著者: 外舘和子(多摩美術大学教授)
染色表現は、染めの原理からすると、直接的な捺染系の染めと、間接的な防染系の染めに大別される。友禅は後者であり、模様の輪郭などの染めない部分を糊の線で括ったり、糊で一部の面を伏せたりしてマスキングしながら、最終的に染め模様を生み出していく技法である。華やかな着物の文化を背景に、江戸時代中期の京都で大いに発達した友禅は、東京でも、近代以降本格的に行われるようになった。 日本の様々な染織の内でも、友禅はしばしば「絵画的」といわれる。糊の筒描きや、筆による色挿しによって日本画のように具象的な模様を自由に表現できることは、友禅の「絵画的」な要素である。 しかし、友禅におけるもう一つの重要な絵画性は、着物というフレームを前提とした“構図”という概念が不可欠であることであろう。例えば、織物や型染は、“あるパターンの繰り返しや展開”を基本に着物全体を形成していくことも可能だが、友禅は衣桁に広げた着物の形を起点として模様内容が配置されていく。つまり、自然や花鳥を模様化するというだけではなく、着物のかたちをキャンバスに見立てた“構図”という課題に、真っ向から取り組んできた染色表現が友禅なのである。 そして生駒暉夫も、具象的な模様の多様性や繊細な色遣いのみならず、友禅の構図の問題に当初から取り組んできた作家なのである。
友禅への道-呉服会社の染芸部で学ぶ
生駒暉夫は建具職人を父に、四人兄弟の次男として1954年(昭和29)、長野県佐久市に生まれた。少年時代は絵を描くこと、手で何かを作ることが好きで、父親の仕事場にある木っ端などを組み合わせて造形してみることが楽しかったという。 高校を卒業すると18歳で東京都内の呉服会社に就職。会社が友禅の着物の需要を見込んで「染芸部」を設けることとなった機会に、森藤一郎を頭に、生駒を含む3名が採用された。 生駒の友禅の仕事において最初の師となった森藤一郎は、着物や帯、屏風やパネルなど様々な形状に、街や自然の風景を切り取ってきたような具象的な世界を表現する作家である。生駒は30歳で独立するまでの、この会社員時代に、森のもとで友禅の修行を積み、また会社で茶人の誂えものなどを多く手掛けたこともあり、茶道の詫びや寂びの世界に触れるなど、多くを学んでいくのである。染芸展での発表
作家は呉服会社に就職して間もなく、「染芸展」への出品を始めている。「染芸展」は東京都工芸染色協同組合が主催し、経済産業省関東経済局などが後援する組合員のための東京手描友禅の展覧会である。1962年(昭和37)に創設され、今日まで続くこの「染芸展」に、生駒は1973年(昭和48)、20歳で第12回展に青年部の研究作品を出品し始め、1978年(昭和53)第17回展からは着物を出品、以後、今年の第56回展まで出品を続けてきた。 「染芸」という言葉の使用は、今日では専らこの染芸展で見かける染織の世界でも珍しい用語のようにも思われるが、当時の染色界では割に使われる機会のある言葉であった。公募展の名称や呉服会社の部署名のほか、例えば1979年(昭和54)に京都書院から出版された皆川月華の作品集のタイトルにも『染芸 皆川月華』のように用いられている。染と織という二つの柱から成る日本の「染織」において、「織芸」は聞かないが、染は「染色」以外に「染芸」という言葉も普及したということは、それだけ染物や染の表現が注目を浴び、人々の話題に挙がる機会があったということでもあろう。井原優山に水墨画を学ぶ
染芸展で研鑽を積む一方、生駒は会社の仕事の傍ら吉祥寺の武蔵野美術専門学校で石膏デッサンなど造形の基礎を学んだ。当時、閉まる寸前の銭湯に駆け込むという生活は、今や作家にとっては懐かしい思い出である。 また自身と同じ長野県出身の井原優山(1934-)に、生駒は月2回、25年間、水墨画を学んでいる。画力を身に着けるために日本画を学ぶという例は、友禅作家にしばしばあることだが、絵の師匠が、現代水墨画の作家であったことは、やや異例と言ってもよいだろう。手描き友禅は糸目糊で模様の輪郭を括ることを基本とする、どちらかといえば線の表現であり、多くの友禅作家は骨描きを基本とする伝統的な日本画家に学ぶことが多い。 しかし、井原優山は、大胆な面の構成と墨の濃淡で魅せる、現代の極めて抽象的な水墨画の世界で活躍する作家である。生駒はこの水墨画家に、モチーフの線描ではなく、むしろ思い切りのいい面の構成を学んだことであろう。墨の濃淡だけで表現する世界は、着物というフォルムの構図を考える上で、大いに参考になり得るからである。 師・井原優山が矩形のフレームの中にモノトーンの大胆な面構成を示した如く、生駒は着物というフォルムの中に様々な構図の可能性を試みるようになるのである。公募展への継続的発表
