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小石丸からプラチナボーイまで。実は種類豊富な蚕の品種と日本の養蚕の歴史|知るを楽しむ

着物の代表的な素材としておなじみの絹。優美な光沢感となめらかな肌触りをもつ上質な織物として、古より多くの人々を魅了し続けています。そんな絹の元となる生糸を生み出しているのが蚕です。一口に蚕といっても、実は色々な種類があることをご存じでしょうか?今回は、蚕の種類とともに日本の養蚕史を振り返ります。

そもそも蚕とは?

絹を作り出す蚕は、カイコガと呼ばれる蛾の幼虫。クワコを祖先に持つとされ、古来人間が改良を重ねてきたことで野生種が存在しておらず、「もっとも古くから家畜化された昆虫」とも言われています。


古代~戦国時代:万葉集の歌にも残されている蚕

養蚕の歴史は古く、4000年前の中国まで遡るとされています。起源については諸説ありますが、よく知られているもののひとつが黄帝の妃・螺祖(らいそ)のエピソード。桑の木陰でお茶を飲んでいた時に、木から蚕の繭が落ちてきて熱いお茶の中に入ってしまった。取り出そうとしたところ、どんどんほどけて細い糸になっていくのを見て、織物の素材にすることを思いついたのだそうです。

日本にはすでに弥生時代には大陸経由で養蚕技術が伝わっていたと考えられています。646年の改新の詔にて設定された税制・祖調庸では、繊維製品を納める調の中に、生糸で織られる絹や絁(あしぎぬ)が含まれており、政府の財源になっていました。主に役人へ交付する官服や礼服、朝服や、季禄(給与)として使われていたようです。また、この政令より少し後の時代に成立した『万葉集』の中には、蚕にまつわる多くの歌が残されており、上流階級だけでなく、庶民にとっても蚕が身近なものであったことが窺えます。
当時どのような品種の蚕が使われていたかはわかりませんが、日本在来の品種、もしくは渡来人からもたらされた大陸由来の品種が使われていたのではないでしょうか。

平安時代になると、律令制の崩壊とともに養蚕業は一時衰退。ただし、生糸の需要に陰りが見えたわけではなく、舶来品がメインとなります。平安時代末期の日宋貿易以降、平清盛や足利義満、豊臣秀吉等時の権力者たちは、中国との交易によって財を成しており、その主な輸入品は生糸や絹織物でした。その輸入生糸を使用した織物は盛んに行われ続け、室町時代には西陣織が確立しています。

江戸時代:幕府の奨励により再興した養蚕業

養蚕が再び盛んになるのは、江戸時代の元禄期。当時江戸は高度経済成長期ということもあって生糸需要が非常に高まっていました。一方で、輸入超過による金銀の海外流出が著しくなったため、幕府は輸入量を制限し、養蚕を奨励。それを機に各藩も財政改革や下級武士の貧困救済の手段として養蚕業に乗り出します。米沢藩では破綻寸前だった藩財政を養蚕によって見事に立て直し、農村を復興させたそうです。さらに、18世紀初頭からは養蚕の指南書も多く出版されるようになり、中でも『養蚕秘録』はヨーロッパにも伝えられ、フランス語など数か国語に翻訳されました。

 

『養蚕秘録』 国立国会図書館

 

そんな江戸時代に誕生したといわれているのが、皇居内の御養蚕所の蚕としても知られている日本在来の品種・小石丸です。由来には諸説ありますが、上田藩領内で小田中源右衛門という人物によって作り出されたとする説が有力で、江戸後期~明治時代にかけて広く普及しました。近年では、より生産効率の高い品種に切り替わったため実用利用される機会は減少しましたが、古代の糸質に近いことから正倉院に保存されている織物の復元に使われるなど、唯一無二の存在感を誇っています。

明治~大正時代:経済発展を支えた近代養蚕業

明治時代は、フランスの近代的な技術を導入した官営の富岡製糸場が開設されるなど、養蚕が殖産興業政策の一環として注力されました。

『東京築地舶来ぜんまい大仕かけきぬ糸をとる図』メトロポリタン美術館

 

