百貨店のロゴや歌舞伎役者の紋も家紋の一種!?
家紋の歴史や意味を詳しく解説
留袖や訪問着など、礼装・準礼装にあしらわれているものとしてもおなじみの家紋。古くから各家庭に伝わっているもので、苗字とともに家系や家柄などの自身のルーツを示す一つの目印となっています。
そんな家紋には、自然現象や草花、身の回りの道具、武具などをモチーフとした多種多様なデザインがあり、その数はなんと2万種類以上。海外にも紋章(エンブレム)など家紋のようなものは存在していますが、多くは一部の貴族のみが所有しているものであり、デザインの数も日本ほど多くはありません。そのため、身分問わず各家庭に存在している家紋は、まさに他に類を見ない日本独自の文化のひとつといえるでしょう。
今回は、そんな日本の家紋文化の歴史についてご紹介します。
家紋の起源は公家の「車紋」?
家紋は文様から転化したものとされており、その源流は縄文土器の縄目模様や埴輪の三角紋などまで遡ることができます。
これらの文様が“家紋”として表現されるようになった起源には諸説ありますが、中でも有力な説のひとつが平安時代の「車紋」です。当時、公家が内裏に参内する際、自分が乗ってきた牛車と他家の牛車を間違わないようにするための目印として紋を入れ始めたことが、家紋の始まりと言われています。
公家が使用していた牛車(『平治物語絵巻 六波羅行幸巻』出典:ColBase(https://colbase.nich.go.jp/))
その後、牛車だけでなく調度品など身の回りの道具類や衣服にも取り入れるようになり、次第に自家と他家を識別するものから各家を象徴する紋、いわゆる家紋になっていったと考えられています。
敵味方の識別し、一族の結束を高めた武士の家紋
『源平合戦』歌川国芳 / 東京都立図書館
武士の家紋は公家のものとは発祥が異なっており、源平の合戦時に掲げていた旗印が有力な起源の一つとして挙げられています。
源平の合戦では、源氏は白旗、平氏は赤旗を掲げて敵味方を見分けていましたが、次第に源氏が優勢になると白旗を掲げる武士が増え、個の識別が困難になっていきました。そのため、武士たちは自身の功名を正確にアピールし、正当な恩賞の授受が行われるよう、個人を識別する目印として紋を使い始めたとされており、陣幕や旗、甲冑、刀、槍、馬具などにつけられました。
その後、鎌倉時代頃には苗字も代々受け継がれるようになったことと相まって家紋も固定的になり、家紋は同属の連帯感や先祖の得た名誉を象徴するものとしての意味合いも持ち始めます。そして、基本的に長男が家督を相続し、同時に家紋も受け継ぎますが、それ以外の兄弟は分家に分かれ、それぞれ本家の定紋をアレンジした新たな紋を作ったことから、家紋の数が一気に増えていきました。
戦国時代に入って争いが激化すると、戦力確保のため農民が武士に取り立てられることもあり、武士の数が増加。繰り返される戦で敵味方が再び見分けにくくなり、さらに家紋の種類は増えていきました。
毛利家の長門三つ星の家紋をあしらった大紋を着る毛利元就。(『毛利元就像』 / 毛利博物館蔵)
また、家紋には定紋(じょうもん)と、勲功や婚姻などで得た替紋(かえもん)があり、戦国時代の武将などは2種類以上の家紋を使い分けることもありました。例えば織田信長が持っていた家紋には、もっとも有名な「織田木瓜(おだもっこう)」のほか、平氏の代表紋とされている揚羽蝶や、足利義昭から授かった「五三桐」と「丸の内に二つ引き」、天皇家から与えられた「十六菊」などがあり、各武将のルーツや功績を示す重要な証となっていました。
五三桐があしらわれた肩衣を着る織田信長『織田信長像(模本) / ColBase(https://colbase.nich.go.jp/)』
このように、公家と武家の家紋は、他家と区別するものという意味では同じ役割を持っていますが、公家紋は趣味的思考が強く、貴族間での権威性を示すだけのものだったのに対し、武家紋は戦で勝利し、地位を得るための合理的手段のひとつであり、より重要度の高いものだったといえるでしょう。
洒落っ気を効かせた江戸っ子たちの家紋
参勤交代の光景(『「温故東の花」「第六篇」「旧諸侯上野初御仏参之図」楊洲周延 / 東京都立図書館』)
江戸時代に入ると、戦がなくなったことで武士の家紋の使用用途は、儀礼的なものへと変化していきます。参勤交代が制度化されて以降は、諸大名が江戸への往来・登城する際は必ず家紋の入った服を着用することが決められており、相手の家格を把握するための目印にもなりました。また、大手門に配されている下座見役が、諸大名が登城する際、各大名が掲げる家紋を見て、その大名の到着を知らせていたようです。
