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絣模様で創る空間~大高美由紀の織~|和織物語

著者:外舘和子(多摩美術大学教授)

海外から評価される日本の染織

2010年、熱海のMOA美術館で、日本工芸会東日本支部創設50周年を記念した展覧会「21世紀の伝統工芸―世界の眼―」が開催された。神奈川県南足柄市在住の大高美由紀もこの団体に所属し、日々研鑽を積む作家の一人であり、同展に《吉野織帯「秋野原」》を出品、見事、奨励賞を受賞している。銀座もとじのスタッフが初めて大高美由紀という才能に出会ったのもこの展覧会であったという。受賞作は、赤、青、緑、紫などの系統の多色を用いながら、吉野織という個性的な組織による経緯のラインによって色面が知的に区分けされた密度の高い帯であった。作者に拠れば「モザイク状にすると色々な色が使える」(註1)という狙いのもとに制作したという。 この展覧会は、外国人研究者2名によって審査した珍しい展覧会である。同展の講評で、審査員を務めたイギリス人学芸員は、陶芸をはじめとする7部門中、染織部門と木竹部門の抜きんでた好印象を述べている(註2)。最高賞のMOA美術館賞も染織が受賞した。受賞作の一点は友禅の「着物」、もう一点は大高の「帯」と、いずれも日本独自の染織の形状を取るが、そうした「形式」を超えて日本の染と織が、西洋の人々にも評価されることがこの展覧会の結果からも窺われる。 実は、染織、特に織物は、元来西洋においても親しまれてきた領域であり、例えばパブロ・ピカソが自身の絵画を織物の壁掛に置き換えることに好意的であったのは、綴れ織りの壁掛が欧州で一種のステイタスを持っているからである。染織やテキスタイルは、技法・作風は国により様々であっても、どこの国にも存在するグローバルな表現領域なのである。 但し、勿論、大高美由紀の帯や着物は、ピカソの織物のような応用美術としての織物ではない。前述の壁掛では、作者ピカソは原画を提供するのみで、それを第三者(織の職人)が綴れ織りに変換している。しかし大高は、自身で織模様を考案し、自ら糸を染め、自らの機で織りあげるという、徹底した〝実材主義者〟である。こうした在り方は、日本で大正以降に現れ始め、本格的には戦後〝工芸作家の染織表現〟として普及してきたものである。 今日では、そのような日本の染織作家の姿勢も含めて海外から理解されるようになりつつあるが、大高美由紀もまた実材を扱う創造的な染織作家の一人なのである。

織への道

大高美由紀は、1963年、横浜市に生まれた。少女時代より、手芸や編み物など、手先を動かす事を好み、多摩美術大学では油彩画を学んでいる。 20代の初めまで、大高は和装に格別興味はなかったという。成人式も洋服で済ませた。呉服屋のパンフレットによくあるような、花模様が全面に散らされた着物に白いショール、という画一的なスタイルを自分も纏いたいとは思わなかった。そこには、むしろ他の人とは違っていたい、という大高のアーティスト気質が早くも窺われよう。 着物に興味を持ったのは、多摩美を卒業し、会社員をしていた20代半ばのことである。正月に親戚が振袖をリメイクした訪問着を着せてくれる機会があり、得も言われぬ高揚感を覚えたという。しかし着物を自分で着られなかったことにもどかしさを覚え、すぐさま着付け教室に三年間通っている。週に一度は着物を着る―その習慣によって大高は自然と着物の店を見て歩くようになった。 ある時、大高は着物売り場の店先で、大島紬の実演を目にする。経糸に緯糸が入っていく様子を凝視していると、織り手の老婆が機を触らせてくれた。織の面白さに開眼した作家は、織を学べる場所を探し、新潟県立十日町テクノスクール織布科に入所、そこで紬織や経緯絣の基礎を学んでいくのである。

染織作家に学ぶ創作の姿勢

今日、産地で学んでもすぐに織子になれるとは限らない。十日町で募集のあった検品や仕立ての仕事に就くのではなく、なんとか織を継続する手段を探していた時、雑誌『美しいキモノ』で日本工芸会所属の絣織作家・神山尚子が若手を育てていることを知る。 大高は1998年、南足柄市で制作していた神山に弟子入りし、2001年までの3年半、内弟子として修行するのである。 産地の教育と作家の教育はしばしば対極である。十日町のような染織を産業として発達させている地域では何よりも効率が重視される。 例えば研修の後半、自分で考案した図案を先生に見てもらう。絣模様はもっと単純にし、括りやすい本数にするよう指導される。絣糸のぼかしをポイントにしたい、括りでなく浸染でもぼかしは可能なのではないか―研修生たちは自分の絣模様を実現する方法を考え提案するが、作り手一人一人の個性は、産地の生産効率の前に却下されがちであった。 しかし、神山尚子のもとでは逆の姿勢を学んだ。こういう模様を創りたい、それにはどうしたらいいのかを考え、工夫する―そこに新しい表現も生まれる。 「神山先生はよく、こうしたいのだけど、どうしたらいいと思う? と私たち弟子に投げかけてこられました」と大高は弟子時代を回想する。染織で表現するとは何か、染織作家として織物を創るという在り方を、大高はそうしたやり取りの中で学んで行ったのである。

