絵絣を得意とする松枝家の久留米絣の技を継承する松枝哲哉・小夜子ご夫妻による銀座もとじにての待望の初展示会が、4月24日から開催されます!昨年秋の松枝ご夫妻との出会いから、初展示会へ向けての「ものづくり」をご紹介しています。
「久留米絣」の誕生

「絣」といえば、紋様の輪郭が“かすれた”ように描かれた布地や意匠として世界各地に古くから存在していた織物ですが、「絣」という織物が誕生する偶然は、きっと世界各地で同時発生的に起こっても不思議は無かったことでしょう。
「久留米絣」は、その絣織物の誕生をわずか12歳の少女による、絣のしくみの発見によって、もたらされたと言われています。
江戸時代後期、祖母と機織りをしていた、まだ少女であった井上伝(いのうえ・でん 1788年~1869年)が、自分の藍染めの古着の色あせた部分が模様のように見えることに興味を持ち、その布をほどいたところ、糸が斑上に白くなっていたことにヒントを得て、藍が染まっていない箇所と染まった箇所と組み合わせてみたら面白い模様ができるのではないか、と研究を重ねたところから、やがて幾何学文様の久留米絣の考案に至ったと考えられています。
絵絣の技法を5代に渡り伝授し続ける「松枝家」

1905年(明治38年)、福岡県三潴(みつま)郡大木町に生まれ、久留米絣を家業とする家に生まれた玉記氏は、中学卒業後すぐに絣を織りはじめて、洋服文化に移行した時代にも、じっと絣の研究を重ねていました。戦後復興期、その玉記氏の研究が花を開きます。
藍につけて染め重ねる回数によって、濃い紺から淡い空色まで出す技術を編み出し、絣の表現に大きな広がりを持たせることに成功しました。その藍の濃淡に染め分ける技術をつかって、空に飛ぶ鳥、野に咲く花々、光や風さえも表現し、久留米絣に作家性、創作性をもたらしました。

そして、昭和32年に久留米絣が重要無形文化財に認定され、昭和34年、松枝玉記氏は、重要無形文化財技術保持者代表となり、人間国宝となりました。
その技と探究心を受け継いだ、松枝家5代目、松枝哲哉氏と妻の小夜子さんは、藍とともに生きた祖父の雅号「藍生」を冠した工房「藍生庵(らんせいあん)」を福岡県久留米市に構えます。
「哲哉、藍は生きとるとぞ」
久留米絣の人間国宝であった祖父の松枝玉記氏から藍染めを、祖母からは機織を仕込まれた、哲哉さんは、玉記氏からいつもそう聞かされて育ちました。
中学生の頃より祖父の玉記氏に師事し、藍染めを学んだ松枝哲哉さんは、24歳の時には重要無形文化財久留米絣技術伝承者(手括り・藍染め・手織)となります。
小夜子さんは宗廣力三(人間国宝)氏に師事の後、1985年の哲哉氏との結婚を機に久留米絣に携わり、現在はご夫妻で、工房「藍生庵」にて、天然藍にこだわって染め織りの仕事を行い、久留米絣作家として国内外の様々な場でご活躍されています。

絣に対する情熱はすごくあった人で、影響を受けた点でした。」と、語ります。偉大な祖父の姿を見つめて学ぶことのできた環境と、藍の魅力が哲哉氏を、久留米絣の世界へと導きました。
「祖父に教えを受けた中学生のころから、毎日欠かさず藍の様子を確かめています。かわいいし、家族の一員みたいなものです。手をかけてあげれば、それだけの美しい色で返してくれる。いつも『いい色を出してくれたね』と藍に感謝します。本当にかわいいですよ。」
福岡県三潴(みつま)郡大木町に生まれ育った哲哉氏は、より美しい発色のための、良い水を求めて、1990年に現在の福岡県久留米市田主丸町竹野に移り住みます。
金属分が混じることは、天然染料を用いる作家にとって、ときに致命的ともいえる発色の差をもたらします。そのことを身を以て感じていた祖父の玉記氏より、松枝夫妻に水の良い場所へ工房を移すことを勧められ、一緒に場所を探して歩いた末に見つけた土地に、現在工房を構えています。
「筑後川の流れる、豊かな自然に恵まれたこの土地で、日々接する美しい水やまぶしい緑などの自然の情景に創作意欲をかき立てられます。ここにきて20年、自分の中で育ってきた感覚が、研ぎ澄まされてきた感じがあり、自然の命や輝きを表現したい、と思っています。」