしいことです。感無量です。見せてくださって泉二さんありがとうございます。」大沼氏は静かに仰いました。
そして「是非、同じ研究所員に見せたいんですが。良いですか? 」と。
「もちろんです。」と答える泉二の声を待ってすぐに大沼氏は所長の井上さん以下研究所員を呼び集めました。反物の前に研究者が全員集合して、最後は誰からともなく拍手が喝采へ。「日本の養蚕業界にこのプラチナボーイが新しい風となって業界全体が元気になってくれたら」と言うのが所員の方々の願いでした。

新しい風になれ!

37年の年月を経て研究所で産み出されたプラチナボーイが、泉二と出会い新しい形となって実用化されたのが今回の企画です。

プラチナボーイで作った黒紋付
研究機関から養蚕農家、そして産地・工房へと人の手から手へとバトンのように引き渡され、泉二の感覚を加えて今らしさをたたえた美しい着物に仕上がりました。
黒紋付は品質の良さが勝負ですが、プラチナボーイで作った黒紋付は軽くて皺になりにくく光沢も抜群で、「黒紋付の逸品だ! 」という評判も頂きました。また江戸小紋第一号をお召になったお客様からは「この着物を着たら着心地が良くて他のものが着られない」と言う感想を頂きました。

裾さばきが抜群で手触りも柔らか。品質の良さが目に見えて分かるプラチナボーイは 紋付、白生地、夏物の駒絽、江戸小紋、結城紬、大島紬などに作られています。
来年は袴にも挑戦する予定です。

さまざまな人の手を経て、履歴の分かる品質の抜群な、『初のオスだけの繭』から生産された限定の反物です。
世界初、一本の糸に託した一人ひとりの情熱と夢が「世界初・オスの蚕だけで織り成す美」を産み、「長く、強く、細く、光沢がある糸」となり絶大な作り手の喝采を浴びて反物となりました。
年間生産反数も限られています。
是非、この機会に……プラチナボーイに出会ってください。