森の中に差し込む柔らかい光、波間に光る水の煌めき
輝く時をすくいだし、絹織物の中に解き放つ。 織物に放たれた煌めきは、見る角度によって変化し、私達を夢の世界に誘う。優しく美しく煌めき、人を包み込む温かい表情を持ったこの織物は、見た人を魅了し、心から幸せな気持ちにする。 四季折々に咲く旬の草木を使って糸を染め織る。 絹の輝きに新鮮な植物染料の澄んだ色がさらに光沢を与える。 丁寧に織り上げられた織物は、おおらかであって繊細、秘めた力強さと気品もそなえる。 いつも笑顔で朗らかな平山さんが作り出す織物は、自然体。 気負いがなく、織物の中で煌めきの精が囁き合い、ダンスをしているかのようだ。 銀座もとじでの4年ぶりの個展です。煌めきの精が舞う4日間。 ぜひ夢の世界にいらしてください。
平山八重子さんの歩み
杉並区に3人兄弟の第一子として生まれました。小さい頃から手先が器用で、自分の着るものを作ることが苦にならない子供でした。中学生からはブラスバンド部に所属。高校ではさらに熱中し、自らブラスバンド部を作るほどでした。熱中していた音楽でしたが、卒業時には美大への進学を希望。浪人生活を送りながら女子美の別科へ行き、「自分に何があっているのだろう」と自分探しが始まります。
絵羽「立涌流水紋」
大塚テキスタイルの二部に籍を置き、昼はOL、週五日は夜間部の学生という生活を送ります。ここで織物に興味を持ち「日本の織物」という分厚い本を片手に、学校の仲間と様々な産地や織手を訪ねて歩きました。
正藍染の人間国宝、故千葉あやのさんや後の恩師となる人間国宝、故宗廣力三先生を訪ね、唐桟、南部紬、結城紬の産地なども回りました。京都では藤布を織るおばあさんにも出会いました。ひたすら糸を作り織ることを楽しそうに繰り返す、その無欲な姿を見て「これが家族のため、好きな人のために作る紬の原点ではないか」と心底感動。「これ持っていくか」ともらった藤布は一生の宝物になりました。額装して今も大切に飾っています。
そんな織物見学の最中、ラジオから宗廣先生の「織は人なり、人は心なり」という言葉が流れてきます。深く心にしみわたり、人生が変わるくらい感動し、郡上の宗廣先生の所へ行くことを決心します。「2年間待てるのなら内弟子入りを許可します」と了解をとり、早速アルバイトをしながら装道礼法きもの学院に通い、着物の着付けはもちろんのこと、着物の歴史や作法、そして和裁などを習いました。 「郡上に行って来る」という娘の言葉に、両親も親戚もびっくり。「23歳にもなって嫁にも行かずどうするんだ」「今から修行なんて何を考えているの」と多々反対もありましたが、それらはすべて母が一人で受けとめていました。
八重子さんの母は、やりたい事をいっさい諦めて家のために嫁いだ人でした。それ故、一人娘の八重子さんには「他人に迷惑をかけなければ好きなこと精一杯やりなさい」と応援してくれる人でした。
郡上での2年間は染め織りに没頭
郡上での2年の生活はかけがえのない日々となりました。 蛙が鳴き、蛍が飛び、鳥がさえずり、見上げれば、星が降るような空。自然の息遣いが聞こえます。「東京は文化が栄えた分、自然を壊した街だ」と思っていただけに、この自然の恵みにはものすごく感動していました。が、それもつかの間、夜になると深い闇に包まれた淋しい所になります。暫くすると東京のネオンが恋しくなっていた自分にびっくりしました。朝は6時起床、交替で朝食を作り、分担場所の掃除をします。午前8時~午後5時までが仕事です。特に当番に当っていなければ午後5時から夕食までが自由時間です。一人になる時間が欲しかった平山さんは、いくつかの秘密の場所を見つけ、そこへ出掛けては飽きるまで流れる雲や夕焼けで紫色に染まる空を眺めました。一番のお気にいりは「ねむの木の小径」と名づけたねむの木が茂る場所。自然の息吹を身体いっぱいに吸って、自然との触れ合いが、デザインの源になっていきました。
当時の日記には本当に様々な事が書いてあり、自分が色々な意味で成長した時期だったと平山さんは振りかえります。 2年後、宗廣先生の助手として、当時開校した静岡県の網代の研究所に1年手伝いに行きました。
3年後、自宅に戻ると母がとてもびっくりするのです。指摘されて写真を見ると自分の顔つきが「ぽおっ」とから「きりきりっ」とに変わっていました。その変わり様に自分が一番驚きました。
ひたすら織り、いつしかこれが生きがいに
共に:九寸名古屋帯「吉野織」
「100反は織りなさい。必ず何かがみえてくる」 この宗廣先生の言葉を胸に自宅で織を始めます。最初は親戚や知人から頼まれて織ることと、宗廣先生の口利きで出稽古に出ることで、糸代や生活費を稼ぎました。 その一方で日本伝統工芸展に出品する作品の制作にかかります。 1976年、第23回日本伝統工芸展に初めて「水紋」を出品し、見事入選を果たします。
その後、結婚と2児の子育てで公募展への出品回数は減りましたが、機からは一度も離れることはありませんでした。 旦那様は、結婚当時はサラリーマンでしたが、2人目の子供が生まれた後、陶芸家に転身し、時間が自由になったこともあり、家事、育児に積極的にかかわってくれました。お蔭で長男は小学生の時、父の日にメッセージカードを書きましょうという授業で「お父さんいつもおいしいご飯を作ってくれてありがとう」としっかり書き、担任の先生を驚かせたという笑い話もあります。 仕事が大変になり「私、やめようかなあ…」と何度か言葉に出していったことがありましたが、そのたびに旦那様は「今は続けることが大切な時期だよ」といって励まし続けてくれました。
笑って、泣いて、叱って、心配して、また笑って…。
家族の生活にはいつも機音があり、八重子さんは1日に数時間はそこに座り、糸を染め、物づくりを続けました。子育ても少しめどが付いた1988年「木立ち」で念願の日本工芸会正会員となりました。「家庭を持って本当に色々な発見がありました。子供を持ったことで教えられたことが沢山あります。今考えるとすべてが良い経験で、自分の制作に活きています。気づいたら糸を染め、機を織ることが身体の一部となり、生きがいになっていました。」
プラチナボーイと向き合って
2007年初めてプラチナボーイに挑戦していただきました。「光沢があり、強くてしなやかな糸ですね。美しい白さも魅力的。気に入りました。」との感想をいただき、以後、毎年プラチナボーイで着尺や帯を作っていただいています。5年間、プラチナボーイと向き合って、作り手にしかわからない違いが見えてきたそうです。「プラチナボーイも生きものですね。毎年すべてが同じということはありません。植物染料と一緒で新しい出会いがあります。」と楽しそうにお話しくださいました。
着尺と九寸名古屋帯(共にプラチナボーイ)
大切にしていること、そして目指すこと
1.織物にしか出せない世界を作り上げる
共に:九寸名古屋帯「吉野織」三色 色違い
織物は布の上に色をのせるのではなく、織りこんでいくためそれによって深みが作り出されます。平山さんは同系色でも微妙に違う色を何本も並べて、織っていくことで微妙なトーンを導き出します。これが見る角度によって様々な煌めきを生みだすことに繋がります。平山さんの感性で、お互いに響き合う糸を選び1本一1本丁寧に織り込んでいく。見る角度によって様々に変化する煌めきはこうやって生み出されます。