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「古き」をまもり「新しき」を描きだす―松原伸生の長板中形|和織物語

松原伸生 作 長板中形 重要無形文化財 越後上布着尺「梅花松葉文」

著者:工芸ライター 田中敦子

 土間の板場で、長板中形の型付け作業が始まる。食卓ほどの高さに置かれた長い長い板。その上には白生地がピシッと筋目を通して貼られている。松原伸生さんは、この上に型紙を置き、ヘラを片手に防染糊を置いていく。後退りしながら型紙を送り、同じ作業を黙々と続ける。白生地に赤い文様が流れていく。同じ模様の繰り返しなのに、繋がり広がっていく、そのデザインの不思議。
 型付けが終わると、松原さんは重量のある板をえいっと担いで、広々とした外の干し場に運び出す。
 青い空が広がる。心地いい風が渡る。近くに流れる川から水音が聞こえてくる。「晴天でないとできない作業なんです。長板中形は、太陽の光に当てての作業が必ずついてきます。だから、仕事をやらせてもらっているという感覚が常にありますね。傲慢になりなさんなよ、って忠告を受けているような」。満開のコブシの花が春の訪れを告げる。ここ、千葉県君津市の山間に家族で移住した際、父・松原利男氏とともに植えた木だ。あれから四十年。日当たりがよく、広い土地ときれいな水があること、その三つを条件に利男氏が探しに探して、巡り合った理想郷。ここから、人間国宝・松原伸生が誕生することになる。
 祖父・松原定吉氏の認定から六十八年の歳月を経ての栄誉だ。しかも、五十八歳という年齢は、人間国宝の最若手で、期待も大きい。松原さんは喜び以上に、プレッシャーを感じているという。「これは賞ではない、認定なんです。技術的な面だけでなく、助言したり、育成したり、応援したり、と新しい役割を担うことになる。責任の重大さを、ひしひしと感じています」。
 人間国宝とはかなりのパワーワードだが、これは通称で、正確には「重要無形文化財各個認定保持者」と少々長い。この認定制度の歴史は、第二次世界大戦の終戦間もない時代へと遡る。戦禍により、伝統工芸を含む日本の伝統文化は存亡の危機にあった。そこで、受け継がれてきた貴重な「わざ」を守るべく文化財保護法が制定される。そして一九五五年、「長板中形」は重要無形文化財のひとつに指定され、その技術保持者として清水幸太郎氏と松原さんの祖父である松原定吉氏が認定を受けたのだった。これは国が指定した重要無形文化財の「わざ」を最高度に体得した人、と認められたことを意味する。

江戸時代より変わらぬ現存最古の型染め

 ではなぜ、「長板中形」が戦後すぐに重要無形文化財として指定されたのだろう。しかもなぜ、浴衣であることを想像させない四字熟語なのだろう。
 「長板中形」は、江戸時代に広まった本藍染めの型染め浴衣地、またはその技法を指す。「長板」とは、生地を貼って型付けに使う樅の木の三間半(約六・五メートル)に及ぶ一枚板の呼び名だ。型付けには、渋紙に文様を彫る伊勢型紙(これも無形文化財)を使い、米糠、石灰、うるち米でつくる生糊を出刃べらで型紙の上に置く。この作業をリピートしながら文様を生地一反に施し、裏にも同じ柄を鏡写しに置いていく(先ほど記した赤い文様とは表面に使う糊の色。裏面に型付けする際、裏に透けて見える赤い文様がガイドとなる)。そして、発酵建てした阿波天然藍に浸け染めするのだ。生地を挟むように両面に置かれた糊ゆえに、完成した反物は、藍の色を引き立てる濁りない白が染め抜かれる。「こうした江戸からの技法を今も変わらず受け継いでいます。使う素材や道具も昔ながら。つまり、現存最古の型染めで、そこに長板中形の誇りがあるんです」と松原さんは説明する。
 そして「中形」。これは、遠目に無地の小紋と、武士の礼服である大紋(大きな家紋を配したもの)の、その中間サイズを言い、江戸時代には「中形」といえば型染め浴衣の代名詞だった。きっぱりとした縞や格子、抽象デザイン、繊細に図案化された花鳥風月や吉祥文様など、そのバリエーションは驚くほど豊富で、夏のくつろぎ着や祭り浴衣として、江戸っ子に愛された。浴衣を着た役者や美人の浮世絵が人気を博し、また、歌川広重の『江戸名所百景』には、長板中形の工房が多く集まる「神田紺屋町」があり、街場の染めであったことが伺える。
 ただ、その技術は手間暇かかる上に高度だったため、明治時代になると、新しい「中形」染めが登場する。手ぬぐい染めから発展した「注染」や、文様を彫った円筒に挟んで両面糊付けできる「籠付け」。これら新技術が「中形」の主流となっていく。また、戦時中の物価統制以来、伝統的な手法として区別する意味も含め、「長板中形」と呼ばれるようになる。つまり、「長板中形」は近代化の波に呑みこまれつつあったのだ。
「瀕死の状態だったと思います。かつて長板中形は、関東エリアで発達していましたが、衰退の原因は技術的な面と、もうひとつは分業で行われていたこと。型付けと染めの工程は別でした。祖父の定吉は、それを一貫制作に切り替えたんです」。

