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能登上布を守る唯一の織元 - 山崎仁一|和織物語

能登上布の歩み

その昔、能登上布は男物が主流でした。 その家に男児が生まれ、その子が大学に通うため家を離れる時になると、親は必ず真夏に着る衣類として柳行李の一番下に能登上布を入れました。 白の蚊絣を着て袴姿で出て行く子供の姿を皆、目を細めて見送ったそうです。 今その能登上布は衰退の危機に遭遇し、最盛期に120軒もあった織元は現在、たった1軒、山崎仁一氏のみとなってしまいました。 しかし…… 今、新たに新しい風が吹き、この能登上布にも後継者が生まれつつあります。 様々な職人の篤い志と責任感で守られてきた能登上布。 それをこれから引き継いで行こうとする人々、 そのひとこまを見ていただきたいと思います。

能登上布の歴史

約2千年前、第10代崇神天皇の皇女が能登の鹿西(ろくせい)町に滞在したときに『真麻の上布を作ること』を地元の人に教えたのが能登上布の始まりと言われています。 能登は古くから苧麻の生産地として知られていました。江戸時代の初め頃まで、この鹿西町や羽咋市(はくいし)で作られる良質の麻糸は近江上布の原糸として使用されていました。 1814年には当時一番高度といわれた今の近江上布を作る職工を招いて技術を導入、これを機に縮絣模様染め付けの手法が開発され、「能登縮」が誕生します。1904年に鹿島麻織物同業組合が設立され、織物は一段と好調に成ります。1907年には皇太子殿下への献上品として選ばれるまでになり、この頃から全国に能登の麻織物の上質さが認められ「能登上布」と言う称号が着けられました。 1915年には能登麻織物同業組合が設立されて能登上布は最盛期を迎えます。 第二次世界大戦までの最盛期は織り元が120軒、出機数は6千軒を超え、年間生産反数20万~30万反となり押しも圧されもせぬ日本一の産地となりました。1960年に県無形文化財の指定を受けます。 しかしその後、近代化の波には抗いきれず、織子が化学繊維に流れ、徐々に織元は減り、衰退の一途を辿りました。1988年にはとうとう能登麻織物協同組合も解散され、「幻の能登上布」とまで言われています。

能登上布の特徴

元来は亀甲と十字、蚊絣で男物だけだった能登上布ですが、今では、櫛押捺染や板締め、ロール捺染、型紙捺染などバラエティーに富んだ手法を取り入れて、亀甲絣、十文字絣、横惣、縮などが生産されています。 昭和に入って紡績されたラミー糸を使ったことで更に丈夫で、その上細やかな絣模様が生まれました。特に織り幅に十文字の絣を120個から140個織り出す絣合わせの正確さには比類がありません。
山崎仁一氏 山崎仁一氏
品質は堅牢で「能登上布の白絣は一生もの」と言われるほど優れています。 精緻さゆえに近代化が困難で、手仕事で始まり手仕事で仕上げる能登上布です。

機巻き

奥様の山崎幸子さん 奥様の山崎幸子さん
能登上布の織に入る前にはこの「機巻き」と言うものが必ず行われます。 別名「ギリ」と呼ばれるこの作業は、人の手と目の精密さを問われます。 能登上布で使う麻糸は、伸縮性が全く無いので、他の織物のように織り進めながら針を使って絣合わせをするというのが不可能です。そのため、機にかける前に経糸と緯糸を寸分の狂いも無くしっかり揃え、
適度の張りを持たせて絣合わせをきちんとし、ギリという道具に巻きつけていきます。 湿度がないと麻糸は切れやすいため、湿度を一定に保ち、決して糸が途中で切れることのないように細心の注意を払って作業は進められます。機にかける前の気を抜けない作業です。

板締め絣の木型作り職人

先年お亡くなりになった竹口定男氏。 この方は学校の先生から板締め絣の木型作りを始めました。 細かい図面にあわせて木型を彫るこの仕事は一分の狂いも許されません。天性の勘の良さから図面分析にその能力を発揮し、手先の器用さから人一倍細かい絣柄を木型に写し取り彫り上げる事が出来ました。この木型は全てメスの銀杏の木を使って行われます。彼が病に倒れたとき、誰もこの高度な技術を引き継げる人が居ませんでした。 実の娘が見るに見かね、名乗りを上げました。「今から私にお父さんのその素晴らしい技術を教えてください。必死になって勉強します。跡継ぎになりたい。能登上布を私も作りたい。」と何度も懇願しました。しかし頑として彼は首を縦に振らず、最後に一言こう言ったそうです。 「お前には無理だよ。家庭を持って子育てしながら出来る仕事ではない。もし万一お前が作った木型が一箇所でも間違っていたら、そしてそれに気付かずにその木型を出してしまったら、能登上布作りに賭ける全ての人の仕事を台無しにしてしまうんだ。たったひとつの絣が合わなかっただけで、糸も織も全て無駄になる。お前にそれだけの責任が負えるか!? 決してミスをしないと言う責任がもてるのか!? 」 この一言は私たち聞いているものにとっても、心の底にズンと響いてくる言葉でした。 きっと全ての職人さんがこの気持ちを持ち、自身の仕事に責任と誇りを持って仕事をしているのでしょう。そういう人たちに支えられてきたのが能登上布です。

将来の作り手、後継者がうまれつつある

櫛押捺染している尾西さん 櫛押捺染している尾西さん
寂しい話題だけが取り上げられていた能登上布ですが、今、山崎織元の所でも若手が修業に来て育ちつつあります。 金沢出身で金沢工業大学を卒業した尾西佐智江さん。彼女は大学を卒業して直ぐに山崎仁一織元を尋ねました。大学在学当時から伝統工芸に興味があった彼女は色々と学んでいく中で、「織物は一番細かい仕事だからこそ自分に合っている」と決心し、卒業と同時に山崎織元の門を叩いたそうです。
弟子入りして早5年。3年前には山崎織元に40年勤め、染を中心に能登上布全般を作っていた荒木さんという職人さんに素質を見出され、後継者としての厳しい指導を受けました。殆ど一日中どんな日も荒木さんに付いて彼女も必死で全ての工程を学びました。尾西さんの努力と天性の勘の良さも幸いして、5年で能登上布の1から10までを身に着けてしまいました。師匠だった荒木さんは既にこの世を去ってしまいましたが、今の彼女の腕と取り組み姿勢なら今後の努力次第で荒木さんのしてきた仕事を受け継ぐ事も可能です。能登上布にも明るい話題がありました。

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