※こちらは2011年に公開した記事です。
2011年6月23日(木)~26日(日)まで、銀座もとじにて『五代 田畑喜八 ~お召しになる人が「華主」さらに麗しく輝いて~』と題して、京友禅作家 五代 田畑喜八氏の作品展を開催いたしました。
6月25日(土)には、五代 田畑喜八氏を銀座もとじにお迎えして、ぎゃらりートークが開催されました。歴代から受け継いだ伝承を五代 田畑喜八として昇華し続けるものづくりに対しての心意をお話いただきました。
「着物の時代ではないのに、 何故今きものなのか? 」
江戸時代は、文化文政年間より200年ほど続く友禅染めの名門、田畑家を継ぐ五代 田畑喜八氏は、今から30年ほど前、田畑家を継ぐべきか辞めるべきか悩み、色々と考えを巡らせた、といいます。この仕事をつづけていくべきだ、という結論に至った、五代 田畑喜八氏。それからは、もう迷うことなく、魂のすべてを常に作品に傾けた真剣勝負の日々がはじまりました。「着物の基本は、あくまで着る人をより輝かせて美しくするものである」、と着物を通じて、着る人が表現しうるものの中に、
“きものの力”というものを信じ、“お召しになる人を美しく輝かせる”作品づくりに真剣に挑まれてきました。 そして、繊細で優美な、格調と気品あふれる作品の数々を世に送り出してきました。 「着る人が華主かしゅ」という家訓に基づき、着物は着る人の身に纏われて初めて華となる、その着姿をもって作品が活かされ、さらに着る人を内面からも美しく輝かせるような、本質的な美と現代性を追求した、素晴らしい作品を作り続けておられます。
「茶屋辻」とは
「田畑家のコレクションの中に、藍の濃淡を主体にした染め物の、『茶屋辻(ちゃやつじ)』があります。世間に知られておらず、あまり研究もされていないのですが、藍という庶民的な染料でありながら、その色合いには、穏やかな品の良さや高貴さがあり、日本人の肌に似合わない人はいないのではないでしょうか。その『茶屋辻』にすっかり惚れ込み、制作をするようになりました。」徳川時代に鎖国が始まり、贅沢を取り締まる、「奢侈禁止令」が発令されます。
素材や色や装飾など、武家から庶民にいたるまで、細部に渡る厳しい規制がされるようになりました。苛烈な規制下にあっても、人々は何とかしておしゃれを楽しみたいと工夫を凝らし、安土桃山時代の豪華絢爛なものとは全く異なった、独特の衣裳文化が生まれるようになりました。 奢侈禁止令を発令した徳川家にとっては、贅沢を禁じながらも、自らはその威厳を保つために、藍の濃淡のみで表現された端正で繊細な「茶屋辻」の、華美ではないが高貴な衣装が重宝されていました。 茶屋辻は、江戸時代の徳川将軍家と御三家のみに着用が許された奈良晒(ならざらし)という、「一本の茎から一本しか採れない」という希少な細い糸で織られた麻の生地に藍の染料の濃淡で染められた模様染めの技法で、江戸初期に徳川家出入りの呉服商であり、染屋であった茶屋四郎次郎が創案したと言われています。
左手前、田畑家に江戸時代から伝わる藍棒と刷毛。藍棒は藍を固めて作ってあり、
現在も茶屋辻染に使用しています。
「藍というのは、古代からある染料であり、庶民的な色です。日本人の肌の色には、大変良く似合うお色です。」と五代 田畑氏。しかし、その庶民的な色である藍を用いて、色の濃淡で緻密に柄を描き、繊細で優美な染めを行う田畑家の茶屋辻は、気品あふれる高貴な色が表現され、他に類を見ない素晴らしい作品世界を築き上げています。
「ものにはものの心がある。それを描くんや」
芝居が好きで役者を夢見ていた四代 喜八氏は、その御父上であり、人間国宝であられた三代 田畑喜八氏の染屋に生涯をかける姿を見て、決然と自身の役者への夢を捨て、家業を継ぐことを決意したそうです。貴重な田畑家コレクションを引き継いで、描く事、染める事に誠心誠意打込んだ四代 喜八氏は、息子である五代 喜八氏に「才能よりも努力だ!」と厳しく指導したそうです。 師匠である父の下で、ひたすら写生の実習を行えば、「描くのが遅すぎる!」と叱られ、
