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視覚の冒険―森口邦彦の錯視的抽象の友禅| 和織物語

著者:外舘和子(多摩美術大学教授)

 友禅作家・森口邦彦について語ろうとする時、その父・森口こう(1909 - 2008)の存在を引き合いに出すことは自然なことであろう。父子二代にわたり、友禅の重要無形文化財保持者として染織界を牽引してきたという稀有な役割はもとより、「具象」の華弘に対する「抽象」の邦彦、あるいは自然の形象を華やかに謳い上げる華弘と、幾何学形態にクールに徹する邦彦という対比は、両者を端的に説明し易い図式である。
 しかし今回、およそ50年、華弘の側で友禅の仕事をしてきた森口邦彦の作品を改めて振り返ると、そうした図式を越えて、この作家の作品世界の本質や、昭和・平成・令和を歩んできた意義が浮かび上がってくる。
 私はかつて学芸員時代、最初に扱った友禅が森口華弘の着物であり、後に森口邦彦の作品を展示する機会を得たが、2人の作品の違いと、同時に両者に通底するものが、今回、森口邦彦論を記す中で、自ずと明らかになっていくものと思われるのである。

京都に生まれて

 森口邦彦は、1941年、京都市の二条に父華弘、母智恵のもと3人兄妹の次男として生まれた。家業は長男が継ぐものといった保守的な考えはそもそも森口家にはなかったのであろう。兄は建築を学び、設計管理の仕事をしている。華弘は邦彦が生まれる2年前に友禅師・三代中川そんのもとから独立し、蒔糊の技法を研究していた。既に江戸時代の友禅に蒔糊と思われる作例が東京国立博物館の収蔵品に見られるが、これを本格的に復活させ研究し、広く普及させたことは華弘の功績の一つである。さらに1939年には、華弘は業界の悉皆屋の配下を離れ、染色作家として本格的なスタートを切っている。染織産業としての充実故に「作家」という位置を確立することが困難であった京都の染織界で、華弘の姿勢は明らかに歴史を切り拓くものであった。
 「華弘は私の父ではありません。近代友禅の父なのです」(註1)という邦彦の言葉は、父に対する敬意だけでなく、染織史を俯瞰した際の紛れもない事実を含んでいる。邦彦が物心ついた頃には既に、父華弘が今日的な友禅作家としての歩みを始めていたというタイミングも重要であろう。分業製作から個人作家の実材表現の誕生へという過渡期を森口家は体現しているのである。
 少年期の作家は、大らかな父のもとで伸び伸びと育ったようだ。作家によれば「最初の表現手段は写真」である。16歳で父から中古のドイツ製カメラ「ローライコード」を与えられ写真を撮った。それは自身も若き日にガラス乾板写真に熱中した華弘自身の夢を息子に託したいというような父の思いもあったであろう。また同時に森口邦彦の“人間の視覚”に対する最初の興味を育んだことも考えられる。レンズを通してみる世界は、肉眼で見る世界とはまた違った世界が見出せるからである。

前衛の京都で

京都は歴史を代表する日本画家たちが集中する地域である。森口邦彦は思春期を迎えるころには絵画を志すようになり、堂本印象の指導のもと、同志社高校時代には、本格的な絹本に描く日本画も学んでいる。この頃絵画を学んだ東丘社塾生・市川よう(1929 -)の感覚が、森口邦彦の前衛的な抽象表現の要素を育む最初の役割を果たした可能性もある。自らの作品を「可変絵画」と呼んだ市川洋の世界はまさに図形を知的に分析していくような作風であり、市川もまた後の森口同様、1966年に渡仏した作家である。
 折しも1940年代末から60年代の関西では、日本の本格的な前衛のうねりが生じていた。具体美術協会が1954年に発足、その代表的な作家・白髪一雄(1924 - 2008)は呉服屋の出身である。さらに1963年には京都で染色集団「無限大」が誕生し、位相学的な抽象の世界を探究するようになった。「無限大」は、メンバーの証言によると、1963年に他界した型絵染の人間国宝で京都市立美術大学(現・京都市立芸術大学)の教員であった稲垣としろうの遺志を発展的に継ごうとしたものだという。新しいものを求める動き、とりわけ染色の世界に、グラフィックデザインの世界とも交錯する抽象的な表現を模索するムーブメントが沸き起こっていた。それが稲垣のような王道の型染と地続きであることも、いかにも京都らしい。いかに前衛を謳い、過去を否定しようとも、厳然として染色や日本美術の濃厚な歴史が京都に存在していたことも押さえておかねばならないのである。

