
2009年6月、銀座もとじでの第1回目の個展を開催させていただいてから、ちょうど2年目、2回目の個展の開催が実現されました。
5月21日(土)には、松原伸生さんをお迎えして、幼少時代に育たれた環境や、祖父である人間国宝の松原定吉さんの代からのご家族との関わり、そして、その中から培われてきた作品作りや技術に対する思いなどについて、お話をお伺いしました。
「ものづくり」の環境が日常であった幼少時代

幼少時代は、友人たちが松原さんの自宅に遊びに来て、家に足を踏み入れると、普通の家とはまるで違った松原家の生活空間に驚き、興味深げに「いったいこの家は、どんな作りで、どうなっているの?」と尋ねられ、面白がられたそうです。
そして、松原さんの育った土地柄は、その幼少時代には、手ぬぐいや半纏などを染める染色の工房もあれば、金魚の養殖場があったり、風鈴売り、豆腐売りなどのいる、東京でありながらも味のある下町風景が広がり、また、周りには田畑も広がる田舎町のような場所でもあったそうです。
けれど、松原さんが高校を卒業されるころには、東京の他の街と同じく、ビルやマンションが立ち並び、すっかり当時の下町風情は姿をひそめてしまったようです。松原さんご自身にとっても、もし生まれたのが、もう5年、10年遅かったら、そういった昔ながらの街風景や人情味は味わうことができていなかったかもしれない、とおっしゃられています。
職人になろうと思ったきっかけ
「祖父の代、父や叔父の代、と携わってきた長板中形の藍染の仕事は、長い間、生まれてからの自分の日常生活の中に入り込みすぎていたので、その仕事の意義などを考えて過ごす機会もなく大人になりました。」
中学生のころまで、ご自分で長板中形の藍染を仕事として意識したことは無かったそうです。けれど、やはり育った環境のせいか、「ものづくり」ということには、惹かれる気持ちが芽生えていたようです。
「中学のときに、高校では、東京都立工芸高等学校という学校に入学したい、と考えました。学校見学に行った際に、この学校に入ったら年中、好きな図画工作が出来るのではないか、と思ってわくわくしました。」
実際に、この学校に入学してから、大変良い先生方にも恵まれ、ひたすらものづくりに励んだ日々でした。焼き物もやってみたいし、絵も描きたいし・・・、といろいろと、ものづくりとあればやりたいことが多々沸いてくる学生時代でしたが、その間、お父様の松原利男さんの個展をお手伝いするアルバイトに携わったご経験が、松原さんのその後の人生に大きな影響を与えることとなります。

そんな風にして、作品を身にまとっていただくお客様との関わりから、おやじは充実感を感じて仕事をしているのかな、とそのときに思いました。
そして、『僕もやってみたい』という確かな気持ちが芽生えました。
着物は、作品となって、身にまとわれるということが、素晴らしいことなのだと思いました。焼き物でしたら、持ち歩くわけにもいきませんし、絵でしたら、背負って歩くわけにもいきません(笑)。でも着物というのは、いつでも身にまとっていただけるわけです。」
作品づくりに適した環境をもとめて、星降る里へ
昔の下町風情のある田舎風景が失われ、すっかり現代的な街の様相を呈した場所で、本気で作品づくりに取り組むことは難しいと感じはじめてから、お父様の松原利男さんに相談されると、その当時、56歳になられていたお父様は、驚くべきことに、「じゃあ、移ろうか」と即座に同意してくれたそうです。

「お前のやりたい環境で、仕事をしていったらいい。本気で仕事に打ち込める場所であれば、好きなところに移ったらいい。」という、あくまでも作品づくりを一番大切に考えて人生を生きてこられたお父様らしい、ただただ前向きな答えがかえってきたそうです。
「『本気か?』と聞かれ、『はい』と答えました。」 19歳の時のことでした。
そして移った先は、千葉県君津市。
綺麗な水、屋内・屋外を問わず作業をする場所の広さ、太陽の光など、作品づくりに適した環境が整った場所として、この地を選び、お父様の利男さまとともにこちらに移られました。

