五代・田畑喜八 ~お召しになる人が「華主」さらに麗しく輝いて~|和織物語

五代・田畑喜八 ~お召しになる人が「華主」さらに麗しく輝いて~|和織物語

着る人が「華主」。
お召しになる女性が「華の主」として一番美しく輝いて見えるように最大限の力を尽くしてものを作る。それが自分の仕事と言い切る五代田畑喜八氏。
五代を襲名するに当たり「10点」の茶屋辻の製作を自分に課し、藍の濃淡を基調とする気品あふれる格調高い着物を作り上げた。この作品には優雅さの中に五代喜八氏が秘める力強さが込められていると評判を取った。
この道に入って半世紀以上。田畑家コレクションと言われる膨大な資料を元に安土桃山時代から平成まで、数百年を縦横無尽に行き来して、お客様の要望するデザインを起こし、その人に似合うものを作りだす。
「半歩先に行け」と言う家訓を、75歳の喜八氏は、今でもしっかり心に刻む。百貨店に行くと真っ先に化粧品売り場を歩いてまわり、「今の色」を見極めてくる。「髪の色も化粧も昔とは比べものにならないくらい変わった。お召しになる着物だけが変わらなかったら、そりゃ浮いてしまいます。今のお化粧や髪色に合わせながら、伝統の色柄に手を加えて表現して行く。それが田畑家の半歩先を行くことです。その為にはいろんな事をみて勉強しないとあきません。死ぬまで勉強ですわ」と言う喜八氏。
田畑家が誇る「茶屋辻」「京友禅」の膨大な資料の中から、店主泉二がセレクトし、さらに五代喜八氏が独自のエッセンスを加えたデザインをプラチナボーイの着物と帯に染める。藍染めの濃淡で作りだした「茶屋辻」は、ご本人から「久しぶりに重たい重たい仕事でしたわ」という感想が漏れたほどの緻密さを要求した。
田畑家コレクションと共に五代喜八氏が作り上げた「気品と力強さを込めた現代に息づく美」を是非ご覧ください。

茶屋辻とは

茶屋辻とは江戸時代の徳川将軍家と御三家のみに着用が許された奈良晒という麻の生地に藍の染料の濃淡で作った染物を言います。江戸初期に徳川家出入りの呉服商であり、染屋であった茶屋四郎次郎が創案したと言われています。
当時、藍は他の染料から比べると庶民的な染料でした。徳川家は贅沢を禁止していたので、この藍を使い、その色の濃淡で緻密に柄を出し、端正で素晴らしい美を表現しました。奈良晒は、今とは違い奈良で特別に栽培し、「一本の茎から一本しか採れない」という細い糸を使って織らせた麻で、今では越後上布や近江上布として普及しているものです。
雲下の景茶屋辻訪問着
雲下の景茶屋辻訪問着

着用が許されたのは、徳川将軍家と御三家の水戸、尾張、紀州のたった四家のみ。
それぞれの家で描く文様にも好みがあり、それが逆に特徴となって、文様を見ただけでどこの徳川家なのかが推測できるほどでした。そして、着用が制限された事でかえって他の大名家や豪商たちにとって永遠の憧れになりました。

友禅染の誕生

元禄時代になると、知恩院の門前で扇の絵師をしていた宮崎友禅斉が独自に茶屋辻に糊防染で色々な色を挿して「茶屋辻ではない染物」として「友禅染」を作りだしました。当時、茶屋辻に憧れていた大名家の人々や商人たちがこぞってこの染物を求め、爆発的に人気となります。友禅染は糊で防染した中に刷毛や筆で様々な色を挿していきます。染物では染料が生地の中に浸透していくという意味から「塗る」ではなく、「挿す」と言う言葉を使います。宮崎友禅斉が晩年、京都から加賀に移り住みそこで友禅を広めたことから「加賀友禅」も普及しました。「京友禅」は自然の風景、草花、心象的なもの、森羅万象あらゆるものを染め、注文主のどんな要望にも応えられる技量が要求されました。そのために「特徴のないのが京友禅の特徴」と言われるようになりました。