絵画を目指して ― フランスで学んだオプティカル・アート

絵画を志して京都市立美大の日本画科に進んだ森口邦彦は、上村しょうこう、榊原ほう、秋野そんら錚々たる画家たちに学んでいる。森口は当時、美大の中でもアメリカのポップ・アートの流行を感じながら、それに馴染めずにいたが、京都市美術館でフランス美術の展覧会を見てコローらの絵画に惹かれ、渡仏を決意する。美大の授業の傍ら関西日仏学館でフランス語を学び、1963年22歳でパリ国立高等装飾美術学校に入学した。同校は基礎教育が充実しており、森口は石膏デッサンのほか50センチ前後の人体の塑造なども行い、それは現在の友禅の仕事で、女性の身体と模様の関係を考える際に生きているという。

1960年代のフランスは、ポップ・アート旋風に対抗するかのようにオップ・アート(オプティカル・アート)が注目されていた。ヴィクトル・ヴァザルリ(1906 - 1997)やブリジット・ライリー(1931 -)らに代表される錯視効果を利用した抽象芸術である。作家自身、ブリジット・ライリーは好きな画家の一人であるという。森口も学校の課題で黒と白の線と面の構成のみによって、花弁のような形を背景から浮かび上がらせる習作を制作している(右図)。

森口は優秀な成績でパリの学校を卒業後、そのままフランスでグラフィックデザイナーとして活動するつもりでいたが、フランスに残るために保証人を依頼した画家・バルテュス(1908 - 2001)に、日本文化の素晴らしさを説かれ、また父の跡を継ぐことを薦められて、1966年に帰国する。奇しくも渡仏のきっかけとなった絵画はコローのような具象の風景画家であり、帰国を促したのもヨーロッパ具象絵画の正統なる継承者バルテュスであった。具象の美しさに対して素直に美を見出す森口の感性は、父譲りであろう。

森口邦彦作 友禅訪問着 「六ッ割七宝花文」
※第38回日本伝統工芸近畿展 出品作品(平成21年)

父・華弘のもとでの修行

帰国した翌1967年、森口は父の工房で友禅の修行を始める。梅や菊などの樹木や花を、蒔糊の地を生かして華やかに展開する父に対し、森口は当初から幾何学的抽象という道を選んだ。具象的題材の描写力では到底父にかなわない、と考えた事も理由の一つには違いない。「着物全体にさっさっとアタリを付けると、細部から物凄い集中力で描いていく。部分を描いていても全体が見えている。絵を描く速さ、正確さではとても父にはかなわないと思いました」と作家は父を回想する。
 父の圧倒的な実力に怯んだ作家は友禅を断念しようと思ったこともあった。しかし「自分には継げない」と申し出た邦彦に、華弘は自身の経験を引き合いに出して諭したという。いわく「うちは何代目とかいう家ではない。自分の好きなようにやったらええ」。確かに華弘は中川華邨のもとで15年、極彩色の緻密な友禅を手伝ってきたが、独立して以降、好きなピンク色などは多用するものの、色数自体は大きく減らし、自然を題材にした大胆な構図と、蒔糊の地を着物全体に生かした、むしろシンプルな友禅になっている。また華邨のもとでは古典的なまでに吉祥的な具象模様を手掛けているが、独立後は“線”を基調とした抽象的な模様にも作域を広げている。糸目糊の線と蒔糊の地のみで殆ど無地にも見える世界を築いた華弘の《光》(1964)などはその例である。つまり華弘も作家として「好きなように」制作してきたのである。森口邦彦がほぼ一貫して幾何学的抽象の世界に取り組んできたのは、父と比較されることを避けるという消極的理由よりも、父と同様、自分の世界を築こうとする意志であった。一度は友禅の道を諦めようとした邦彦が、発表の初期から堂々と抽象表現で勝負できたのは、華弘が邦彦を一人の作り手として干渉せずに接したことによるだろう。

森口邦彦のオプティカル友禅の特徴

【一】図と地の関係のメタモルフォーゼ
 森口邦彦の記念すべき第14回日本伝統工芸展の初入選作《訪問着「光」》(1967)は、正方形を基調に右の袖から左裾(左袖)へ、対角線状に図と地の関係が次第に等価な関係へと溶け合っていき、全体的に臙脂色が淡い色調へと変化していくものであった。また、第16回展出品の《訪問着「千花」》(1969)では、三弁を繋ぐ正六角形の模様において、裾から肩に向かって三弁の線が次第に細く淡くなり、正六角形が見えなくなっていくというものである。それは、いわばエッシャーのような、一種の視覚マジックを想わせる世界でもある。
 模様の単位となるモチーフの比率の変化や、色の濃淡・コントラストを段階的に変化させる“図と地の関係のメタモルフォーゼ(変容)”は、以後も邦彦作品の主要な特徴の一つとして、様々な基本図形をもとに、着物のフォルム全体を意識して展開されていく。それはオプティカル・アートを彷彿とさせ、同時に一種のキネテイック・アート(動く芸術作品)の要素も持っている。但し、視線を一点にとどめて模様を見つめるのではなく、視線を動かしていくことで模様の変化が見えてくるという、生きた人間の目線を前提としていることにも注意したい。その変化が着物という等身大サイズで展開する迫力も重要なのである。

