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“献上品”から“市場で取引される「大島紬」”へ

~明治時代を迎えて<飛躍の時代>~ “献上品”から“市場で取引される「大島紬」”へ 明治時代を迎え、1870年代には「大島紬」はそれまでの"献上品"としてではなく、"商品"として大阪市場での取引が開始されて、大きな人気を得るようになります。
献上品として納める義務が課せられてきた長い歴史の中で、緻密で丁寧な質の高い作業が要求され続けてきたことも、大島紬の染織の技術をその高みへと導いてきたひとつの理由となっています。現在の大島紬が世界一細かい絣を生み出せるほど、絣の技術が極められてきたことは、島の人々の辿ってきた歴史背景と、根気強さや探究心を備えた島民の性格によるものでしょうか。
奄美大島の風景
長い間、献上品であった「大島紬」が、商品として人々にその魅力を広く伝える場を得られたことは、義務を果たすべき一島民としての立場から、主体的な作り手へと変化したこと、そして人々の新たな意識と意志の芽生えを意味しました。そのことは、大島紬を飛躍させる大きな力を生み出していきます。 大島紬の需要は、次第に拡大していき、生産も軌道にのり、家内工業から工場生産へと変化を遂げて行きます。工業生産へと変化する中で、生産工程が細かく分業化されるなど、生産技術の変革期が訪れます。
テーチ木(車輪梅)の幹 テーチ木(車輪梅)の幹。この後、小さくチップ状に砕き、大きな釜で半日ほど煮煎じて、染液を作ります。
自然の泥田 テーチ木の液汁で20回染めた糸を自然の泥田で複数回、それを何度も繰り返し行っていきます。
テーチ木(車輪梅)で染めた糸(赤褐色) 上がテーチ木(車輪梅)で染めた糸(赤褐色)、下がその後泥染とテーチ木染めを繰り返した糸(黒)。
明治初期、絣は芭蕉糸で手括りされており、緯絣のみならず経緯絣も織られるようになりました。また、多様な草木染めの中から「テーチ木(車輪梅)と泥土による泥染め」が最善のものとして統一され、「泥染め法」が定着します。 「大島紬」が一世を風靡していく時代の幕開けです。

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