田畑家の歴史

垣のある景茶屋辻袋帯
垣のある景茶屋辻袋帯
田畑家は、滋賀県高島郡の出で、初代喜八氏が文化文政時代に絵描きになりたいと一念発起して京都に出て、その後小川通りに染屋を開いたのが始まりです。京都は素晴らしい水に恵まれていたため茶道や清らかな水を使う染物、織物が発展しました。またこの場所は、徳川将軍家を中心とした二条城、天皇を中心とした御所があり、御所と二条城の奥方や姫君の御衣料を受け賜わって来た事が更に染屋や織屋が大きくなった要因ともなっています。

二代喜八氏は鈴木松年さんについて日本画の勉強から始め、染屋を継ぎました。この頃、公家や元武家から「姫の嫁入り道具に着物を」と依頼を受け作ったものの先方が代金を支払えず、代わりにと代々家に伝わる小袖等を田畑家に持ち込んだことから田畑家コレクションが始まります
三代喜八氏は幸野楳嶺さん、先輩の竹内栖鳳さんに師事し、同門の上村松園さん等と共に絵描きの道を目指しました。しかし20代に父親の二代喜八氏が亡くなり、一族の名を絶やさないために染の世界に入りました。この三代喜八氏が勉強家で染屋の道に進んでからは「職業意識」を持ってよりよい作品を作りだすために、古代衣裳の蒐集に力を注ぎました。食べるものも食べず節約をして限りある資金の中から、染の参考資料として配色、模様、構図、技術すべてに優れているものという厳しい観点で選び抜いて集めました。これが「田畑家コレクション」を更に素晴らしいものにしていきました。これらは何百年と言う時間を経ても色褪せずに残っており、「染屋の目を通し、美術家の目を通して選別したもの」として現在では数百点以上に上り、大変貴重で価値あるものです。職人としても、蒐集家としても全力で生き抜いた三代喜八氏は、1955年に人間国宝に認定され、翌56年に79歳で亡くなりました。
四代喜八氏は芝居好きで大学生の時には自ら劇団を主宰、環境が許せば多分役者を目指したであろう人でした。しかし卒業後は、染屋に生涯をかける父の姿を見て、決然と夢を捨て、家業を継ぎ、貴重な田畑家コレクションを引き継いで、描く事、染める事に誠心誠意打込みました。
人間国宝三代喜八氏の膝に抱かれ美しい染の世界を常に見て育ち、父四代喜八氏に「才能よりも努力だ! 」と厳しく指導されたのが現五代喜八氏です。

五代田畑喜八氏とは

本名は田畑禎彦、1935年11月12日に3人兄弟の長男として京都に生まれました。小学生の時に集団疎開を体験し、中学生の時に、父親に「健全な精神は健全な肉体に宿る! 」と強制的に「平安道場」に放り込まれました。当時は、GHQの統制下にあり「日本の武道」は一切禁止でしたが、「平安道場」だけは警察学校の学生のために開かれていました。禎彦氏はまだ身体も小さく細い子供。それが体躯の良い警察学校の大人と一緒に稽古をするのですから、たまったものではありません。
プラチナボーイ訪問着「段取風景文」の一部
プラチナボーイ訪問着「段取風景文」の一部

