モードの感性と、伝統の技。その先にある日本刺繍の新たな表現へ。
10月23日(金)から25日(日)まで、銀座もとじにて、日本刺繍作家・坂野慶子さんの初個展を開催いたします。
今回、坂野さんをご紹介することになったきっかけは、昨年12月、弊社店舗にご来店いただいたことでした。
それ以前から作品を拝見していましたが、実際にお話を伺い、ものづくりへの思いに触れるなかで、その独自の感性と、刺繍に向き合う真摯な姿勢に惹かれました。
そして今年4月、「プラチナボーイ20周年記念展」では、作品制作をお願いすることに。わずか4か月という制作期間のなかで、一つの作品と向き合う集中力に、強く心を動かされました。
何度かお話を重ねるうちに感じたのは、坂野さんの持つ透明感です。
ファッション、モード、そして伝統工芸と、さまざまな世界を歩んでこられた坂野さんですが、その言葉や作品への向き合い方には、とても素直で、まっすぐなものがあります。先入観にとらわれず、自分が心を動かされたものを素直に受け取り、深く掘り下げていく。 その姿勢こそが、モードの感性と伝統技法という一見異なるものを、自然に一つの作品へと結びつけているのではないかと思います。
坂野さんの原点は、伝統工芸ではなくファッションにあります。
若い頃から「ファッション通信」や、ベルギー・アントワープのデザイナーたちの創造性に魅了され、Dries Van Notenをはじめとするデザイナーの世界観に強く惹かれてきました。 パリでは「エコール ルサージュ」で刺繍を学び、国内では刺繍専門の企画会社にて、ビーズ刺繍や装飾刺繍のデザイン・制作に携わりました。デザインから製造、量産までを手がけ、大手アパレル企業へ納品する仕事を通して、コレクションや発表の場にも足を運んできました。
その後、加賀刺繍の工房に入り、8年間の修行を重ね、伝統技法を身につけます。
モードの感性と、伝統技術。その両方を自らの経験として深く体得した坂野さんだからこそ生まれる日本刺繍には、伝統を受け継ぎながら、現代の感覚で新たな表現を生み出していく可能性があります。
今回の初個展では、日本刺繍の美しさと奥深さとともに、伝統を受け継ぎ、新しい感性で未来へつないでいく作家の姿にも触れていただければと思います。
9月半ば、坂野さんの工房「蘂工房」を訪ね、お話を伺いました。
刺繍との出会いから、モードの世界で培った美意識、加賀刺繍での8年間の修行、そして一針に込める思い。
初個展を前に、坂野慶子さんの歩みと、ものづくりへの思いをお聞きしました。

刺繍糸
1.刺繍との出会い・原点
ー坂野さんが、そもそも「刺繍」に惹かれた原点は、どこにあったのでしょうか。
大学では染織科で「織」を専攻され、その後、ファッションの世界へ進まれています。そこから「刺繍」へと惹かれていった歩みについても、お聞かせください。
坂野慶子さん:大学時代に在籍した染織科の専攻が「織」だったのですが、糸でつくられたものを見ること、つくることに大変興味がありました。
刺繍は、現代アートやファッションで日常的に触れる機会があって、展覧会などの刺繍を扱った作品の前では、長時間立ちつくしていたのを覚えています。
大手アパレルのデザイナーとして働いていた時も、加工サンプルにお借りしたミシン刺繍のバリエーションの数々に強く惹かれていました。
また、アントワープではない人ですが、当時ニューヨークコレクションなどで発表していたスーザン・チャンチオロというデザイナーの、自身による手刺繍を入れた服づくりに深く心酔していました。
スーザンさんの繍いの線には精神的なものの影響が、波のように、いろんな表情で微細にあらわれ、そして常にアイデアや楽しさが溢れていて、そんな人柄もあって私もやってみたいと思いました。
これが「刺繍」に惹かれた原点だと思います。