夜遅く車で帰ってきて、何かがいるな、と思うと、鹿が座っていたりするような、そんな自然に囲まれた中に自宅と工房があります。」
松原さんのご自宅と工房は、木々や山々に囲まれており、それらが、秋には美しい紅葉となり、冬には雪景色、春には山桜が咲き乱れ、初夏のこの時期は、あざやかな青々とした緑が萌える、大変恵まれた自然環境の中にあります。松原伸生さん宅の犬 そして、夜空には、埋め尽くすように星が瞬き、流れ星もよく目に飛び込んでくるそうです。
「親父の強い覚悟があり、今の自分がいます。今長板中形の作品を作っている自分がいて、ここにこうして皆様の前に居ることができます。親父には、本当に感謝しています。」

厳しい修行時代のはじまり
「父は、言葉では教えてはくれませんでした。
糊置きを終えた作品の出来に満足していたら、父は無言で、それを水につけて糊を流してしまうこともありました。なぜだろう、と自分で考えざるを得ません。そして、父が糊をつくったときのその糊の状態や糊置きのし方を、父がその場を離れた隙に盗み見ながら学ぶような修行の日々でした。

父は、いつも傍にいながらも、作業手順を説明してくれたり、技法を教えてくれたりするようなことはありませんでした。
普段は、酒好きで、話好き。二十歳過ぎてからは、酒を酌み交わすこともよくありました。父と地方に行くことも多く、たとえば東北で酒を飲めば、ここのホヤが美味しいとか、牡蠣もうまい、など、その土地ごとの地酒を飲み美味しい料理を食べながら、明るく楽しい会話をいつも父としていました。けれど、仕事の話は一切なしです。

長板中形の真骨頂
「長板中形」とは、江戸時代に誕生した型染技法の一種です。木綿の生地に小紋よりわずかに大柄の紋様を藍の染料で染め、主に“浴衣”としてつくられてきたものです。江戸小紋、更紗、型友禅などのような、小さい紋様が描かれるものもあれば、半纏などに使われるような大型の紋様もあり、それらの中間をとるくらいの大きさの紋様が描かれています。
長い板をつかって、中くらいの型をつけるということだけでなく、生地の表裏、両側から柄をつけることが特徴です。柄を片面のみにつけた場合は「長板中形」とは言わず、表裏両面から同じ型紙の絵柄部分に糊が置かれることで、生地を藍染めしても、糊の付いた部分には一切藍の染料が入らず、糊を洗い落とした後には、その部分に白くくっきりと浮き出るように柄が表れるという点が、長板中形の真骨頂と言えます。

裏側全面にも糊置きが完了したら、再び天日に干します。天日に干した状態で、次は、生地に豆汁(ごじる)を引きます。豆汁とは、大豆の搾り汁のことで、これに石灰を加えた液をハケで均一に両面に塗って行きます。藍の染まりを良くするための大切な工程です。乾いたら、藍甕で浸染をしていきます。

その糊の素材が人工的なものではなく、自然のものなので、糊を落とす際に薬品を使う必要もなく、全て環境に良いエコロジーな素材です。
「柄が浮かびあがる瞬間というのは、江戸時代から行われたきたその糊の技法や素材のすごさを実感する瞬間でもあります。」
今回5月19日から行われた個展催事で、もとじの店内には、松原さんが精魂こめて作り続けてきて下さった作品がずらりと並び、柄によって種々に変化する藍と白のコントラストの妙をあらためて感じられる機会となりました。

“特別なもの”を作り続けるために

松原さんが生まれたときには、人間国宝であられたおじい様の松原定吉さんは他界されていて、お会いになられたことは無いそうです。
あくまで職人としての人生を全うされた松原さんのお父様の姿にも、お会いになられたことの無い、おじい様の姿が大いに反映されていたのではないでしょうか。松原さんは、お父様の死に目に会うことができなかったゆえ、いつも自分のそばに父の存在があり、工房の中でもいつも父の目がどこかで光っているような感覚がおありでそうで、そういった中で、自分を律して、常に技術を磨き、より良い作品を生み出すために全力を注いでこられました。
だからこそ、おじい様の代から守ってこられた長板中形の技法を、今度はご自分が守りぬいていくことの大切さを感じていらっしゃいます。

それほどに、古代から存在してきた藍という染料は、人間社会の中でも不思議な魅力を放ち、そこに確かな技術が加わることで、衣装としての素晴らしい装いを演出してくれます。ぜひより多くの方に、お手にとって、そして身に纏う楽しみを味わってみていただきたい作品ばかりです。
2009年に引き続き、また個展を開催させていただくことが出来たことを光栄に思いますし、松原伸生さんの今後の益々のご活躍にも期待したいと思います。ありがとうございました。