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久米島紬 ~自然の恵みとユイマールの心~|和織物語

著者:田中敦子(工芸ライター)

台風が琉球弧を駆け抜けた、その渦雲のちぎれ尾がまだ雨を降らせているという。久米島は現在大雨中の情報を受け取ったのは、那覇空港で乗り継ぎ待ちをしているときだった。 少しばかりの不安を抱いて搭乗した小さな飛行機は、乱れ雲を抜けてあっという間に久米島に到着した。  沖縄本島から西に約100キロ。一周53・31キロメートル、面積は63・21平方キロメートル。久米という名前は、古書にもある珠美に由来する。米の文字があてられたのは、いにしえより米作が行われていた豊かな島ゆえ、という。ここで久米島紬が連綿と織り続けられている。 同じ沖縄県にある、宮古上布の宮古島や八重山上布の石垣島の、5分の1ほどの小さな島だが、交易が盛んだった琉球の玄関口として、本島の歴史と密接に関わりながら、織物の歴史を重ねてきた。 心配していた雨は小降りになっていた。今回の久米島訪問は、銀座もとじ代表の泉二弘明さんのお誘いだ。空港まで迎えにきてくれた久米島紬事業協同組合の理事長・松元厳さんの車に同乗し、島を移動する。空が少しずつ明るんでくる。道の両側にはサトウキビ畑が広がる。車の窓を開けると、湿度を含んだ潮と土と緑の匂いがないまぜになって流れ込む。向かう先は真謝という集落にある久米島紬の里ユイマール館。協同組合の事務所と作業場、また観光客向けの資料館やショップもある施設は、久米島紬の中心的な存在だ。車が熱帯樹林を抜けると視界が開け、海が望める。やがて集落へと入り、赤瓦の古民家が並ぶ福木並木を通り抜けたところで車が停まる。空港から車で約20分。 まずはお見せしたいものがある、と松元さんが事務所に誘う。テーブルの上には鬱金風呂敷の包みがひとつある。 愛しむように開かれた中から現れたものに目をみはった。そこには、島の色があった。車中から眺めていた久米島の空と海の色。台風が過ぎ明るさを取り戻した薄墨色の曇り空だ。きらめくユウナ染めの青灰色の地色に、琉球藍の絣。ビーマ(水の場所という意)、ジュージ(十字絣)など琉球独特の絣が散り咲いている。 「プラチナボーイで織ったものですよ」と松元さん。雄だけの蚕から生まれた奇蹟のシルク〝プラチナボーイ〟の織物を、久米島紬事業協同組合の女性たちに託したい。泉二さんの熱い思いの成果が、私たちを鮮やかに迎えてくれたのだった。

久米島紬の歴史

沖縄の織物といえば、苧麻や芭蕉など南の島らしい涼やかな素材のイメージが強く、絹ならば琉球王朝ゆかりの首里織の高貴な生糸織。なぜ久米島で、真綿紬を織るようになったのか、その歴史はつまびらかではない。 琉球の歴史書『琉球国由来記』(1713年)によれば、1619年に、越前国の坂元普基という人物が、養蚕と桑の木の栽培を指導、1632年には、薩摩出身の友寄景友が〝八丈島織〟を伝えたという。けれど、これが久米島紬の起源というわけではなさそうだ。 久米島は、1511年に琉球王国の支配下になり、貢納布(税金)として紬を納めるようになる。さらに、1611年、琉球王国が薩摩藩の侵攻を受けて服属するようになると、いっそう重い税が課せられ、同時に布の品質の向上も求められた。つまりは以前から織物が行われていたということで、それについては、『琉球国由来記』の中に〝堂之大比屋物語之事〟の記事がある。琉球王朝の支配下以前、久米島の人々は海の民として、中国やアジアを巡り、交易をしていた。堂之大比屋は航海術に秀でた久米島の英雄で、島に太陽石と呼ばれる日時計をもたらして農業や航海の指針にし、また、中国から養蚕の技術を学び、久米島に伝えたという。十四世紀末の物語なので、15世紀には紬織の素地が備わっていただろう。交易により、東南アジアの絣織り技術も伝わっていたかもしれない。ただ、素朴でつましいものだったゆえ、貢納布にふさわしい織物にすべく、技術者の指導がなされたのだ。

