銀座もとじでは、2012年5月17日(木)〜20日(日)まで、戦後“芭蕉布”の復興に人生を賭して尽力された平良敏子さんの義娘で、その“芭蕉布”を現代の織物・衣装として広めるべく、
今なお力を尽くされていらっしゃる平良美恵子さんをお迎えし、歴史の時代背景とともに「喜如嘉の芭蕉布」の歩みと、芭蕉布にかける心の伝承をお話いただきました。
「喜如嘉(きじょか)の芭蕉布」とは
「『喜如嘉の芭蕉布』という言葉ができたのは、昭和49年。『芭蕉布』が国の重要無形文化財として認定を受けたときに、つくられた言葉です。」 と平良美恵子さん。 “喜如嘉(きじょか)”とは、沖縄本島の北部、東シナ海側に位置する大宜味(おおぎみ)村にある集落の名前です。戦前には、沖縄各地で織られていた芭蕉布も今では、喜如嘉が中心で、他の地では与論島などでわずかに織られているのみになりました。
「『喜如嘉の芭蕉布』と呼ばれるようになるまでは、地方によって違いましたが、「ばさあ」「ばしゃあ」などと呼ばれており、奄美大島、沖永良部島、与論島、喜界島から、さらに南方は与那国島まで、江戸時代、琉球文化圏といわれるあたりではすべて芭蕉布がつくられていました。 徳川家に献上していたのも芭蕉布、中国の清王朝に差し出したのも芭蕉布、何千反という芭蕉布が出回っていた中世のころ、農民の日常着になったのも芭蕉布でした。」
江戸時代、1712年頃に出版された「和漢三才図会」という有名な百科事典に、芭蕉布について、「琉球のものがよろしい」と書かれており、しかしながら惜しくも最後に、「残念ながら破れやすい」と書かれていました。
一斗六升のお米と交換したくらいに極上の芭蕉の繊維が取れたのは、奄美大島でした。奄美大島は、現在では大島紬が有名で、芭蕉布はほとんど織られていませんが、島を訪れれば、あちこちに芭蕉が群生しているのが見られます。幕末の薩摩藩士、名越(なごや)左源太によって奄美大島の島のくらしぶりが書かれた書物「南島雑話(なんとうざつわ)」にそのような記載がされています。 現代では、「芭蕉布」といえば、“喜如嘉(きじょか)”。 着物を愛する人々の憧れの夏の自然布です。自然の証明である生成りの贅沢さ、また芭蕉の糸を藍で染めた色の上質さなど、絹でも綿でも麻でもない、独特の風合いを持つ希少な芭蕉布を身に纏うことは、着物のおしゃれを楽しむ人々の憧れなのです。
「芭蕉布」を家内工業から産業へと
太平洋戦争で受けた打撃、そして戦後の生活様式の激変により、芭蕉布が織られなくなったことから、平良敏子さんの芭蕉布復興への奮闘がはじまることになりますが、もともと、平良敏子さんの祖父・平良真祥(しんしょう)さんが、芭蕉布という織物を復興しようと考えていらっしゃった方でした。 「平良家は、屋号“まじゃ(真謝)”と申します。 真謝家は、代々船主や地頭代や区長を輩出する家柄でした。曾御爺さんが、村の立て直しをしなければいけない、というときに、山ばかりで土地の少ないこの場所でどんな産業を行えばよいか、サトウキビを植えようか、
琉球藍を植えようか、などいろいろと考えたのですが、女性の副業として“芭蕉布”はどうかと思い至ったのです。自家用としてのみつくられていた芭蕉布を産業として発展させる道を考えはじめました。」 平良敏子さんの父、平良真次さんも、昭和初期に喜如嘉の区長を勤められ、「大宜味村芭蕉布織物組合」を結成し、その代表者となられます。工場を設立したり、さまざまな技術や品質向上に向けて尽力されたのです。 人材も、自立を考える女性に、「芭蕉布の3ヶ月講習があるけれど、習いに行ってみませんか?」とはたらきかけ、やる気や自立心がある人、技術を習得した後もずっと続けてくれそうな人々に声をかけ続けるなど、技術の存続と向上、そして後継者育成へも励み続けたのです。 曾祖父の代から、父の代を経て、敏子さんによって復興がかなえられた芭蕉布。そのバトンは、今、平良美恵子さんの手へと渡り、確かな技術とともに芭蕉布にかける心が伝承されているのです。
挺身隊として向かった岡山県倉敷市での運命の出会い
