2011年11月10日(木)〜13日(日)まで、銀座もとじにて『平山八重子〜一瞬の煌めきを永遠に息づかせる〜』展を開催させていただきました。
今回5年ぶり、4回目のぎゃらりートークとなります。11月12日(土)には、平山八重子さんをお迎えして、ぎゃらりートークを開催させていただきました。
無心で何かをすることの貴重
平山八重子さんは、第56回日本伝統工芸展(2009年)で、紬織着物「空と風と」で日本工芸会奨励賞を第51回東日本伝統工芸展(2011年)では、紬織着物「かなたへ」で東京都知事賞を受賞されていらっしゃる実力のある作家さんでいらっしゃいます。
銀座もとじは、平山さんとの出会いから10年の歳月が経ちます。5年前から、プラチナボーイの生糸での制作もしていただいており、今回の個展に際しても、1年の歳月をかけ、プラチナボーイの生糸で帯、着尺、そして今回初めてとなる男ものの角帯を制作していただきました。
右上 平山八重子作 角帯(染色:矢車、阿仙)
染織の道40年、糸の可能性を最大限に生かして挑戦するものづくりの姿勢について、染織の道を歩まれることになったきっかけについて、そして制作への真意、心の姿をお聞きしました。
東京都杉並区生まれ、三人兄妹の中で育たれた先生は、レースの会社に就職されましたが、高校生の頃から「自分の何かをつかみたい!」という渇望のような強い思いを持ち続けながらも、それをなかなかつかめず手探りし続けていました。その「何か」を探し求める中で、会社の仕事を続けながら夜間でテキスタイルの学校に通い始めます。
「当時、日本は高度経済成長期であり、“消費”が先に立っている時代でしたが、わたしはそういうことには全く目が行かず、モノを“つくる”ほうに心が向いており、「布」というものや「織る」ということへと興味を惹かれていました。当時通っていた学校で、宮中の織物などを織っていらっしゃった染織工芸家の故高田義男先生に“郡上紬の端切れ”を見せていただき、その瞬間に泥臭さというのか不思議に自分の中に強く響いてくるものがありました。それを機に現地に足を運んで郡上紬の色々な作品を見たり、郡上の人々から話しを聞くなど、無心で何かをすることの貴重さや一心に何かに向かうことに感動したり魅かれたりして、自然とその世界に入って行きました。」
学校で学ぶところから、「職業」として染織の道に歩まれるきっかけとなった“郡上紬の端切れ”。そこから、平山さんは、「紬縞織・絣織」の人間国宝に認定された宗廣力三氏に弟子入りすることになります。宗廣力三氏は、岐阜県郡上郡生まれ、郷土産業としての郡上紬とその市場開拓に尽力された方です。
「宗廣先生のもとで修業を始める前に、2度ほど友人たちと先生の元をお伺いしていました。先生にお礼状をしたためると、長い巻紙でお返事を頂戴し、それが読めずに父や母に読んでもらったりしたこともありました。先生の偉大さに大きな敬意を持ってはいたものの、直接教えを請おうとははじめは考えてもいませんでした。」
あるとき、学校の仲間と糸を買いにでかけたお店の店内に流れるラジオから、ふと先生の声が聞こえてきたそうです。飛んで家に帰り、ラジオの続きを聴いていると、「織は人なり、人は心なり」と言われる先生の言葉が胸に響き、そのときなぜか「これだ!」と強い決意につながったそうです。そして、平山さんは、23歳のときに岐阜県郡上郡の宗廣先生の研究所に入られます。「その後、当番2人で、十数人分の食事をつくりました。
岐阜県郡上市 宗廣先生の元で
「朝6時におきて掃除をし、8時から12時まで機に座っていました。夢中でしたので、4時間機に向かっていても何も苦に思わず集中していました。お昼時間には、同室のルームメートのお姉さんが妹思いで、東京から色んなお菓子を送ってきてくれて一緒に美味しくいただいたりして、お菓子通になりました(笑)」と平山さんは、宗廣先生の元での修行時代の思い出を語って下さいました。
最初は、キャベツの千切りだけでも何時間もかけていましたが、そのうちきちんと料理も覚えるようになったりと、本当にいい経験をさせていただきました。仕事の合間にも時間があけば、自転車を借りて出掛けては、ピンクから紫になっていく美しい空を見ては感動したり、水の流れる川辺で飽かず空を眺めたり、日曜日には喫茶店にひとりで出掛けたりもしました。今思えば、自由さもあるありがたい時間でした。」
そんな中でも、夜絣をくくり、翌日の朝はそれを染めるということをほぼ徹夜での作業などもこなされていた平山さん、一週間ほど毎晩のように徹夜で染めていたこともあったそうです。
「若かったからか夢中でできていました。」
宗廣先生の元で、身体にしみつくようにそうした仕事を覚えられてきたこと、ひとつひとつ仕事をやり遂げていく気合のようなものも体得されていたことなどは、のちのち修行時代を終えてから今日にいたるまでの大きな糧となっていたことを、平山さんのご経験から知ることができます。
2年間郡上で修行されたあと、宗廣先生が静岡の網代の研究所に行かれた際に、助手として同行された平山さん、後輩の面倒を見ることもしながら、そこでの1年を終え、その後、ご自宅に工房を構えて、あらたなスタートを切ります。
平山さんは、そのとき宗廣先生から、
「まずは100反織りなさい、必ず何かが見えてくるから」
という貴重な言葉をいただいていたそうです。
独立してからは、宗廣先生に再度教えを請いに行くことはなかったときっぱりおっしゃった平山さん、宗廣先生の元にいらっしゃった3年間の修行時代がいかに真剣なものであったか、本当にしっかりと身体で覚え、身につけて来られたであろう、その3年の重みというものが、ひしと感じられます。一心に無心に修行をされてきたのだと思います。
平山八重子 ぎゃらりートーク
「修行を終えた後は、自分の中で反復し、その中から生まれてくるものでなければいけない、と考えていました。自分の中で模索し、努力していくことしかありませんでした。」
100反織って見えてきたもの
「わたしたちの仕事は、気持ちが手を通して作品になりますので、鏡のように表れてくると思うんですね。日常の中の毎日が、良いものをつくるための毎日でなければいけないし、平常心でいなければいけません。
厳しさもありますが、作品に通じていくことなので、そういった日常のレベルを保っていかなければいけません。」
平山さんが独立したころの時代には着物がよく売れていたそうです。3年の修行を終えて帰ってきたとき、友人のお母様などからどんどん依頼がきてありがたく、苦労はありながらも、恵まれていて幸せな時代だったそうです。
とにかく、まずは100反ということにこだわり、100反に達するまで、書き留めていました。100反を越えてからは数えるのを辞めましたが、その中で要するに身体が覚えるというか、ノートをみなくても身体で出来る仕事になる、それを身につけるには「経験」しかない、そういうことなのだと思います。それがかなって、そこからもう一歩上がっていけるのだと思います。
いつも笑顔でにこやかで、染織を心から楽しまれている平山八重子さん、自分を律し、思考錯誤とたゆまぬ努力を繰り返しながら、素晴らしい作品の数々をいつも届けてくださいます。これからも予想以上のはっとするような素晴らしい進化した作品に出会えることをまた楽しみに、さらなるご活躍を心より期待しております。