一方で、家紋は庶民間において新たな発展を見せ始めます。庶民の間で家紋が広まり始めたのは元禄期の頃。家紋のデザインは、天皇家の菊紋や幕府の葵紋などを除いては特に制限がなかったことから、多彩なバリエーションが誕生。当初は、家紋というよりは装飾目的が強く、通常の家紋をアレンジして楽しむ洒落紋が流行し、古歌や名所にちなんで文字や絵を図案化した伊達紋や、家紋の周りに植物模様の装飾を加えた加賀紋など、華やかな紋が生まれました。
苗字代わりに使用した庶民の家紋
一般庶民に家紋が普及したのは、墓所が継承されるようになってからといわれています。
庄屋や名主など一部を除き、多くの庶民は明治時代に入って義務化されるまで、苗字を名乗ることができませんでした。しかし、寛文4(1664)年に寺請制度が制定されて以降、墓所が固定されたことにより、庶民の間でも家や一族の認識が強まります。当時苗字もなく、文字も読めない人が多かったことから、家紋が家の印として墓に刻まれ、墓参のときの目印になったようです。
商家・歌舞伎・遊女の家紋
家紋は、家や一族を象徴する以外に、商家や役者のブランディングにも大いに役立ちました。
商家の紋は、屋号や店名を図案化した紋をのれんや手ぬぐいにあしらったのがはじまりと言われています。江戸時代から呉服屋を営んでいた三越も、当時は以下のような紋を用いており、明治5(1872)年から現在の「丸に越」の紋に変わっています。
暖簾に染められた三越の紋。(『東都名所 駿河町之図』歌川広重 / 国立国会図書館デジタルコレクション)
暖簾に染められた松坂屋の紋。(『名所江戸百景 下谷広小路 (名所江戸百景)』歌川広重 / 国立国会図書館デジタルコレクション)
ちなみに、みかん商売で一財を為した豪商・紀伊国屋文左衛門は、羽織に店の紋を定紋としており、これが庶民の家紋のはじまりと言われています。
歌舞伎役者の紋は「歌舞伎紋」と呼ばれ、自身の名刺代わりとして、自分の紋を手ぬぐいに染めてファンに配っていました。この風習は歌舞伎界や落語界に今なお残っています。そして、ファンは贔屓の役者の手ぬぐい、今風に言い換えると“推しのグッズ”を求めるのはもちろん、“推し”の柄を着物や身の回りの品物に取り入れて“推し活”を楽しんでいたようです。
市川團十郎の三升紋(『五代市川團十郎 暫』勝川春好 / メトロポリタン美術館)
家紋・花菱紋があしらわれた浴衣でくつろぐ松本幸四郎(『4代目松本幸四郎』鳥居清長 / メトロポリタン美術館)
さらに、遊女たちも歌舞伎役者と同様、自分の紋を定めて着物を飾ったり、簪に刻んだりしていました。特に蔦紋や桔梗紋などの、女性らしいたおやかな紋が好まれたようです。
そして、自分の紋となじみ客の紋をあわせて「比翼紋(ひよくもん)」を作り、客を喜ばせていたのだそう。現在でも、遊女との恋愛を描いた歌舞伎演目の着物の柄などに比翼紋が使われることがあります。
長きにわたって苗字とともに受け継がれてきた家紋。公家たちの間では、他家と区別するとともに権威を示す優美な装飾紋として使われましたが、武士の間では敵味方を判別するものとして生まれ、自身の武功をアピールしたり、一族の結束を強めたりするシンボルマークとして発展しました。
そして、江戸時代の庶民の間では苗字の代わりに普及するとともに、商家のロゴマークになったり、人気歌舞伎役者や落語家の名刺代わりになったり、遊女から客への愛情表現の一つになったりと、時代によってさまざまな意味合いで使われてきました。
このように歴史をたどっていくと、家紋は自分のルーツを示すものであると同時に、自分らしさを表現する一つの手段ともいえます。
家紋文化が疎遠になっている昨今。戦の世が終わり、活躍の場が狭まった家紋に新たな用途を見出し、公家とも武家とも違う伝統を生み出した江戸の人々のように、冠婚葬祭だけでなく、自分を表現するものとして、積極的に楽しんでみてるのも面白いかもしれません。
【参考資料】
・『家紋の事典』千鹿野茂 監修・高澤等 著(東京堂出版)
・『徳川家の家紋はなぜ三つ葉葵なのか』稲垣栄洋(東洋経済新報社)
・『家紋がよくわかる』安達史一(図解 日文新書)
・『家紋 家紋を知れば、氏族のルーツが見えてくる』高澤等(日東書院)
・『家紋と名字』網本光悦(西東社)
〈お問い合わせ〉
銀座もとじ和織・和染(女性のきもの)03-3538-7878
銀座もとじ男のきもの 03-5524-7472