今度は早く描くよう試みれば、「描くのが早すぎる」、桜を描いてみれば、「お前の線は針金や」などと、と何度も差し戻しです。 「ものにはものの心がある。それを描くんや。」 そういい続けた四代 喜八氏とは、師弟関係であると分かっていても親子ですから喧嘩も絶えません。本当に厳しくて、父には褒められたこともなかった、と言います。 「けれど、いまでは厳しく育ててもらったことに感謝しています。」 “ものの心を描くとはどういうことか” 芸術的創造の神髄を、親子の葛藤の中から、身体にしみつくように獲得してきた五代 田畑喜八氏。江戸時代初期の寛文年間に考えだされた模様染めである茶屋辻が、現代においてこれほどにも優美に再現され、高名な方々の御衣料として制作を承られる機会も多く、そして多くの女性の憧れを集めてきたのは、田畑初代から脈々と受け継がれてきた、「お召しになる人が華主」として、着る人を最も引き立てる、妥協を許さない、魂を込めた作品づくりの昇華の形なのではないでしょうか。
気韻生動
「一番ものづくりで大事なのはその気持ちがそこに乗り移っていること。」 と五代 田畑喜八氏は、言います。 “気韻生動(きいんせいどう)” これは、五代 田畑氏が、今、一番大切にしている言葉だそうです。この言葉は、芸術作品に気高い風格や気品が生き生きと表現されていること、生き生きとした生命感や迫力があり、情趣にあふれていることを意味し、田畑氏の作品づくりにおいては、 「そのもののなかに作者のきもちが脈々と波打っていること」といいます。
「父親が、『お前の線ははりがねや!』といったことに通じていると思います。やはり桜を描くときはできるだけ桜の気持ちに立って、桜を表現する、そういうことが、具体的に気韻生動の意味を表していると思います。一番ものづくりで大事なのはその気持ちがそこに乗り移っていることであり、細い線を斜めにすると雨、真横にすると霞、それらは同じ線ながら、雨を描くときは雨を念じ、霞のときは霞を念じながら線を引きます。」
「四季草花図」「海浜風景文」「山水楼閣図」など、尾張・紀州・水戸三家に伝わる古典的な模様を研究し、それらを現代に息づくデザインとして再現する五代 田畑氏は、単に模様として再現するだけでなく、線の一本一本に心通わせ、全精力を傾けて作品作りに励まれます。その心意気と力強さは、気品や優美さに形を変え、生き生きとした美しい表情で、人々に感動を与えてくれます。
“気韻生動” そのもの
昭和10年11月12日、京都生まれの五代 田畑喜八氏。厳しい父親から、「健全な精神は健全な肉体に宿る!」と強制的にGHQの統制下にあった「平安道場」に放り込まれ、まだ身体も小さい子供ながら大人に交じって稽古に励んだそうです。
負けず嫌いな努力家であった五代 田畑喜八氏、様々な人生経験を積まれるなかでも、ごまかしが無く、誠実な姿で生きてこられたことを、お話を伺うなかで強く感じられます。人間的な強さと逞しさを備えながら、常に人へ優しくあたたかい眼差しをむけられている五代 田畑氏、人を引き付ける強い引力で、鋭くも優しい眼光に吸い寄せられるように、誰もが魅了されてしまうようなカリスマ性をお持ちです。 五代 田畑喜八氏ご自身も、生命感や迫力に満ち、気高さや気品があり、生き生きとした姿が美しく、“気韻生動”そのものといったお人柄です。素晴らしい作品の数々とともに、そこに脈々と波打つ心に直接触れられる機会を得られたこと、そういった機会にぎゃらりートークに多くの方にご参加いただけたことは、われわれにとっても大変嬉しいことで、五代 喜八氏の芸術の発露である今後の作品も楽しみにしてまいりたいです。