 型付け師だった定吉氏は、染めの不出来に不満があった。成功しても失敗しても、最後まで責任をもって仕上げたいという切実な思いが一貫制作を決断させたという。分業が当たり前な戦前には掟破りで、反発もあったろう。戦後は天然藍での染めを専らとし、古典的な長板中形の研究に余念がなかった。その奮闘が、人間国宝の認定につながったのだ。

祖父からの道筋がくっきりと見えた新天地

 定吉氏は、関東大震災で焼け出された後、江戸川区の荒川近くに工房を移す。田畑の広がる土地に水場を求めたのだ。戦前より、息子たちも父とともに働いていた。
 そして、認定直後に惜しくも逝去した定吉氏の仕事を受け継いだ、福与、利男、八光、与七の四人は「松原四兄弟」として知られるようになる。長板中形への注目度も高まった。ただ、四兄弟が一緒に仕事すれば、いいことばかりではない。衝突もあるし、同居する家族も増えていく。松原さんが物心ついた頃には、かなりの大所帯になっていたという。「一族で仕事を続けることに無理が出ていましたし、周辺の都市化が進み、公害問題もあって、太陽の光、水、風を頼りに染める古風な技法を東京で行うことに不安がありました」。
 松原さんの父・利男氏も多々思案があったのだろう。松原家第三世代となる伸生さんが「高校を卒業したら仕事を継ぐ」と宣言したことをきっかけに、独立を決意する。「祖父が無理を通して一貫制作に切り替えたから、僕たちの独立が可能だったと感謝しています。それでも、持ち出したのは、数枚の長板と、父が自分用に持っていた型紙くらい。裸一貫に近い状態でした」。
 工房も、最初は粗末な小屋から始まったという。それでも、父・利男氏に師事して仕事を始めた松原さんは、「大所帯から抜け、人里離れた場所で仕事に取り組むことにより、祖父から父、そして自分につながる一筋の道がくっきり見えた気がしました」。 
 それは、外側で見ていた人たちにとっても同様だったようだ。利男氏は、松原家とは一線を画して仕事をし、日本工芸会の常任理事や染織部会の会長を務め、修業に入ったばかりの松原さんを連れて会の集まりにも参加するようにもなる。「だから、伝統工芸展に作品を出すのは必然だったんです。第三十三回からずっと出品しています。

若かったから、工芸会の諸先輩からも可愛がっていただきました。今から思うと、父の企みだったのかもしれません」。
 利男さんとの仕事時間は約十年だった。病に倒れた利男さんは、長い闘病生活ののち二〇〇五年に逝去する。「父には、伝統工芸展の公募展に出し始めたら出し続けなさい、そこに至るクオリティもちゃんと保って、出し続けなさい、とよく言われていました。遺言みたいな言葉です。これまで一回も欠かすことなく出してこられたのは、父の思いを自分の中に保てたから。それが今に至る道になっている気がします」。

 松原利男氏の活躍や人物については、銀座もとじ会長の泉二弘明さんもよく耳にしていた。「どこへ行っても伸生さんのお父上の話を聞くんですよね、すごい人がいるんだって。江戸小紋の藍田正雄さんは特にベタ褒めでした。その息子さんが、今頑張っているって。それで伝統工芸展へ行くと、走り回ってお手伝いしている青年がいましてね。その姿が清々しくて、これから一緒にやっていける人、力を貸してくれる人ではないかと思ったんですよ」。そして、二〇〇九年の初個展を皮切りに今回、八回目を迎えることになる。
 また、現社長の泉二啓太さんにとって、松原さんは兄のような存在であり続けている。「後継者って、どうしても親の七光りとか言われますよね。それをモヤモヤと考えていた時期、松原さんと食事する機会があって、アドバイスをいただいたんです」。
 松原さん曰く、父親の仕事を継ぐ息子としての葛藤は理解できるが、いざ、仕事に入ると、父親は師にもなり、その壁を乗り越えたいと思う存在になる、と。「自分が成し遂げたいことを山登り、それも富士登山に例えるならば、スタート地点は、もしかしたら他の人よりも数合目高いかもしれない。けれど、目指す頂点は人それぞれで、より多くのことが実現できる可能性もあるのだから、生まれた環境に感謝して、お互いに素直に仕事をしていこうと励まされ、吹っ切れたんです」。松原さんもまた人間国宝の孫であり、実力ある父の存在があって、七光りどころか、十四光りなどと言われてきたからこそ、実感をもって言える言葉だった。

