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糊の点描と線描~高橋寬の友禅の粋~|和織物語

著者:外舘和子(多摩美術大学教授)

友禅の発祥から作家の誕生へ

 友禅とは端的に言えば糊防染による模様染めであり、名称の由来は京都の扇絵師、宮崎友禅であるとされている。日本では江戸中期、京都を中心に発達し、東京では近代以降本格的に製作されるようになった。今日の京都では、型紙を用いる型友禅からインクジェットなどの技法まで広く友禅の範疇とすることがあるが、狭義には糸目糊で模様の輪郭を括り、色を挿す、いわゆる手描き友禅を指すことが多い。下絵、糊置き、色挿し、蒸し、伏糊、地染めなど多くの工程を踏む友禅は分業を発達させたが、大正以降、特に昭和に入って、自ら図案を考案し、自らの手で糊を置く友禅作家が少しずつ現れるようになっていく。

 近代の友禅作家へのルートは二つ。一つは友禅の図案を手掛ける者の中から糊置きなどの技術を獲得して友禅作家になるケース、もう一つは友禅の技術者、特に模様師(友禅の下絵を描く職人)が自ら図案を考案し、友禅作家となるケースである。前者には、図案家から染色家となった増山隆方や、その弟子・中村勝馬が、後者には例えば関東の模様師・五代伊藤平五郎の弟子筋の者たちがいる。髙橋寬は模様師を父に、中村勝馬の指導を受けた戦後世代の友禅作家である。

生い立ち ― 重要無形文化財保持者(人間国宝)・中村勝馬に学ぶ

 現在、練馬で制作する髙橋寬は、友禅の模様師であった父・七之助、日本刺繍をしていた母・吉江の四男として、1946年、東京の下谷で生まれた。二番目の兄・宏周は髙橋寬の作中の刺繍も手掛ける技術者である。髙橋は東京都立八王子工業高校の色染科(卒業時は色染化学科)で染の化学を学び、図案の授業を楽しみ、美術部では油画を描いた。

 1965年、高校を卒業後、髙橋は父の兄弟子であった中村勝馬に弟子入りし、8年間、勝馬のもとで友禅を学ぶ。日本工芸会の創立に尽力し、染織界の指導的立場で多忙を極めた勝馬の場合、制作量は多くないため、師の制作を日々手伝うよりも、自分が何をすべきか考えることから一日が始まった。休日には展覧会を見に行くことも奨励されたが、安易な感想は手厳しく叱られるなど、「褒められた記憶はない」(註)という。しかし弟子入りして僅か三か月で神坂雪佳の図案帖(色紙模様の写本)を薄美濃紙に写し終えるなど、青年期の作家はすぐさま様々な模様の筆使いを身につけている。

 中村勝馬には極めて合理的な考え方を学んだという。写生・観察から図案化するよりも、自分の中にある印象や実感を重視する。歴史的技法についても、その技法で昔は出せなかった感覚を出していく。現代的な色感が出せるなら植物染料ではなく化学染料を使用する。「商業主義にとらわれず、時流との妥協をできるだけ避け、最小限度の生活ができる範囲で自分の道を進む」という勝馬の硬派な思考にも髙橋は大いに共感した。また、勝馬の弟子の一人で、後にやはり人間国宝となる山田貢からも、反物への渋紙の付け方から作家姿勢まで、多くを学んでいる。

 1969年、髙橋は第九回伝統工芸新作展、第16回日本伝統工芸展に相次いで初入選、23歳で作家としてスタートした。作品内容は、線を主体にした幾何学的な模様の名古屋帯に着物。1971年には第二回シルク博物館染織作品展にも入選し、1973年には独立して、自分の工房を持つのである。