豊かな自然と貢納布の賜物

ユイマール館の工房には、真謝周辺に住む女性たち約50人が所属している。それぞれの家庭事情に合わせて通ってくるから、特に始業や終業の決まりはない。 「切れにくい糸だねー」 「そうね、強くて光沢があるねー」 今回、プラチナボーイの糸を経糸にして織った山城智子さんや桃原禎子さんたちの感想だ。みな、糸の質感を喜んでいる。久米島紬は、絣括りから糸染め、織り、仕上げまで、一人が責任をもって一貫制作する。ユイマール館に並ぶ機も、みなそれぞれの個人機。白糸の段階からずっと手に触れて仕上げていくから、糸の良し悪しには敏感で、そんな彼女たちのお墨付きをもらったのだ。 曇り空はすっかり晴れて、南国の日差しが工房に満ちる。開放的で明るい空間。が、ここで感じる明るさは、日差しのせいばかりではないだろう。作り手のひとりひとりが、生き生きと前向きで、それが空気になっている。 ずらりと並ぶ機には、柔らかな色調の糸がとりどりに掛けられている。そのすべてが自然からの色で、島の賜物。グールー(サルトリイバラ)の地下茎や、ティカチ(車輪梅)の樹皮で赤茶色に染め、さらに粒子の細かい池の泥で染める久米島紬のシンボル、黒褐色。また、黄色は、ヤマモモ、クルボー(ナカハラクロキ)、フクギ。ベージュ系のシイやソテツ。これらは媒染剤により赤みや青みに寄せて、染め分ける。ウージ(さとうきび)の緑からもある。また、事務所でもみた青灰色のユウナ染め。久米島紬独特の染料で、ユウナの木を焼いて墨にしたものを水で溶いて染める。島ではグズミと呼ばれている。 あるときは織りたいものを。あるときは注文を受けて。島の豊かな自然から生まれる色で、何十回も染めては干して、根気よく糸染めする。最近は、大地染めも盛んだ。これは、鉱業が盛んだった久米島の、多彩な土を使っての染色だ。マットな薄紅色やクリーム色は、植物染料とはまた違う味わいがある。 トントン、カラカラ、手を動かすほどに、愛らしい絣が生まれ出る。カジマヤー(風車)、インヌヒサー(犬の足)、タキヌフシ(竹の節)・・・。道具、玩具、建物、自然、人体のパーツなど、身近にあるものを幾何学的に表現する絣は、みごとなデザイン性をもつ。が、ふと気になった。このなかに、久米島紬ならではの柄ってあるのだろうか。 「特にないですよね」と松元さんはいう。 織り手たちも首をかしげる。 琉球王朝の貢納布制度が大きな理由のようだ。琉球王朝のお抱え絵師が描いた図案〝御絵図〟を元に、久米島、宮古島、石垣島に指定の柄を織らせた。だから、似た柄がそれぞれの島に渡ることもあり、時に同じ御絵図が時期をずらして送られもしたという。本来はそれぞれの島で織られていた素朴な絣だったろうけれど、王や貴族のための柄として磨き上げられたのだ。明治維新を迎え、琉球処分により王朝時代は終わり、やがて貢納布制度も廃止されたが、御絵図の柄は琉球の絣として受け継がれる。だから、島独特、というよりも、琉球オリジナルなのだ。 ところで、琉球の絣は手結いと呼ばれる手括りが基本だ。久米島紬の場合は、緯糸に絵図式という絣技法を取り入れている。図案に沿って弦楽器のように木綿の白糸を横に張って、図案の緯絣に合わせて墨で印をつけ、その糸を目安として(種糸と呼ばれる)紬糸を絣括りするのだ。明治以降に導入されたもので、久留米絣も同じ技法で絣を作っている。 「明日は砧打ちをしますよ」と松元さん。風の凪いだ晴れの日が砧打ち日和だという。砧打ちもまた、久米島紬の特徴なのだ。組合では、週に二回は砧打ちが行われているが、台風の季節はタイミングが難しいという。

太陽のもとで緊張の仕上げ

プラチナボーイ 久米島紬着尺 プラチナボーイ 久米島紬着尺
翌朝、再びユイマール館を訪ねた。 外の駐車場に工房の女性たちが間隔をあけてずらりと並び、12メートル以上ある反物を横断幕のように持って天日干ししている。織り上がって洗濯した反物は、太陽の光により植物染料の発色が促されるという。 久米島紬は一貫制作が基本だが、肝心なところはこうして協力し合うのが昔からのならい。泥染めや仕上げの作業などで発揮される。館の名前そのままのユイマールだ。絆、人と人のつながり。 「いい柄だねー」 「これはソテツの明礬媒染だねー」 チュンチュンと雀がさえずる。台風一過の長閑な天気。 「この雀がね」と、手にする反物の織り主である平田トキ子さんがつぶやく。えっ? 「まれに反物にフンが落ちることがあって、そうしたら一貫のおしまい」 だれもが反物をハタハタ振っているのは、早く乾かすためだけではないのだ。 「小虫とか、花の花粉がつくとやっかいで」 屋外であれば自然のあれこれが飛んでくる。気づければまだしも、そのまま畳んで砧打ちをしたら、致命的なシミになる。きっと、何度も痛い目にあっているのだろう。自然の力はありがたく、けれどときにいたずらものだ。 表に裏にと返しながら八割方乾いたら、畳んで布に包んで砧打ち台にくくりつける。そして、織り主を中心に作り手たちがペアを組み、向き合って交互にトン、トン、トン、トン、約20回、力一杯叩いたら反物を畳み直し、次のペアがまた叩く。その繰り返しで約300回。砧打ちはアイロンの役目をはたし、ほどよい光沢を生み出しもする。 「下手に打つと生地を傷つけてしまうこともあるから、最後まで気が抜けないね」 大らかなようで、すべての段階で繊細に目配りしていることを教えられる。 久米島紬は2004年に、国の重要無形文化財に指定された。琉球王朝以来の古法を守り、地域性のある織物であることが認められたのだ。島で糸を作り、島内の天然の染料で染め、絣を手括りして手機で織る久米島紬。久米島紬の糸は、明治時代になって産業化していく中で、島の繭だけでは追いつかず、本土の繭を仕入れて糸にするようになった。繭も、琉球の固有種である琉球多蚕繭から白い大和の繭になった。 それでも30年前までは島内で養蚕が行われていたという。重要無形文化財に指定される少し前から、組合では年二回、小規模ながら再び養蚕を手がけている。糸の紡ぎ手の高齢化対策で、糸取りも行っている。 現在、組合員は100名。ここ真謝のほか、西銘、宇江城、比嘉にも作り手が集まっている。年間生産反数600反。最盛期だった大正時代の四万反には比べるべくもないが、それでも20代から80代までの幅広い織り手が揃うという久米島紬には底力を感じる。 「久米島にはね、新しいものを作るパワーがあるんです。伝統を守るだけでなく、いつの時代もニーズに応えてきた。進取の心と、意地と、ユイマールが、久米島紬を生み続けているんです」と松元さんは胸を張る。 「さ、もういっちょいこうか」 「次はどのペアがやるのかな」 笑い声と砧の音が、青い空に響き渡る。

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