幕末~明治時代初期にかけては、青白(せいはく)と呼ばれる品種の蚕種(蚕の卵)が大ヒット。蚕の病気が蔓延し養蚕業が壊滅状態だったヨーロッパ向けの輸出品として普及し、黄色い蛍光ペンで着色したような鮮やかな繭色から、緑繭とも呼ばれていました。その後は蚕種ではなく生糸輸出へとシフトしていきます。品種も青白から繊度の太い白繭の赤熟(あかじゅく)や、より生産効率の良い又昔(またむかし)、青熟(あおじゅく)などに変化しました。

また、明治~大正時代にかけては海外品種の輸入も行われ、強健性を高めるために国産と外国産の交雑も盛んになりました。今でも国内の養蚕家で育てられている角又(かくまた)という品種が誕生したのもこの頃で、日本種と中国種を掛け合わせて生まれたものです。その他、赤熟と諸桂(しょけい)の交配種や、大草(おおくさ)、熊本系白竜(はくりゅう)など新種の蚕が登場しました。そして大正末期には人工孵化法が開発され、蚕の孵化の時期をコントロールすることが可能になり、計画的かつ安定的な養蚕を行えるようになります。

昭和~現代:養蚕業の隆盛と衰勢

昭和に入ると、さらなる改良により多糸量品種と呼ばれる蚕が登場。生産できる生糸が1割以上多くなったのだそう。中国由来の金黄、欧州由来の伊白などを掛け合わせた品種や、熊本県育成の分離白1号×支106号などが人気を博しました。

このような技術革新の結果、1909年に日本の生糸輸出量は世界一になり、1930年には国内の繭生産量最高となる約40万トンを達成。約220万戸あった全農家の約4割が養蚕をしていたそうです。

『六戸町の養蚕場』 昭和47年 / 青森県所蔵県史編さん資料

 

隆盛を極めた日本の養蚕業ですが、世界恐慌から戦時中にかけて縮小傾向に。戦後、和装ブームが起こり一時盛り返すも、洋装化や合成繊維の普及などによって養蚕農家が激減。現在は生糸の大半を中国からの輸入に頼っており、自給率は1%を切るほどになっています。

ワンチームで希望を繋ぐ夢の品種・プラチナボーイ

国内の生糸生産の規模は縮小しているものの、今でも長きにわたって培われてきた養蚕技術は健在。生産だけでなく、蚕の新品種の開発も行われています。その中でも特筆すべき品種がプラチナボーイです。

昔から蚕は雌よりも雄のほうが強健で飼育しやすく、糸質もよいことが知られていました。そのため、雄だけの糸を実用化することは養蚕業界にとって長年の夢でしたが、一方でそれは実現不可能といわれるほど困難を極めるものでした。しかし、2007年に蚕業技術研究所の大沼昭夫博士が37年もの年月を費やして、雄しか孵化しない卵の作出に成功。これが、純国産の極上の蚕品種プラチナボーイです。

プラチナボーイの吐く糸は細くて長いのが特長で、シワになりにくく、上品な光沢感と優雅なドレープ感のある生地を作ることが可能。着物として着れば、しなやかな落ち感と肌に吸いつくような上質な着心地を体感できます。

銀座もとじでは、このプラチナボーイで蚕からのものづくりをしており、養蚕から製糸・製織・染織、着物につくられるまでの「顔の見えるものづくり」を実践。日本全国の産地や染・織・繍の作家の方々と共にオリジナル商品を手がけています。2015年に「農林水産大臣賞」、さらに「日本農林漁業振興会会長賞」を受賞しました。また、同年より蚕から世界でひとつの着物を誂えていただく体験型プロジェクト「プラチナボーイ物語」を開催。養蚕農家・製糸・製織の各産地を巡る全3回のツアーを通して、自らが餌やりをした蚕の吐く糸が反物になるまでの過程を体験することができます。

プラチナボーイ物語の詳細はこちら

古くから私たちの生活に密接にかかわり、経済的・文化的発展に大きく寄与してきた蚕。小さくもたくましい彼らは、美しく繊細な糸から作られる織物を通して多くの人を繋ぎ、そして時代を紡ぎ、これからも私たちを新たな可能性へと導く存在であり続けることでしょう。

【参考資料】

『カイコの科学』日本蚕糸学会(朝倉書店)
『シルクはどのようにして世界に広まったのか』二神恭一・他(八千代出版)
信州昆虫情報館No.11
『農研機構遺伝資源センター北杜研究拠点におけるカイコ系統保存』小瀬川英一

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