第二の修業

 独立の2年後には父が他界し、生活のため1985年まで髙橋は公募展等に出していない。この間は弟子時代とは異なる新たな修業の時代であった。「背負い呉服」と呼ばれる店舗を持たない呉服商人の注文に基づき、絢爛豪華な振袖から七五三用の吉祥文の着物まで何でも手がけた。1983年には大手呉服問屋との付き合いも始まり、「中村勝馬と山田貢の雰囲気があってそれと違うもの」といった注文にも応じた。

 1986年、40歳で再び日本伝統工芸展に出品を始めた髙橋は、翌年日本工芸会正会員になり「柏寿苑」(市田株式会社主催による図案の勉強会、展示会をする場)に参加して、図案に磨きをかけていく。参加者は森口華弘・邦彦、北村武資、福田喜重、田島比呂子、山田貢、鈴田滋人など錚々たるメンバーであった。

自然の動態を友禅に ― 具象・抽象を超えて

 髙橋の作風は、1969年の初期から線を主体に構成した半抽象的な意匠の帯や着物である。初発表の《友禅名古屋帯 線》を除くと、タイトルにも「波」や「濤」など水の動きが反映されている。色調も当初からブルー系など寒色が基調である。髙橋が使用する真糊(糯糊)は特に寒色に映えるのである。その後10年以上をおいて再び日本伝統工芸展で発表した《友禅訪問着 柳糸文》(1986)や《友禅訪問着 竹林文》(1987)などは、具象的な植物モチーフで構成された。

 初期の線模様と、ブランク後の植物模様は、一見、全く異なる方向性のようにも思われるが、動きを表現するという意味では同じ姿勢によるものであろう。つまり前者は一見、線で構成した幾何学的要素に見えて、実は水のような形なきものの流動する姿を表したものであり、後者は一見、柳や竹という具体的な題材を描いたようで実は、風に揺れる柳の枝の動き、竹林を吹く風の印象を捉えたものに他ならない。作家は植物の葉や枝の形を説明したいのではなく、植物の葉や枝が動くさまの印象を表現しているのである。《友禅訪問着 武蔵野》(1990)にみるススキの群生も、ススキの穂を借りてむしろ風を表現している。髙橋にとって線は単なる幾何学要素ではなく、自然の動態を表現する重要な要素であり、その発想は21世紀の現在も、この作家の友禅の根底にある。そして着物という形は、そうした自然のダイナミズムを表現するのにふさわしい等身大のサイズと広がりを持っているのである。

1990年代以降 ― “点描糊”と“線描糊”

すべて髙橋寬作 すべて髙橋寬作
(上)角帯 (手前)かくやまる、(中)やらず、(奥)いちまーつ すべて148,000円
(下)プラチナボーイ 九寸名古屋帯(左上)絲絲、
(左下)八橋、(右)かくにまるに すべて480,000円
 
《友禅訪問着 滄流》(1991)から《風韻》(1998)辺りまで、線の狭間に不定型な四角形などの水飛沫の表現が見られる。これも筒糊で置いたもので、飛沫の弾ける様子、零れ落ちる飛沫の動きを独自に文様化したといってよいだろう。

 さらに1997年の《友禅訪問着 残照》辺りからは、筒糊を点描風に置いていき、点の密度を変化させながら模様の面に立体感や奥行きをもたらしていくようになる。これをしばしば糊の線と組み合わせていくことで色数は少なくても模様全体に変化に富んだ豊かさが生まれる。茶室の違い棚にヒントを得た《訪問着雲雀棚》(2006)は、面の構成が糊の点描によって充実し、《友禅帯 踏分》(2007)は、茶室の露地の石の連なりが、やはり糊の点描によって立体的に表現されている。

 いわば“点描糊”とでもいうべき一粒ずつ筒糊を置いていく手法は、髙橋が勝馬の弟子時代に師の《一越縮緬黒留袖 七宝に鱗文》(1967)などを手伝う中で手掛け始めた手法である。京都で盛んな蒔糊(板状の乾燥した糊を砕いて使用するもの)とは異なり、糊の密度や濃淡を一粒単位で調整できる。近年、作家がしばしば手掛けている菱形の構成などの幾何学的意匠にも、柔らかさが加味され、着物や帯の抽象模様に変化と奥行きを与えている。2015年第62回日本伝統工芸展で奨励賞を受賞した《友禅訪問着 菱》は、連続する菱形を点描の濃淡のみで等身大に展開した、髙橋の糊の仕事における代表作の一つである。

