2011年9月22日(木)〜25日(日)まで、銀座もとじにて『福永世紀子 〜一生に一度、真実の恋〜「土佐手縞」』展を開催させていただきました。
染織の道を歩まれて40年、福永世紀子さんの銀座もとじでの初個展となります。福永世紀子さんの作品との出会いは、昨年4月、“丹波布のようで丹波布ではない魅力”、この帯を染め織りしている人に直接会いたいと、代表の泉二が昨年の4月23日、高知空港から車で1時間半、四国のちょうど真ん中に位置する、土佐にある山奥の工房を訪ねさせていただきました。一歩外に出ると自然豊かな環境ですが、福永先生の工房内には、織りに向き合う以外のものは一切なく、そぎ落とされた物作りの現場でもありました。
染織を始められて40年の道、“土佐手縞”にたどりつくまでの経緯とものづくりへの思いをおたずねします。
木綿布から紡がれる糸のような、
きらきらした柔らかい笑顔で
「山の中でひっそりと仕事をしておりますので、人前でお話するのは苦手でございますが・・・」
そう切り出されながらお話をはじめられた福永さんの目の前には、なつかしいご友人がおふたり座られていました。その存在に気付くと、お互いにどこか昔の思い出の時の中に引き戻されたかのうようで、木漏れ日のようなあたたかい微笑みを交わし合い、会場もセピア色に映ったかのような瞬間でした。
会場を包んだそのあたたかさこそ、まるで福永世紀子さんの作品のよう。福永世紀子さんの“土佐手縞”と名付けられた木綿糸からできた作品は、その素材感といい、その色といい、
見ているだけでもほっこりした優しい気持ちになるのですが、実際にそのお人柄に触れてみると、それらの作品を生み出す福永さんご自身の、人としての魅力が隅々まで織り込まれていると感じられ、その作品たちからは、美しさやぬくもりや個性を見出します。
運命を変えた、“丹波布”との出会い
高知県土佐生まれの福永さんは、武蔵野美術短期大学工学デザイン科を卒業後、大手自動車メーカーのシートクロスのペーパーデザインを手がける下請会社に就職しますが、勤めて3年、デザインするだけでは物足りないと感じはじめると、あっさりと会社を退職します。
その後、織りの勉強をしたいと、綴織の人間国宝、細見華岳氏の元に弟子入りします。綴織の技が身についたころ、どうしても綴織の分業体制の中で自分の仕事をしていくことになじめず、また自分の未熟な技術で織によって図柄を表現しても、それは描かれた絵のほうがまだいいのではないか、などと自問自答しはじめます。
“あくまでも自分に正直でいたい”、と考える福永さん。
人は、大人になるにつれ、上手にものごとに折り合いをつけることを学び、さまざまな場面で小さな妥協を繰り返しながら、知らずのうちに少しずつ生きやすい道を選んでいるのかもしれません。
福永さんは、子どもの頃には誰もが持っていたはずの純粋な気持ちを失うことなく、自分に正直であろうとする気持ちを持ちつづけていました。けれど、本当に自分のやりたいことが何なのか、自分に正直でいられながら全身で打ちこめることを求めつつ、それをつかめずにいたのです。
そんな折り、友人の誘いで、兵庫県丹波の地を初めて訪れます。そこに、自分の運命を変える出来事が待っているとは、まるで想像もしていないことでした。訪れた先は、丹波布の本拠地、青垣町。
丹波布の復興に尽力していた足立康子さん宅を訪問し、反物と機を見せてもらった後、足立さんに案内され、木綿から糸を紡いでいる、おばあさんの家を訪ねたのです。
縁側で何気なく軽やかに糸車をまわすおばあさん。
木綿の糸が、おばあさんの手から紡がれている、というその光景は、福永さんにとって非常に衝撃的なものだったといいます。理屈では説明できない、まるで魔法を見ているかのような、おばあさんの手から引き出される木綿の糸のこの上ない美しさ、その光景を目にし、さまざまな感情が自分の内側にむかって押し寄せてくるのを感じ、うちふるえた、と言います。そのうちに迷いがなくなり、確信だけが残ったそうです。
33歳の初夏、それからの人生の歩む道が決まった瞬間です。
日本屈指の丹波布のコレクター
藤本均さんとの出会い
なんとその半年後には、自らもその木綿糸を紡ぎ、丹波布を織るために、兵庫県丹波市の青垣町に移り住んでいました。丹波布だけでは、食べていくことなど到底できない、
と周りからの強い反対にも気持ちが揺らぐことはなく、丹波の地へ向かった福永さんに、その後の作品づくりにとって重要な出会いが待っていました。
