著者:田中敦子(工芸ライター)
東京を抜け、東北自動車道を走り始めてしばらくすると視界が開ける。関東平野は、なんて広い。東に二つの峰を持つ筑波山がある他は、ひたすら平らだ。同行の泉二社長が、「北海道みたいだよね」と言うのも頷けるほど、大規模な農地が遠くまで広がる。はるか昔より、筑波山の麓から鬼怒川流域の、この広大な平野部で、盛んに養蚕が行われていたという。正倉院には、税として収められたこの地の絹織物が、〝常ひ陸たち絁あしぎぬ〟として名を残す。着物好きならば知らぬ人なき紬織の至宝、結城紬の原点だ。
筑波ねの新桑まよの衣はあれど
君がみけししあやに着ほしも
万葉集の東歌は、この地方で庶民の手により養蚕がなされ、糸を取り、織をしてきた歴史を問わず語る。
軽く、暖かく、堅牢な結城紬は、鎌倉時代には武士に好まれ、また、江戸時代には、武家のみならず大店の旦那衆も愛用した。色は藍色、柄は縞。主に男性向けの衣料だった。養蚕、紬織の盛んな土地らしく、絹川、衣きぬ川がわであった川が「鬼が怒る」と物々しい名になったのは、度々の洪水によるものだが、江戸初期には徳川家康による治水事業により、鬼怒川は利根川と繋がり、東北の物資を江戸に運ぶ物流の大動脈となる。鬼怒川流域にはいくつも河岸が設けられたが、中でも結城は物品の集散地として栄え、周辺で織られた紬の反物は舟運により江戸に運ばれ、人々の需要に応えたのだった。繁栄の名残は結城市の歴史的建造物である見世蔵からも感じ取ることができる。
江戸時代に「常州結城より出づるを上となす」と高く評価され、男物として人気を博した結城紬だが、明治時代になると、女性向けの着尺が登場する。男性の洋装化が推進された明治時代、結城紬は女物にも力を入れるべく舵を切り、また多くの女性たちが着物のお洒落に目覚めた時代、伝統に根ざした新たな製品に取り組む機運が生まれていた。
「もともと結城紬は単衣仕立てで着るものでした。お客様から〝もっとさらっとした着心地のものが欲しい〟とリクエストがあり、そこから生まれたのが結城縮です」と教えてくれたのは、結城紬の卸問屋・奥順(株)専務の奥澤順之さん。軽い着心地を知る結城紬愛用者が求める、さらっとした風合い。もちろん、経緯ともに真綿糸。結城紬の織元たちは頭を悩ませた。が、突破口は思いがけず身近にあったという。「うちの本家である卸問屋の奥庄に嫁いでいたお嫁さんが、近隣の佐野出身で、佐野に綿縮があることを彼女を通して知り、これだ、と」。
時に明治35年(1902)。結城の人たちは佐野に通い、糸づくりを学んだ。木綿と真綿、綿状なのは似ているが、植物性、動物性の違いで扱いも異なり、なかなかうまくいかない。が、粘り強く研究を重ねて商品化に成功、その風合いが評判を呼んでたちまちヒット商品となり、こぞって縮を織るようになったという。
縮とは、強い撚りをかけた緯糸を使い、シャリ感を出す織物だ。開発時、真綿糸に撚りをかけるのに苦労したというが、なぜなのだろう。
奥澤さんは、今では数少なくなった結城縮を得意とする織元・須藤燁あきらさんの工房に私たちを案内してくれた。こちらでは、自社用に八丁撚糸機を備え、縮用の強撚糸加工をしている。江戸時代に開発された八丁撚糸機は、かなり進化したものもあるが、こちらの機械は動力を使ってこそいるものの、かなり年季が入っている。 「昔は集落ごとに撚糸屋さんがあったくらい、専門で糸をつくるところが多かったんですよ」と、須藤さん。昭和31年(1956)、縮に押されて生産反数が激減した平織の本場結城紬は、その技術保存のため、国の重要無形文化財に指定される。すると織元は、お墨付きとなった結城紬に商機ありと、次第に縮からシフトしてゆく。隆盛を誇った縮が顧みられなくなれば、専業の撚糸屋さんも廃業、転業に追い込まれてしまう。昭和60年(1985)には年間23反まで落ち込んで、須藤さんは「結城に結城縮がなくなっちゃいけないと思って道具をかき集め、撚糸を始めたんですよ」と、回顧する。
真綿をつむぐ糸には節ふしがある。それが紬の味わいでもある。けれど結城紬の場合、できるだけ細く〝平らに〟、つまり均質につむぐことを意識する。160亀甲など細かい絣を織るために、糸づくりには神経を使ってきた。「縮の糸はさらに平らさが必要なんです。太い節には撚りがかからないから細い部分に撚りが集中して切れてしまう。平織の結城紬用よりいい糸が必要で、糸集めも大変です」。
1メートルあたり2,000回転の撚りをかける。一気にやっては真綿糸が持たない。まず糸を小さなシャワーで湿らせてから下撚り1,000回、本撚り1,000回、と2段階に分けて真綿糸を撚り上げる。この方法を編み出して、真綿糸に強い撚りをかけることが可能になったのだ。
使う織機は主に地機。右撚り用と左撚り用の強撚糸の緯糸を、交互に入れて両しぼの縮を織る。杼は大きな刀とう杼ひ。縮の場合、無地でも右撚り、左撚りの2本が必要で、緯絣が入れば、絣糸(無撚糸)用に、さらにもう一本の杼が必要だ。腰で経糸を引っ張り、刀杼と筬でしっかりと緯糸を打ち込む。
「平織より縮のほうが、実は織るのも手が掛かるんです」と奥澤さんは言う。
明治時代に生まれた結城縮は、誰もが憧れるイケメン兄・結城紬の、年が離れた妹のように思っていた。だが、この妹、短い歴史の中で浮沈を味わい、しかも兄以上に手が掛かる織物だと知る。
それでも明治の結城の人たちが縮に力を入れたのは、その着心地を愛する人たちがいたからだ。寒い時期には結城紬、ほんのり汗ばむ時期は結城縮。そんな着分けを楽しんだ女性たち。少し前まで、単衣は6月と9月だけの装いだった。けれど、お洒落着の解釈が自由さを増し、また温暖化により着物暦通りでは堪えかねる昨今、単衣を着る時期がぐんと広がって、「さらっとした着心地」を求めているのは、他ならぬ私たちだ。今回の企画展では貴重な結城縮が20反近く揃うという。単衣を纏う時期が長くなったからこそ、大人のお洒落心を満たす結城縮の着心地をワードローブに加えたい。