1984年、生駒は会社を離れ、作家として独立し、現在の仕事場で本格的な作家活動を開始する。前述の染芸展では、独立して2年後の1986年(昭和61)には早くも《春競う》で第25回展の東京都知事賞を受賞、その後も1992年(平成4)には染芸展大賞を受賞するなど精力的に発表を続けていく。 また、会社員時代から憧れを抱き、度々会場に足を運んだ日本伝統工芸展や日本伝統工芸染織展、伝統工芸新作展(現在の東日本伝統工芸展)にも挑戦し始め、1991年(平成3)に第32回伝統工芸新作展、1995年(平成7)には日本伝統工芸染織展、1996年(平成8)に第43回日本伝統工芸展にそれぞれ初入選し、2000年(平成12)には日本工芸会正会員に認定され、伝統工芸としての友禅を担う作家となっていった。
生駒暉夫作 友禅訪問着 「海風の詩」 2,800,000円 ※ 第51回日本伝統工芸染織展奨励賞・京都新聞賞 受賞作品(2017年)
植物モチーフを用いた構図の探求-着物の形を活かした変化と奥行き
生駒の友禅には、松や竹や梅など吉祥的な植物を含め、さまざまな自然のモチーフが描かれてきた。そうした植物に命を吹き込み、生き生きとした動勢を表現すべく、構図には様々な工夫が見られる。 生駒が一領の着物の制作に際し、十数枚のモノトーンの小下図を描き検討するのは、着物の形においてモチーフを活かす最善の構図を見出すためである。選んだ小下図をもとに、さらに大下図や生地の段階で調整していくことで最終的な構図が決定されていく。生駒の作品を振り返ると、その構図の考え方には幾つかの傾向がある。 例えば着物のヨコ幅を活かし、松など植物の枝葉を一つのまとまりとしながら左から右へ、やや斜めに長短のリズムを変えながら配置するもの。あるいは、着物のタテの長さを活かし、帯状のラインで“流れ”を作りながら、そこにモチーフを絡ませていくタイプ。生駒は単に植物を描写するにとどまらず、そこに何がしかの動的な要素を取り込もうとしていくのである。 さらに、モチーフの背景となる地色についても、その構成の仕方に、幾つかの方法を見出すことが出来る。既に作家として発表を開始した1980年代から、生駒は地色の配色と構成に力を注いできた。 中でも着物の形を、背を中心に左右で二分割するものは、「片身替り」といわれる伝統的な手法である。例えば、1986年(昭和61)第25回染芸展最初の受賞作、東京都知事賞を受賞した《春競う》では、地色を大きく左右で分けたうえでモチーフの花についても異なる色を使用し、全体としては梅の枝が左下から右上への動きを示しながら、咲き乱れる様子を表現している。 「片身変わり」は着物の伝統的な構成手法だが、生駒はこの発想を帯にも応用し、1994年(平成6年)第32回染芸展で3度目の大賞を受賞した《帯「秋月」》では、右手前にすだれを描き、霞む月を背後に大きく配してタテに分割した、いわば帯の片身がわりのような表現となっている。 さらに、着物の地色をタテに二分割ならぬ三分割の色面で分ける手法もしばしばみられ、左から右へ濃度や明度を変化させて空間に変化と奥行きを築いている。 そうしたモチーフの動的な配置と背景の色面構成の経験が大いに結実した作品の一つが、2017年(平成29)第51回日本伝統工芸染織展で奨励賞・京都新聞賞を受賞した《友禅訪問着「海風の詩」》(挿図)である。南国のヤシの葉をモチーフに、その羽の様な形の葉が海風を受け、重なりながら大きくしなる様子がダイナミックかつ繊細に表現されている。羽のような形を形成する細長い葉の細部は、ブルーやグリーンの濃淡、及び叩き糊(註1)などで立体感を出すとともに、糸目糊のみの白い線で表現した葉が、動きや奥行きを示している。地色についても、ブルーグレーの色面の濃淡でタテに三分割し、充実した空間構成を築いている。友禅ならではの具象性を基調に爽快なスケール感で南国の心象を表現したこの作品は、同時に着物という形状の魅力や可能性を改めて認識させるものであろう。
友禅訪問着「海風の詩」の小下図
友禅作家としての姿勢を伝えていく
生駒は独立して数年後には、作家志望の若手を弟子として置くようになり、既に8人が育っている。現在も武蔵野美術大学と共立女子大の卒業生2名が生駒のもとで修業中である。弟子を置くことのできる友禅の個人作家は今や貴重な存在だ。彼女たちが師・生駒暉夫から学ぶことは多い。描写力や配色のみならず、一領の着物を制作するために数十枚の小下図を描いて構図や模様のコントラストを検討し、さらに実作の過程で微調整していくあり方。団体展、公募展に精力的に発表する姿勢。さらには生業としての染織においても注文に対し期待以上のものに仕上げる態度。一方、常に弟子たちに背中を見られていることで「自分もカッコつけるようになる」ことがメリットであると作家は言う(註2)。見られることで作家としての向上心を忘れず、より一層の高い志を自然と維持していくことになるのである。弟子たちは師の姿勢そのものにも、友禅の未来と可能性を見出していくに違いない。註1:叩き糊は一般にタンポのようなものに糊を付けて生地を叩くが、生駒暉夫は叩き糊を行う模様の位置や内容により、例えば茶筅など道具を使い分けて使用している。 註2:2018年10月16日、練馬の作家宅兼工房における筆者インタビューより。