丹波布とは、1800年代初頭の文政年間に、青垣町のかつての村名である佐治村で「佐治木綿」として、京阪方面の販売用としての木綿布が織られはじめました。幕末から明治の初めには、盛んに織られておりましたが、大正時代に入って機械織りが盛んになると、佐治木綿は衰退し、忘れ去られてしまいます。
昭和初期、柳宗悦が京都の朝市で一片の縞木綿を手にしたことが、丹波布復元のきっかけとなりました。工芸研究家の上村六郎に産地の特定を依頼し、昭和6年(1931年)に、その縞木綿が佐治村で織られていた佐治木綿であったことが特定されました。
柳宗悦が『日本工芸』で、 “丹波布”という名前で紹介して以来、佐治木綿は、丹波布の名で知られるようになります。木綿の経糸と屑繭からとったつまみ糸を交差させることで生まれる独特の風合いが「丹波布」の特徴です。
福永さんは、日本屈指の丹波布のコレクターをされており、また丹波布を復元出来る人をさがしておられた、三彩工芸の藤本均さんとお会いする機会を得ます。
丹波布のスペシャリストである藤本均さんに、自分の手がけた作品を見てもらうために大阪の藤本さんの元まで会いに出向くのですが、それまで誰かに教わったわけでもなく、本物の丹波布をまともに見たことも無い自分の作品では、当然評価されるわけもありませんでした。
しかし、福永さんの作品を見た藤本さんから、「もし、あなたが本気でやる気があるながらば、お貸ししますよ」と、貴重な丹波布の一包を貸してくれたそうです。技術的にはまだ未熟だったかもしれない作品には、
何か人の心を動かすことのできる力がすでに潜んでいたに違いありません。
帰宅して、初めて本物の丹波布を見た福永さんは、自分が作った作品とのあまりの違いに愕然としつつも、その本物の丹波布のあまりの美しさ、素晴らしさにこの上なく感動します。すべて、一からやり直すくらいの気持ちで、エジプト綿、米綿、インド綿、メキシコ綿とあらゆるものを取り寄せて引き比べ、染色も自分で手掛け、2〜3反を織り上げると風呂敷に包み、汽車にのり、再び大阪の藤本氏のところへ通いました。
作品を持って行っても、「これじゃまだまだ全然だめだ!」という言葉とともに突き返されるばかりの日々でしたが、3年間ひたすら、織り上げてはもっていく、ということを繰り返し、丹波と大阪を往復し続けます。
「だめだといわれると、こちらもむきになってやるんですよね、一生懸命」、と福永さん。
さらに、訪れる度、国内外の織り布を沢山見せてもらい、触れさせてもらい、その経験によっても、よりよい作品作りへと昇華させていく月日でもありました。挑戦する価値のあるところに向かう、迷いの無い全力の日々でした。
日本人が残した貴重な文化遺産でもある木綿布の魅力や芸術的価値を見出す感性、そして、さまざまな技術に挑戦し、磨き高め、熟練を積んでいく情熱や能力、複雑な織りの作品を仕上げていく並はずれた集中力、あどけない少女のような小柄でにこやかな女性である福永さんの、一体どこに人並み外れたパワーが潜んでいるのか、とても不思議に思えますが、その作品を見れば、福永さんの歩んできた道が、大きな魅力となってしっかりと織り込まれていることは一目瞭然です。
福永世紀子さんの“土佐手縞”が生まれるまで
1999年の年末、母のいる土佐に足を運ぶ機会が増えるうち、自分の故郷が、こんなにも空が青く、空気が澄み渡り、緑が沢山あって安らげる場所だったのか、と気づきます。
そうだ、故郷へ帰ろう! と決意し、あらたに作品づくりの場所として、21世紀のはじまりを土佐で迎えます。
「高知県というところは、日本で日照時間が一番長いんです。」
そのために、乾き方に変化が出て、染色後の糸の染まり具合が変わってくるそうです。そのような地域性から、土佐ならではの空気や気温の中から生まれる木綿の布は、さらに柔らかさがあり、染める糸はこれまで以上に透明度が高く、綺麗な色がでるようになりました。
こうして、これまで丹波にて技術をたかめ、素晴らしい作品を生み出してきた福永さんが故郷に戻り、それまで積み重ねられた経験の上に、土佐という地域性ならではの良さをすべて詰め込んだ、“土佐手縞”を誕生させます。
先生の作品の証紙には、“土佐手縞”と書かれています。
“丹波布のようで丹波布では無い魅力”を持つ、独自の木綿布の織りへと辿りついた福永世紀子さん、33歳の初夏に縁側で見た同じ光景を、今、福永さんご自身の姿で再現されています。
そして、きらきらと美しい木綿の糸を魔法のようにその手から紡ぎ出し、土佐手縞として生み出し続ける福永世紀子さんの作品は、いつまでも多くの人を魅了してやみません。