太平洋戦争中の終戦ももう間近だった昭和19年3月、第四次沖縄県勤労女子挺身隊として輸送船に乗りこみ、120名あまりの女性たちとともに岡山県倉敷市へ向かった平良敏子さん。 その輸送船は行く先も知れず、目的も分からない、当時ただ集められて、何隻もの船が旅立ったのです。生き残れるかどうか、ということがまずあったその環境の中、さあここです、と連れてこられた地で、倉敷紡績の大原総一郎さん(倉敷紡績社長大原孫三郎の長男)や外村吉之助さん(民芸運動家、染織家。倉敷民藝館の初代館長)らと出会ったことが、のちの敏子さんの人生に大きな影響を与えることとなります。
挺身隊として向かった先の倉敷紡績工場は、当時は国策に従い航空機を緊急増産する工場となり、軍機の翼部分の製造、組立てを行っていました。敏子さん達の合言葉は「仕事でも余暇でもなんでも一番を目指して頑張ろう」と言うものでした。 琉球文化に造詣の深かった倉敷紡績の大原総一郎社長が、人一倍頑張って働く平良敏子さんが隊長を勤めていた第四次挺身隊のメンバーを親身になって励まし支えてくれました。 日増しに戦争が激しくなっていく中、不安をかかえながらも必死で働きつづけた日々。 とうとう翌20年8月15日に終戦を迎えます。工場の作業は中止となり、身寄りのあるものはそこを頼り、行く当ての無い60名のメンバーはそのまま倉敷紡績工場に移ります。隊長だった敏子さんには東京に伯母がいましたが、「私は隊長だから皆を置いてはいけない」と60名と共に倉敷に残りました。1〜2カ月が経った頃、大原社長から呼び出しを受けます。柳宗悦氏の民藝運動に熱心に参加していた大原社長から「沖縄の文化を倉敷に残そう。織を勉強しないか?」と提案があり、会社の事業計画の中に「織物の勉強会」として組み込まれたのです。 そこに染織家の外村吉之介氏が招かれ、敏子さん達の織の指導に当たりました。 「会社の費用で織り方まで教えてくれる。なんてありがたいこと。」 と敏子さんは感謝をしつつ、必死で織を勉強しました。 昭和21年秋、異国となった故郷、沖縄への帰郷がやっと認められ2年半の倉敷生活に終わりを告げることになります。別れの日、大原社長と外村氏が揃って倉敷駅まで送ってくださり「沖縄へ帰ったら、沖縄の織物を守り育てて欲しい」と告げられます。このときの言葉は、敏子さんの心に深く残り、のちの大きな“決断”へとつながるのです。
戦後の沖縄
「戦後間もなくして、喜如嘉に帰ってきたときには、沖縄の芭蕉の畑は、マラリアや蚊が発生するから、という理由ですべて米軍の命令で伐採されていました。芭蕉畑はすっかり無くなっていたのです。」
芭蕉は育つまでに3年はかかるので、すぐには芭蕉に携わることはできませんでした。 喜如嘉に戻ってきたときには、占領下におかれ、その暮らしはまるで自由のないものでした。食料や物資は配給性でしたが、到底何もかもが事足りることのない状態でした。 配給のハンコがおされたメリケン袋(小麦粉がはいっていた袋)を利用して、下着を作ったり、米軍払い下げのウールの靴下や手袋をほどき、それを経糸・緯糸にして着物を織ったり、あるものを駆使しては必要なものをなんとか揃える日々でした。 また、倉敷紡績さんからいただいた、絹や綿を混ぜて様々な織物を作っては、食べるものと交換もしました。 「戦争で使われていたパラシュートは、ポリエステルやビニール製ではなくて、絹で出来ていたので、それをみんなでほどいて経糸、緯糸にして布に織り直したりしました。今度はそれらを染めるの染料がなかったため、インクのカーボン紙を水の中にいれて、染液を作って染めたりもしました。ないないづくしの中で、なんとか様々な工夫して生活していた時代でした。」
そのような生活だったためになかなか芭蕉布と向き合うことがすぐにはできなかった平良敏子さん、昭和26年頃になってやっと芭蕉布の織に向き合いはじめました。けれど当初は着尺を織るだけの良い糸を作ることができず、テーブルセンターやバッグ、ネクタイなど小物類の質の良いものを作っていました。
芭蕉を育て、手入れをし、切り倒す、すべての工程に人手が必要になる芭蕉布。材料集めから栽培、伐採、苧績み、染め、織りとどの工程をとっても短時間で習得できるものはなく、長年の経験と優れた技術が必要となります。敏子さんは、喜如嘉の女性の誰にでも「芭蕉布を織りなさいよ」とひたすら声を掛け、「苧績み」(手で糸を紡ぐ作業)をすれば笑顔ですべてを買い上げました。また、芭蕉布を織る人達にも他の仕事で得られる日当、あるいはそれ以上の賃金を払い続け、作る人を守り育てる努力を積み重ねました。 昭和47年に沖縄が日本に復帰します。そして喜如嘉の芭蕉布が49年(1974年)に国の重要無形文化財に指定されます。 指定を受ける団体としてこの時、「喜如嘉の芭蕉布保存会」が作られました。
