藤山千春さんの工房へ行ってきました

藤山千春,吉野間道,レポート

江戸時代に生まれた「吉野間道」を現代の街並みに似合うセンスで織り続けている、 作家・藤山千春さんの工房を訪ねました。

※「吉野間道」・・・寛永の三大名妓吉野太夫に京の豪商が贈ったと言われる、名物裂の一種です。 柳悦孝氏(柳宗悦氏の甥)らが復元し、藤山千春さんは悦孝氏の一番弟子として師事し、完成度の高い 作品を作り続けています。

バス通りから一本入った住宅街。車の音が静まった一軒家が並ぶ小道を行くと、 今度はカタカタ、カタカタ、機の音が聞こえてきました。 のぞいてみると、工房というよりはどちからというと緑がいっぱいの開放的な一軒家。 東京都品川区大井。都会の住宅街のど真ん中に藤山千春さんの工房はありました。
藤山千春さんの工房

「ここは私の生まれ育った家。父の代から住んでいる場所なんですよ。」 正面から入るとまず右に「矢車附子(やしゃぶし)」、左奥に「臭木(くさぎ)」の木。 そして庭の右奥にはマンホールくらいの円盤が三つ並んでいました。 「これは藍甕です。地面の中に甕が埋まっているんですよ。「矢車附子」や「臭木」 は染料として使っています。」

庭の染料の植物

その庭を“コの字”に囲むように建てられた部屋には織機がぎっしり。 「ここでは12人の織手さんにお願いしています。機は10台。自宅に機がある人も多いので、 危なくないところは自宅でそれぞれ織ってくることもあるんですよ。」 織手が12人!その多さに驚きました。 今、個人宅のようなこの規模の中でこれほどの織手たちを抱えられる工房はまずありません。

藤山千春さんの工房の機

藤山さんの“織”、そして“吉野間道”との出会いは? 「母が青ヶ島の生まれで、親戚が近隣の八丈島で織りをしていることが多かったんです。 だから織りは身近にあったのかもしれません。18歳の時、女子美術大学で初めて機を織ったことが始まりです。 卒業後2年間、柳悦孝先生の元で修業をして、そこで吉野間道に出会いました。 仕事がない時代。でも柳先生の作品は新宿に必ず引取ってってくれる先があって。 それで私も吉野間道を必死に織って勉強したんです。」 今となっては吉野間道=藤山千春さんと呼ばれる時代。そしてその色の抜群のセンスは多くのファンを魅了しています。 作品づくりにおけるこだわりはどこから生まれてくるのでしょうか。

藤山千春さん
「失敗して自分が気づかない美しいものができた時が素晴らしい。 美しいものはそういう時にできるという自信が今はあります。前は自分の計画通りにいかないと失敗だと思っていたの。 日々の中で偶然が持つ美しさに気づいたとき。50歳とかでやめなくてよかった、続けてよかったと本当に思います。」 計画を超えた新しいもの、美しいもの。経験以上のもの。

藤山さんはさまざまな言葉で何度も繰り返しわたしたちに 伝えてくれました。 「私は草木染をしているのだけど、これも染めるたびに同じ色にはならないもの。たまに染める糸の量を間違って しまって、後から追加して染めるのだけど、どうしても同じ色はできない。それが草木染の難点でもある。 でもね、それが織ってみるときれいなグラデーションになったりして。自分では気付かなかった配色ができあがるの。 それで次の作品に応用してみたりして。 草木染めは“工夫しよう”という気持ちが生まれるので、ありがたいと思っています。」

藤山千春さんの作品と聞くと、都会的な印象の、グレーやアイボリー、黒などベーッシックな色をベースとした ものが多いイメージですが、藤山さんははっとするような明るい多彩の作品も創作されているのを、ご存じですか? 「販売したくないから本当は見せたくないんだけど」と笑いながら見せてくださったのは、 目を見張る、斬新で美しい作品たち。 茜、紫根、コチニール、鮮やかな色彩たちがたっぷりとほどこされた作品は、色合いがどれも本当に絶妙で、 はずれがありません。 「これはね、ルネ・ラリック展で本当にうっとりしちゃって、ブルーでとてもきれいなものを作りたくなったの。 自分でもとても気に入っています。」 藤山さんの表情や言葉からは、本当に織りや草木染めが楽しくて仕方がないという想いが存分に伝わってきます。 二人娘も織りの道へ進み、同じ工房で織る毎日。明るく楽しく創作活動をする母の背中を見て、継ぎたいと感じたのでしょうか。
藤山千春さんの作品

今、染織業界は後継者の問題がある分野が大半です。ですがここはそのカケラも感じさせない。藤山千春さんの背中が、 多くの後継者を導いたのでしょう。