註1 大高美由紀への筆者インタビュー、2016年7月7日、於大高美由紀宅。以下、作家の言葉はこの取材に拠る。 註2 ルパート・フォークナー「日本工芸会東日本支部第50回記念『21世紀の工芸―世界の眼』によせて」『21世紀の伝統工芸―世界の眼―』図録、社団法人日本工芸会東日本支部、2010年、八頁。

色彩を自分のものにして動きのある空間を

神山が日本工芸会に所属し、日本伝統工芸展などで精力的に発表していたこともあり、大高も2004年には第18回シルク博物館全国染織展に、05年には第45回伝統工芸新作展や第39回日本伝統工芸染織展に、07年には第54回日本伝統工芸展に初入選している。 そして織の世界に入って僅か20年足らずの間に八度の受賞という着実な成長ぶりを示してきた。日本全国に平織で絣模様を織る作家は数多いる中で、その受賞歴は注目に値する。 いずれも幾何学的な絣模様を基本に、初期には寒色系や茶系などの落ち着いた色調で、動きのあるリズムを生み出している。経糸と緯糸で構成される織物は、自ずと直線的で静かな模様になりがちだが、そこに斜を示す模様の要素を取りこむことで、空間に動きが生まれる。 さらに2008年には、《紬織絣着物「花散里」》で、落ち着いたピンク色の濃淡の経縞に白い絣を細かく散らし、花びらが舞い落ちるかのような、軽やかにして華やぐ世界を表現、第48回東日本伝統工芸展日本工芸会賞を受賞した。審査会場は薄暗く、染織作品にとって決して好ましい環境ではないが、この年、染織部門の鑑審査員を務めた筆者は、会場に入るや、その聡明で媚びのない上品さに魅了されたことを記憶している(註3)。 この頃から、大高の色彩世界に暖色系の明るいトーンが現れ、2013年の第53回東日本伝統工芸展でも桜色を基調にした《紬織絣着物「春のしらべ」》で根津美術館館長賞をしている。作家に拠れば、「明るめの方が絣の抜け感が出る。絣の色やリズムが浮きたってくるような空間を着物の中に創りたい」のだ。 2016年の最新作、第56回東日本伝統工芸展川徳賞受賞の《吉野織帯「霜夜」》は、濃い紫を基調に、白と薄紫の絣のぼかし足の長さを存分に利かせ、その絣模様を吉野織の垂直ラインに対しては斜のリズムで白と薄紫を交互に配し、吉野織の水平ラインは各絣の中央で交差するように配した、奥行きある空間性の高い表現である。主張ある要素を、密度の高い世界に破たんなく構成した作品であった。
すべて大高美由紀作 プラチナボーイ 着尺 (上)「緑陰」、(下)「いぶき」 着尺「七四」、 角帯(上)「行く秋」、(下)「瀬」
すべて大高美由紀作 プラチナボーイ 着尺 (上)「緑陰」、(下)「いぶき」
着尺「七四」、 角帯(上)「行く秋」、(下)「瀬」

自身の絣模様を創る醍醐味

制作に際しては、模様の単位となる絣の形をまず決める。大高にとって制作工程中最も楽しい時間だという。その後、絣の大きさ、どう連続させるか、着物のどこに置くか、下図を描きながら決定していく。部分から全体へと思考が展開するのである。図案から実際の織に入ってみて、図案の時点の想定とは異なる印象になることもあり、試し織は欠かせない。 着物は色数を抑え、帯は逆に多色の組み合わせを楽しむ。どのような色調も自分に引き寄せ、どこかに自然のリズム、揺らぎや動きを感じさせる世界を構築していく。 色の組み合わせは頭の中で考えるより、かせ糸を並べて色調の方向性を決め、必要な色糸を染めて準備する。染料は化学染料と天然染料とを必要に応じ使い分ける。最初に何らかの色に染めた糸を絣模様の為に再び染める場合など、染色中に最初の染め色が変化してしまうリスクがある場合は、化学染料を使用する。自身の世界観を表現することを優先し、必ずしも植物染料に固執しない。一方で、南足柄市は水質がよく、染料の材料となる植物も豊富で近所の人々も協力してくれる。枇杷、楊梅、小鮒草など日常目にする植物から美しい色を取り出す歓びは大きい。思いがけない色が手に入ることもある。 また使用する糸の種類によっても発色は異なる。プラチナボーイでは、織り上げた時、一枚ベールを被ったような光の流れが生じ、同じ染料の濃度でも一段明るくなる。様々な条件下で色彩を自分のものにできるか否かが作家の染織を大きく左右するのである。 この度の展示会では、男物、女物両方の着尺や帯が並ぶ。中央(折目)を境に色の変化をつけた吉野織の角帯、グリーン系の縞の着尺など、色彩を自在に操る大高の力量が存分に発揮されている。勿論、脱ジェンダーの今日、ピンク系や大柄の着物を男性が着こなすケースも増えつつある。大高美由紀の着物や帯は、着る人に自分の新しい魅力を発見させることだろう。 大高は現在、年一回、中学生に織を体験させる授業に協力している。機が3台置いてあるのはそのためでもある。初めて機の前に腰掛ける中学生が並んで順番を待ちつつ、短時間の内にも二度目はもっと上手く織りたいと意欲を見せる時、人間の根底にある向上心のようなものに作家は共感するという。次作はもっと良いものを―そうした意欲はまさに大高美由紀自身の姿勢にも重なるものであろう。日々の積み重ねが、この作家の織物を豊かに進化させ、また深化させてきたのである。

註3 筆者が大高美由紀の作品評を書いたのも、同展図録が最初である。

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