芭蕉布の復興と存続に 「何か力になれるかもしれない」
現在、喜如嘉芭蕉布事業協同組合の理事長を務めていらっしゃる平良美恵子さんは、もともとは福井県のご出身。結婚を機に沖縄の喜如嘉へと移り住まれました。 「残念なことに、出身は、喜如嘉ではなく福井なんです。沖縄出身ではないことが、喜如嘉の芭蕉布にとって、マイナスかなと思わないでもないです(笑)」 美恵子さんがそうおっしゃられること自体で、どれほどに“喜如嘉の芭蕉布”にかける思いが、深いものであるかが伝わってきます。
遊びに訪れた沖縄で、芭蕉布の制作工程を見て、『これは地味!できない』と思われた、と意外な過去の思いをお話くださいました。 ただ、以前より民芸について少し勉強していたこともあり、そういった意味で沖縄には関心があったとおっしゃいます。学生のころにアメリカ人のパイロットの方の家で、ベビーシッターをしており、その方が民芸に造詣のある方で、その方に教えられて、焼き物で有名な益子を訪れたり、駒場の日本民芸館に足を運んだりしていたそうです。また、「芭蕉布物語」(柳宗悦著)も読み影響を受けていましたが「自分自身では芭蕉布を織れないまでも、何かサポートすることはできるのではないか」といった気持ちをお持ちだったそうです。
実際に織り始めてみると、御自身が芭蕉布作りに携わることで「素人でも作れる布であること」の証明になると考えた、とおっしゃいます。学生時代から染織を学んだり、長いこと極めてきたわけではなくても、いつからでもはじめられて、手に職を得て、自立できる道となる、ということを美恵子さんは、ご自身の経験から気付かれ、人に伝えてこられてきたのです。
芭蕉布 生き続ける布へ
「問題は、“生き続ける布でなければいけない”ということ。着ていただかないと、残りません。今更、裃(かみしも)を作ったり火事羽織を作ったりするわけにはいかないのです。」
平良美恵子さんは、現代の芭蕉布に反映できる最善のことを考えます。正しい技術をしっかりと伝承していくこと、そして、さらに島の伝統にしばられずに、着る人々のために、こうしたほうがいいのではというアイデアを持ちこむこと。 「たとえば、島によって異なりますが、濃紺に染めるとき(紺地:くんじ)は、おめでたいとき、黒ければ黒いほど良いとされているため、薄い色は不祝儀の柄とされているのです。そのため、薄い水色など(浅地:あさじ)は、不祝儀とされています。 そう言っていたら、『水色』などは永久に使えないのです。 『水色』は綺麗だし、沖縄の色なのだから使いましょうよ、と提案します。」 きちんと伝統文化も理解した上で、現代において芭蕉布を纏う人々のことを考えることから、いまの芭蕉布に反映できる最善のことがアイデアとして生まれます。そしてそれを実際に叶えて形にし、生きた布にしていくために平良美恵子さんは、力を尽くされていらっしゃいます。 「信念で育む喜如嘉の芭蕉布」平良敏子と芭蕉布織物工房展 ぎゃらりートーク
(左から)店主 泉二、芭蕉布織物工房 平良美恵子さん
芭蕉布の持つ限りない魅力は、こうした熱意ある人々の手によって今に受け継がれてきていることを、美恵子さんのお話を聞いてひしひしと感じます。 どれほどに後世に伝承すべき貴重な技術や文化も時代の流れの中では情熱や強い意志なくしては叶わないことがあります。
人の思いの深さや熱さが人を動かし時代を動かすこと、それは地道でひたすらな努力や根気さを伴わずには決して成しえないことです。 平良美恵子さんが、芭蕉の糸苧みについて、歴史について、平良敏子さんについて、芭蕉布工房について、後継者について語ってくださったさまざまなことは、美恵子さんの熱い思いを載せて、聴くものにまっすぐに伝わってくるのです。美恵子さんの芭蕉布への思いそのものが、“芭蕉布”という織り物の果てしない魅力の片鱗として届き、その魅力はどこまでも、未来へも広がっていくようでした。
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