2.モードとの出会い
ーアントワープのデザイナーやDries Van Noten、スーザン・チャンチオロなど、坂野さんが惹かれてきた「モードの美意識」とは、どのようなものだったのでしょうか。
坂野慶子さん:静かでストイックな知性、はかなく憂いをおびた、精神性を重んじる美意識だったように思います。
デザイナーの内面の情動を素材、加工などのディテールに抽出されたものに宿る圧倒感や強さにもとても惹かれてきました。
3.エコール ルサージュで得たもの
ーパリのエコール ルサージュでの研修では、どのようなことが印象に残っていますか。
そこで出会われた人や、アルチザンの姿から受けた刺激は、現在の制作にどのようにつながっているのでしょうか。
坂野慶子さん:研修で担当していただいた女性は、見た目の美しさとともに豊かな感受性を感じる美のオーラで満ち溢れた方だったことがとても印象に残っています。
アルチザンの目標となるお姿でした。
現在はビジューを用いた刺繍ではありませんが、ファッションとして美しいこと、人を美しく魅せることのイメージとして現在の制作にもつながっていると思います。
4.加賀刺繍への転身
ーファッションの世界から、加賀刺繍の工房で8年間修行する道を選ばれたのは、なぜだったのでしょうか。
坂野慶子さん:会社でアパレルの刺繍デザインをしていた頃、ビジュー以外の刺繍糸でのお仕事にもたずさわらせていただき、計画立てて図案をつくり、技法を練って一つの完成品をつくるといった工程と、長時間集中した後に出来上がるものには、はじめの予想を超える経験が多くありました。
この経験を生かして、絹の布に絹糸で刺す日本の刺繍技法を学べたなら、もっと究極的に美しい刺繍の世界に出会えるはずという探究心から、伝統工芸の刺繍をはじめる決心をしました。
5.8年間の修行で変わったこと
ー伝統技法を学ぶ中で、ファッション時代の刺繍に対する考え方や、ご自身の美意識に変化はありましたか。
坂野慶子さん:絹の生地に絹糸をのせ、良い配色を見つけるということは、それまで経験したことのない難しいものでした。
技法や撚り方次第で同じ色の絹糸でも濃さが変わるところにもなかなか困惑します。
もともと色は好きでしたが、より微妙な色彩の変化を見るようになりました。
また、きものの模様や色を学ぶと、日本の歴史、文化に辿り着き、昔々生きていた人の生活や考え方やものづくりに関心を持ったり、昔からのつながりをとても感じるようになりました。

一本の糸も大切に

6.「蘂(しべ)を入れる」ということ
ー「蘂工房」というお名前には、花の中心に「蘂(しべ)を入れる」一針に集中する心が込められていると伺いました。
坂野さんにとって、「蘂を入れる」とは、どのような意味を持つ言葉なのでしょうか。
一針一針に向き合うとき、どのような思いを大切にされていますか。
坂野慶子さん:「蘂工房」の由来は、花の中心の「蘂(しべ)を入れる」という行為の時にあらわれる一針に集中する心を常にもち制作したいというもので、自分自身でもいつもこのことを意識するようにと名付けました。
その時々に感じた微細な感覚を、「今ここ」に集中して一針に込めることが全体の美しさにつながるという思いがあります。
つい少し先のことを考えがちですが、全体は見つつも、本当に刺す時はただ「この一針」だけを考えて刺すことが良いという実感もあります。
7.モードと伝統、そのあいだで
ーモードの世界で培われた感性と、日本刺繍の伝統技法。
その二つが出会うことで、坂野さんならではの日本刺繍は、どのように生まれているのでしょうか。
制作の中で「最初に抱いたイメージ」と「技法や色彩を客観的に整えること」を行き来しながら作品をつくられているとのことですが、そのプロセスについてもお聞かせください。
坂野慶子さん:制作のはじめから終えるまで、頭の傍らで主題となるイメージを意識しつづけることは大切にしています。
制作の中で薄まることなく情熱をもってイメージを広げて完成させることで、モードが感じられる作品になると思っています。
最近では、伝統技法と一緒に作品のイメージをしたら、次に客観的に技法や色彩を整えることと、また再びはじめのイメージをくり返し行って、美しいものとなるよう工夫を重ねてつくっています。