 糊の点描を探求する一方で、糊の線の表現、いわば“線描糊”についても、髙橋は実験的に取り組んできた。2008年第55回日本伝統工芸展で奨励賞を受賞した《訪問着 颯颯》は、糊の線が時々隙間を空けながら断続的に続いている。かつて友禅の糊の線は、ひたすら細く均一に引けることがよしとされていた。しかし髙橋は極めて感覚的に、抑揚をつけるように微かな隙間を空けつつ引くことで、風が小気味良く吹く様子を表現している。振り返れば、この発想は既に《友禅訪問着 流水》(1989)でも試みられていた手法であった。さらに、受賞作では、ブルーの広い色面に斑状の濃淡が現れる様に、先金の太い筒で糊を伏せる手法も組み合わせている。結果、風の舞う様子が、青の濃淡二色の引き染と糊の線のみで実に豊かに表現されている。

 また、斜に並ぶ糊の線の間隔や、線の交錯が生み出す奥行きの表現にも作家は果敢に取り組んできた。《友禅訪問着 絲雨》(2012)のようなタイプの作品には、髙橋の糊の線ならではの大きな空間が築き上げられていよう。

糊が主導する友禅

《訪問着 颯颯》下図 《訪問着 颯颯》下図
 制作にあたり、作家は独自の工夫をしている。まず、思いついたラフをA4程度の下図に描く際、実寸の10分の1とする。拡大する際、計算し易いからだ。また一般的に着物の下図は、着物の後姿を襟から裾まで広げた形で意匠を考えることが多いが、髙橋は後姿だけでなく、前身頃の帯の辺りまでを入れた下図とし、着物の(生地の)前後の繋がりや関係をチェックしている(図)。更に、一つの発想をさまざまな方向に展開して検討するため、途中までデザインした段階の下図を複数コピーし、その先を幾通りにも試してから、一番いいと判断したものを実寸大に拡大して大下図とするのである。

 髙橋が、昨今、下図に色を入れず無彩色にしがちなのは、いわゆる色挿しのような括りの部分染が殆どなく、糊の線描と点描と地染め(引き染)の関係で意匠が作られていくからである。下図から実寸大の大下図にする段階で線を増やしたり、糊を生地に置き始めてから更に増やすこともある。糊の線の数や点の密度は制作を進めながら調整されていく。常に制作の途中に気づきや発見があり、作家はそれを一領の着物の制作中にも、また次作の展開においても随時生かしていく。それは、図案家に徹し、作業は第三者に任せるのでなく、髙橋寬のように、自身で作品内容を考案し、自身で糊を置く実材表現の友禅作家にこそ可能な、制作しながら考え、発見し、決定していくという手法である。かつての図案家にも、作業だけを行う職人にもできなかった現代の友禅作家の制作なのである。

 2016年、髙橋は日本工芸会東日本支部幹事長に就任し、中村勝馬同様、友禅の指導的役割を担うようになっている。約五十年に及ぶ充実した糊の表現の探求がこの作家の独創的な友禅を展開させてきた。今回の初個展では滑らかな光沢のあるプラチナボーイの生地に髙橋の点描糊や線描糊を生かした帯や羽織、紬地の角帯などが並ぶ。それは生地と染と糊の美しさが三位一体で築く世界でもある。色数を抑えながら糊で奥行や動きを表現する髙橋寬の友禅は、まさに現代の粋である。同時に、友禅の本質と可能性が糊の扱いにあることを、この作家の仕事から改めて確認するのである。

註 作家への筆者インタビュー、於練馬区髙橋寬工房、2016年10月15日

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