【二】友禅技法を生かす―蒔糊と糸目糊による有機的な幾何学的抽象
 第2の特徴は、邦彦がその初期から友禅の技法を積極的に生かしていることである。その一つは蒔糊であり、もう一つは糸目糊の線である。森口邦彦の作品は、正方形や六角形など純粋な図形要素に発し、極論すれば白と黒だけでも成立し得る世界のように見える。実際、初期の日本伝統工芸展の図録図版はモノクロで、染織作家にとってはもどかしいものなのだが、森口邦彦作品に関して言うなら、モノクロでもその世界の構造自体は明らかである。色を排除しても成立し得る友禅という意味で、邦彦作品は超前衛である。
 但し、初入選作を含め、この作家の作品は徹底して友禅である。蒔糊と糸目糊という友禅固有の技法を活用することで作品が成立しているからである。蒔糊のテクスチャーは純粋幾何学の模様に一種の有機性を与え、黒と白の間に“第3の色の面”を生み出している。この作家の友禅模様は、仮に白黒であっても常に3色ある、といってもよい。さらに糸目糊の線も幾何学表現に大いに活用されている。例えば糸目の幅を徐々に変えていくことで面を作ったり、糸目の先の連続が新たな図形を生み出したりするという風に、線と面の関係が、新たな幾何学表現、錯視的表現を創出するのである。今回、筆者が取材した折に制作中であった着物も、そうした方向性の作品であった。
 一般に60年代の前衛と言われた図形的、抽象的な染色作品には、ともすれば「絵画でやればよいのではないか」「染の必然性はどこにあるのか」といった批判が聞かれることがある。確かに、作家たちの意欲とは裏腹に、表現としては薄く感じられ、物足りなさを示す作品も見受けられた。その点、森口邦彦はしたたかなまでに友禅の糸目糊や蒔糊を駆使し、作品は決して表面的なものに終わらない。巧みな図形の変化の妙のみならず、邦彦作品の空間性と奥行き、存在感と格を裏付けているのは、この作家の確かな友禅技術なのである。

【三】図案を練り上げる―着物ならではのデザイン・構図、女性の身体
 森口は父からは意見される事はなく、技術も弟子たちから教わったというが、逆に父から図案の草稿につ
いて「これ、どうや?」と意見を聞かれる事は幾度となくあったという。実は華弘の作品にも波模様において地と図が逆転する《縮緬地友禅着物「海の音」》(1972)のような錯視的表現があり、構図においても邦彦から影響を受けたとおぼしき作例がある。着物という形のどこに中心を置くかは、華弘・邦彦とも多様な試みがあるが、森口邦彦は着物のほぼ中央に、異次元への入り口のような空間を築いたり、《雪舞》(2016)(下図)のような一方向ではなくX状にグラデーションが交差したりする構図も手掛けている。

森口は過去の図案は全て整理し保管している。考案時に着物に出来なかった図案も、十数年越しに調整して着物にできるものがある。アイデアもまた随時見直して練り上げていくのである。
 また着物のデザインについて、衣桁にかけた状態だけでなく、女性が着用した際の、身体に模様がスパイラルに巻き付いていくような面白さを重視しているという。着物の模様は2倍楽しめるのである。「着物は甲冑のような女性の武具。自己改革していくもの」と言うこの作家の着物は、まさにクール・ビューティである。

 創業40周年を迎えた、銀座もとじの今回の展覧会では、着物のフォルムを最大限に生かした幾何学的展開に加え、要所に具象的な花を図案化して配した作品も並ぶ。会場には、纏う女性たちの知性を引き出す勝負服としての友禅が見られるに違いない。

もりぐちくにひこ 年譜

1941年 京都市生まれ
1963年 京都市立美術大学日本画科卒業、フランス政府給費留学生として渡仏
1966年 パリ国立高等装飾美術学校卒業
1967年 父・森口華弘のもとで友禅に従事し始める
1969年 第6回日本染織展にて文化庁長官賞
     第16回日本伝統工芸展にてNHK会長賞
1988年 フランス政府 レジョン・ドヌール芸術文芸 シュヴァリエ章受章
2001年 紫綬褒章受章
2007年 重要無形文化財「友禅」保持者に認定
2009年 「森口華弘・邦彦展-父子人間国宝―」
     (滋賀県立近代美術館・読売新聞東京本社)
2013年 旭日中綬章受賞
2016年「森口邦彦-隠された秩序」展(パリ日本文化会館)

だてかずプロフィール

 1964年東京都生まれ。美術館学芸員を経て現在、多摩美術大学教授、工芸評論家、工芸史家。また英国テート・セント・アイブスを皮切りに、海外巡回展『手仕事のかたち』、米国スミス・カレッジ、独フランクフルト工芸美術館など、国内外の美術館、大学等で展覧会監修、図録執筆、講演を行う。著書に『中村勝馬と東京友禅の系譜』(染織と生活社)など。毎日新聞(奇数月第2土曜朝刊)に「工芸の地平から」連載中。

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