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福田喜重「時の衣」展~美の神髄を求めて~|和織物語

真正面から見つめる・六十五年の道のり

訪問着「光雪に本組紐」 訪問着「光雪に本組紐」
福田喜重氏は1997年に「刺繍」の分野で初めて人間国宝に認定されました。 京都の刺繍職人の家に生まれ、幼少の頃から京都随一の刺繍の名匠・福田喜三郎氏の仕事を見て育ちました。 「一針一針刺し込む刺繍は時間と根気を要する過酷な作業です。活溌溌地(かっぱつはっち)でしたから、そんな辛いばかりの仕事は耐えられないと背を向けていました。僕はエンジニアに憧れて、京都市内にある、工業中学の機械科に通っていました。」と語る喜重氏。
時代は1940年、奢侈(しゃし)禁止令により刺繍など贅沢作品を作るのはまかりならん、と多くの開業者が廃業を余儀なくさ れ、喜三郎氏も一時休業に追い込まれました。 戦後間もなく家業を再開しましたが生活は苦しい、長男である喜重氏は「何とかして親を助けなあかん」その一心で工業中学を中退して15歳で家業を継ぎました。 「修業時代、休みは月に二日だけ。食休みもなく一日15時間おにぎりをかじりながら、ただひたすらに刺し込みました。 唯一の息抜きは銭湯に行く時だけやった。それでも、僕は経済的にも何ぼ刺しても刺しても認められんし、写真屋さんに転職しようと思い、自宅に現像室を作り格安で写真を焼いたりしていました。」と喜重氏。 しかし、父であり師匠でもある喜三郎氏の「家業を守ることもできへん」その一言に、喜重氏は30歳を前に初めて家業を守るということを真正面から見つめ、己自身と相向き合うようになります。 それからの歳月は、布一枚隔てた己の指先から指先へと全神経を集中する日々となりました。迷いなき心に針は建ち、吸い込まれるように針は通り、一定のリズムを刻んでいく。 その決死の思いが、15歳からの一針一針が喜重氏を「思い定めた場所へ」到達させたのだと、後の数々の偉業にその姿が重なります。

姿情

自然の移りゆく森羅万象を一枚の布に宿すために一切の妥協を許さず、生地の選択から、意匠・染・縫・箔の全行程を一貫して手掛けます。文様の配置や構図は、着装した時に肩の線や立ち姿が綺麗に見えるように考慮され、生み出された空間に自然の風物を思わせる臨場感が漂います。 「日本は水蒸気文化の国」と、喜重氏はその生命感を香り立つような質感で表現したいと希求し、辿り着いたぼかし染めの技法は、昇天の如く、まるできものが呼吸しているかのように更なる温度感を重ねていきます。 そこへ喜重氏は命の儚さを永遠に封じ込めるかのように、2万色以上もある刺繍糸から、偶然を必然と成し得る糸と糸との出会いを導きます。 指の中に隠れてしまう程の日本刺繍針・5~10種を使い分けながら、奥義をきわめた一針一針で、全身全霊こめて一瞬一瞬の時を刺し込んでいくのです。 「着物は情緒・帯は理性」と語るその思い、纏う人によって豊かな曲線が生まれ、体温と重なり合い、きものに生命力が漲り、生み出されるその豊かな姿情は美への崇拝です。 喜重氏が奏でる日本の情緒、崇高の美意識をご紹介いたします。

伝統を生かす -銀座もとじオリジナルの制作

今回のために泉二が託したプラチナボーイの白生地は4反。手に取る眼差しは鋭く、その鋭敏な10本の指先で質感を確かめます。そして一言、「挑戦してみます」と。 「1500年という日本刺繍の連綿と繋がる歴史があり、今、私がいる時代があります。時代と対話すること、その中で常に受け継いだ伝統をいかに生かし、生かされていくか、自分自身との孤独な戦いには、覚悟と心の柔軟さが求められます。
福田喜重氏と店主・泉二 福田喜重氏と店主・泉二
着物はあくまでも用の美、女性が袖を通してこその美しさです。」と語る喜重氏。完璧な有終を遂げるために全ての工程があり、飽くなき探求によって積み上げられた至高の世界、予期せぬ出会いへの一言の重みはいくばかりか……。 原寸大の草稿から地染め・ぼかし染め・下絵・箔押し、全てがゼロからのスタートでした。 そして迎えた10月初旬、染め上げられた生地は喜重氏の美のフィルターを通り、たおやかな潤いを放っていました。試行錯誤の半年の歳月を経て制作された現代に映えるきものは、新たなる美の神髄を極めた渾身の作品となりました。

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