七宝輪くぐり文 図案

七宝輪くぐり文 帯地
8.きものを「着る」ということ
ー坂野さんご自身も、きものをお召しになりますね。
つくり手であると同時に、きものを身に纏う一人の女性として、きものを着ることをどのように感じていらっしゃいますか。
また、ご自身が着るからこそ得られる気づきや、作品づくりに生かされていることはありますか。
坂野慶子さん:きものを「着る」ということは、自分が好きな色彩や素材を知っていく中で、日本に今日まで継がれてきた生地や技とも出会える豊かな経験ができること。
その経験から、その後の着こなしにも変化があらわれてくる。
そんな循環の中で、永遠に変容できる自分自身への楽しみだと思います。
また、私自身とともに、みなさんも「着る」ときに感じること、心のゆらぎ、時代や気分の変化に寄り添って、図案や色味の細かなところにも「こうだったら素敵だな」を制作の中で考えることも大切だと思っています。
9.「身に着けていただくもの」をつくる
ー帯やきものは、作品として見るだけでなく、誰かが身に纏うことで、その人とのあいだに新たな時間が生まれるものでもあると思います。
坂野さんにとって、「身に着けていただくもの」をつくることには、どのような思いがありますか。
坂野慶子さん:身に纏っていただいて、その方の心に作用し、良い変化をもたらす存在でありたいと思っています。
穏やかになったり、気分が上ったり、少し現実を忘れてふわっとしたり、夢の一部のようになることが目標です。
10.初個展に向けて
ー独立して初めての個展を迎える今、これまでの作品と今回の作品には、どのような変化や新しい挑戦がありますか。
今回の初個展に向けて、プラチナボーイの塩瀬の帯を2本、制作依頼いたしました。それぞれの作品に込められた思いや、新たな試みについてお聞かせください。
また、「プラチナボーイ20周年記念展」への出品が、弊社のお客様への初めてのお披露目の場となりましたね。4月12日の祝賀会にもご参加いただきましたが、どのようなことを感じられましたか。
坂野慶子さん:「ペルシャ華文」では、骨組みの強さもありながら複雑で繊細な図案のつくりや、糸の太さの変化をかなりつけることでレイヤーを増やし、全体の印象に奥深さが出るように工夫しました。
「江戸金襴文」では、私自身の趣味性が色濃く、歴史感とシルクロードの文化、模様のつながりを感じ取り、抽出、再構成した試みです。


プラチナボーイ帯地 江戸金襴文(上下とも)
繍い方でも、ただきれいに刺すというよりは、模様のおもしろさを引き立てるように、躍動感のある針はこびをするよう工夫しています。
祝賀会では、たくさんの作家の方とお客様がいらっしゃるなかで、お互いにとても楽しそうに語らわれている場面を垣間見ることができました。
つくり手とお客様が対面してお話しできることは、とても意味深いことなのだと、肌で感じました。
また、皆さまの美しいお着物姿を拝見できたことや、私自身もお客様と少しの間ですがお話しする機会をいただき、おかげさまで思い出に残る学びの時間となりました。 今回の個展でも、ご来場くださるお客様との新たな出会いを、今からとても楽しみにしております。

銀座の柳染め刺繍糸の数々
11.これからの日本刺繍
ーこれまでさまざまな経験を重ねてこられた坂野さんが、これからつくっていきたい日本刺繍とは、どのようなものでしょうか。
これからの作品で、どのような世界を見せてくださるのか、お聞かせください。
坂野慶子さん:これからは、より自然の造形へ視点をうつして、構図や手技において大胆であること、細やかであること、両方を意識して作品づくりをしていきたいと思います。
12.「工芸」とは
ー最後に、坂野さんにとって「工芸」とは、どのようなものなのでしょうか。
坂野慶子さん:私にとって「工芸」とは、 さまざまな思想、文化、歴史、デザインを知り、伝統技法を研き重ねること。 さまざまな経験から自分自身が感じる時代感や美への感覚に向き合うこと。 そのすべてが交錯し合って結実し、生みだすもの。
何か一度ばらばらになったものを一つに戻すために、直向きに探求しているようにも思います。
日本刺繍 坂野慶子 初個展|10月催事
会期中は坂野さんが全日在廊し、トーク会や作品解説も予定しております。 また、刺繍にまつわるものだけでなく、愛読書や日頃から大切にされているものも会場にお持ちいただく予定です。ぜひ坂野さんの言葉に耳を傾けながら、作品とともに、その美意識や人柄にも触れていただき、作品をご覧いただければと思います。
※作品はオンラインショップにも公開予定です。ぜひご期待ください。
会期:2026年10月23日(金)~25日(日)
場所:銀座もとじ 和染、オンラインショップ
〈お問い合わせ〉
銀座もとじ 和染(女性のきもの) 03-3538-7878
(電話受付時間 11:00~19:00)
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