江戸時代~昭和初期の長襦袢に
白が少ないワケとは?
<着物の下着・襦袢の歴史>
髪の形とうしろ姿がいいので評判の人がいましたが、(中略)
工夫のしどころは帯ではない、
袖の振り八つしかない、と言っていました・・・
幸田文の『きもの帖』の一節です。
振り八つとは、着物の袖と長襦袢の袖の重なりのことです。また、婦人雑誌『婦女界』の1925(大正14)年6月号の広告ページには、「緋の友禅の長襦袢に、柔らかい撫肩から裾にかけて流れる錦紗縮緬の褄模様、袂を漏れる紋羽二重の襦袢のなまめかしさ。それは到底西洋婦人には求められない美しさです」と評しています。
現在は白系やすっきりとした色柄の需要が多い長襦袢ですが、戦前までは多彩な色柄のものが好まれ、重要なコーディネートのポイントだと考えられていました。確かに浮世絵や古い写真を見ると、女性が身につけている長襦袢の多くは色柄モノです。しかし、なぜ下着であるにもかかわらず、コーディネートの一部になり得たのでしょうか。そして、なぜ今は白系が主流(特に柔らかものに合わせる襦袢)になったのでしょうか。
長襦袢の歴史
江戸名所百人美女 「八町堀」(国立国会図書館)
長襦袢とは着物の下に着る下着の一種で、語源はポルトガル語の「JIBAO」「GIBAO」が転訛したものと言われています。元来は丈の短い半襦袢が主流で、下半身に男性はふんどし、女性は湯文字(ゆもじ)や二布(ふたの)と呼ばれる木綿製の腰巻を組み合わせていました。長襦袢が登場したのは江戸時代中期頃。遊女たちが身につけていたものが次第に市井に広まったといわれ、小紋や中形、絞りなどの装飾を施したものが誕生。生地は縮緬が用いられることが多かったそうです。
江戸時代に始まり
大正時代に最盛期を迎えた
色柄長襦袢
「楊枝屋お藤」(シカゴ美術館)
長襦袢のオシャレに拍車をかけたのは、江戸時代に幾度となく発令された奢侈禁止令でした。この令によって男女とも地味な着物しか着られなくなりましたが、江戸っ子の反骨精神から、長襦袢など見えない部分で装飾性を競うようになり、粋の文化を象徴する装いの一つとなったのです。
この長襦袢のオシャレは明治時代以降も受け継がれていきます。特にその華やかさに盛り上がりを見せたのが、日露戦争から第一次世界大戦の時期にかけて起こった大戦景気、いわゆる大正バブルの頃でしょう。軍需景気に沸いた世相を反映するように、当時ファッションも非常に華やかなものが好まれました。この頃はまだ女性の普段着は着物が主流だったため、長襦袢も鮮やかで大胆な色柄のものが多く作られたのです。
なぜ下着である襦袢が
オシャレアイテムになったのか
「今様美人」(国立国会図書館)
チラッと覗くだけの長襦袢に美しさを見出してきた日本人。しかも、本来隠すはずの下着を上着との調和を考えてコーディネートするという文化は、諸外国を見渡してみても珍しいのではないでしょうか?なぜ日本ではこのような着こなしが生まれたのでしょうか?
考えられる理由の一つに、当時の人々は長襦袢を"現代の下着"の感覚で捉えていなかったことが考えられます。もともと着物は高温多湿な日本の気候にあわせて発達した開放的、かつ防暑的な衣服。戦前の人々は今とは違ってもっとゆったり着付けていたので、ある程度はだけるのは当たり前。そのため、長襦袢は今でいう見えてもいいインナーのような感覚であり、下着というより衣服の一部として捉えていたのではないでしょうか。そこに古来受け継がれてきた「襲の色目」に始まる繊細な感性が加わり、美しい色柄の調和を考えてコーディネートする文化が生まれたのかもしれません。
現代では、普段着として着る機会が減ったことで着物自体の格が上昇。礼装で用いられる白の襦袢が定番化したのもこのためと考えられます。これにより、長襦袢を見せる前提のゆるりとした着こなしはほとんど見られなくなりました。しかし、長襦袢は庶民の服飾文化が大いに発展した江戸時代~昭和初期のセンスを象徴するファッションアイテム。私たちが普段着としての着物をより楽しむなら、長襦袢の色柄にこだわることこそスタンダードであり、もっとも日本人らしいオシャレの嗜み方なのかもしれません。
【参考資料】
・『日本の風土と衣料の変遷』小川安朗
・『下着の文化史』青木英夫(雄山閣出版)
・『長襦袢の魅力』岩田ちえ子・他(河出書房新社)
・『江戸のきものと衣生活』丸山伸彦(小学館)
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