 ところで、今回の作品展にはサプライズがある。装うという「用の美」をいつも考え、デザインや素材に工夫し、浴衣だけにとらわれない現代の長板中形や藍形染を提案してきた松原さんにとって、武者震いするような仕事を銀座もとじが投げかけたのだ。重要無形文化財の越後上布、その白生地を使った長板中形。江戸時代の風俗資料である喜多川守貞著『近世風俗志』に、「また晒麻布・白縮布等に中形大形等、藍模様染めたるを『ゆかたかたびら』と云ひて、稀にこれを用ふなり。ちなみに云ふ、浴衣と云ふは湯帷子、ゆかたびらと云ふの下略なるべし」とある。江戸時代中期以前、風呂は蒸し風呂であり、湯帷子を着て入った。その遺品として徳川家康が着用したと伝わる麻地の大蟹文様浴衣がよく知られる。
 そんな浴衣の原点に回帰するかのように、手績み糸で地機織りの越後上布に松梅文様を染める。「希少な生地ですし、糸にハリがあって手強そうですが、挑みがいがあります」。
 江戸時代には当たり前だった伝統の上布が稀少になり、量産技法だった長板中形が芸術的価値で評価される今、江戸の昔と変わらぬ仕事が、最先端の美へと昇華する。温故知新があって、挑む気概があって、伝統の「わざ」は未来を目指していけるのだ。新たなフェーズに入った松原さんの門出を、心から祝したい。


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松原伸生(松原伸生)年譜

1965年 東京都江戸川区に生まれる
1984年 都立工芸高等学校デザイン科卒業後、
    父 松原利男に長板中形・藍形染めを師事
2000年 第40回伝統工芸新作展 奨励賞
2005年 第39回日本伝統工芸染織展 新人奨励中国新聞社賞
2006年 第40回日本伝統工芸染織展 新人奨励山陽新聞社賞
2007年 第41回日本伝統工芸染織展 東京都教育委員会賞
2008年 千葉県美術展(県展)県展賞
2009年 第56回日本伝統工芸展 新人賞
2014年 第61回日本伝統工芸展 高松宮記念賞(最高賞)
2015年 第49回日本伝統工芸染織展 日本経済新聞社賞
2016年 君津市長賞表彰
2017年 千葉県指定無形文化財「長板中形」保持者認定
2018年 第38回伝統文化ポーラ賞 優秀賞
2020年 第67回日本伝統工芸展 日本工芸会保持者賞
2020年 公益社団法人日本工芸会 理事就任
2021年 紫綬褒章 受章
2023年 重要無形文化財 保持者(人間国宝)認定

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田中敦子(たなかあつこ)

きもの、染織、工芸を中心に、書き手、伝え手として活動。百貨店やギャラリーで、染織、工芸の企画展プロデュースも手がける。「田中敦子の帯留めプロジェクト」主宰。雑誌『和樂』では、創刊時よりきもの研究家・森田空美氏の連載を担当。著書に『きもの自分流―リアルクローズ―入門』(小学館)、『インドの更紗手帖 世界で愛される美しいテキスタイルデザイン』(誠文堂新光社)、『きもの宝典 きものの花咲くころ、再び』(主婦の友社)など。最新刊に『父のおじさん 作家・尾崎一雄と父の不思議な関係』(里文出版)、『J-style Kimono 私のきもの練習帖』(春陽堂書店)がある。

田中敦子さんは世界中の文化遺産をオンラインで紹介するサイト「Google Arts&Culture」で「長板中形」の紹介テキストと監修を行っています。(取材協力:松原伸生さん)
Google Arts&Culture 長板中形


人間国宝認定記念展
「古き」をまもり「新しき」を描きだす
松原伸生の長板中形

会期:5月24日(金)~26日(日)
場所:銀座もとじ 和染、男のきもの、オンラインショップ
〈お問い合わせ〉
銀座もとじ和染 03-3538-7878
銀座もとじ男のきもの 03-5524-7472
(電話受付時間 11:00~19:00)

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