否応なく投げ飛ばされ、受けの稽古ばかりが続く日々になりました。しかし、生来、勝気の禎彦氏はここで負けてはいません。「さて、どうするか? 」「組んでしまった ら体格で決して勝てない。ならば他人以上に動き、技を身につけよう! 」と。相手の動きを五感全部で読む、そして先に動き、隙を見つけては突っ込み、技で投げる。中学を卒業する時には「黒帯初段」になっていたという「つわもの」です。
高校は、嵯峨野高校に進学。自ら柔道部を作り主将を務め、その情熱と義理人情に厚い性格から生徒の信頼を集め生徒会長も務めました。この頃の禎彦氏には、なりたいものが3つありました。曲がったことが嫌いで、肝も座っていて、武道にも通じ、相手の動きが読める。そんな禎彦氏が目指すのに最も適していたと言って過言でないもの、「ジャーナリスト」「検事」「政治家」でした。
大学進学の話が出始めた頃、跡取りで長男の禎彦氏は自然に将来について考えました。「親は決して後を継げとは言わない。でも長男の私が祖父、父と代々心血を注いで来たコレクションを途絶えさせて良いのか? 」悩んだ末、後を継ぐ道を選びました。選んだら男気のある禎彦氏、もう迷いません。「田畑家のぼん」としか見られない京都から飛び出し、早稲田大学第一文学部美術専修に進みます。
東京に出た事で足枷がなくなり、勉強の合間のアルバイトでは「4年しかない短い期間、色々体験や」と様々な職種を験します。まずは深夜、ホームレスの人と一緒に夜通し東京駅周辺に並んで指定券を取る。そこでそれぞれの人の様々な人生の話を聞き、自分が知らなかった世界を知りました。次は、百貨店の服地売り場。高度経済成長期、女性の流行は目まぐるしく動きます。半期先の流行を常に意識しながら個々のお客様に似合う物を的確にお薦めしていく。その姿と感性が好感を呼 び、アルバイトなのにすぐに固定客が付くほどでした。そして極めはバーテンダー。カウンター越しに無言の中で会話は始まります。常連さんとは挨拶からその日の状況を見極め、タイミングを計ってオーダーを取りシェイカーを振ります。新規顧客には会話から好みを察知し、お薦めのカクテルを提案。ここでも武道で身に付けた相手の空気を読むことが役立ち、更に鍛えられました。金銭に余裕が出来た分は東京でしか見られない美術館、展示会を歩きまわり、染屋としての勉 強も続けました。
田畑家の家訓には、「悪いものは見るな、目が汚れる。良いものだけを見て行け」とあります。東京にいる間に禎彦氏はひたすら出来るだけ良いものに出会い、見る努力をし続けました。
卒業後は京都に戻り、改めて京都市立美術大学日本画科に進学し日本画を描く為の勉強を徹底してしました。このままでは「田畑の跡継ぎは理屈がわかっていても絵が描けへんやろ」と指摘されると自覚し、自ら選んだ「染屋」の道を全うするためにも絵を描く勉強をしたのです。田畑家には「染の技術を習得する前に日本画の素養を身につける」という家訓もあります。
その後はひたすら父の下で写生の実習です。「描くのが遅すぎる」「早すぎる」「お前の線は針金や」「ものにはものの心がある。それを描くんや」と何度も差し戻しです。師弟関係であると分かっていても親子ですから喧嘩も絶えません。禎彦氏は言います。「今振り返ると田畑家の歴史は親子の葛藤の歴史ですわ」と。

五代 田畑喜八氏の作品とは

家のある景茶屋辻絽袋帯
家のある景茶屋辻絽袋帯
禎彦氏は、1995年に「五代田畑喜八」を襲名しました。
その折、気品あふれ現代の人にも受け入れられ、そして更に感嘆させる力のある茶屋辻を「10点」製作することを自分に課しました。糊防染を施し、藍の浸け染に微妙な差を付け、また陰影を出す色挿しには「藍の墨棒」(滋賀県の藍でつくった藍墨で江戸時代に製作、現在は田畑家のみで使用している)を磨って筆で加筆します。

それを繰り返して藍の濃淡を基調とした気品あふれる格調高い優雅でありながら芯に力強さのある着物を作り上げたのです。
しかし、五代喜八氏の仕事はそれだけではありません。京友禅を手掛ける染屋ですから、どんなデザインのものでも作ります。田畑家の得意技は「藍の濃淡・摺疋田・縫い箔」です。昨年、一昨年は、振袖用に注文主が田畑家コレクションの中から好みの柄(この時は江戸時代の柄)を選び、それを五代喜八氏が20歳の少女に似合うよう、新たにデザインし、色挿し色出しをして作りあげました。それが着物ファッションショーにまで取り上げられ、大評判を得ました。「古典的な柄でありながらそれを現代に息づくものに作っていく」これが五代喜八氏のセンスです。
「良いものを作ることに生命をかけた昔の職人たちの心を本当に理解しないとただの模倣になってしまいます。それでは本当に生きたものは作れません。田畑家の家訓に『50、60歳は洟垂れ小僧』というのがあるんです。それから言うと私はまだ駆け出し。だから先人がつくった素晴らしいものを見ると感動して涙が出て『お前何やっとるんだ! まだまだだぞ! 』と鼓舞されたと感じるんです。京都に居るから毎年欠かさず正倉院展には行きます。私は死ぬまで勉強です。」

迷いを捨ててただひたすらに

そう言う五代喜八氏も1985年(昭和60年)代にこの着物の世界を続けて良いものかどうか迷いに迷った時がありました。着物の世界の今を自分なりにしっかり分析し、「強み」と「弱み」を比較。自分なりに「強み」の方が勝った結果となったことでこの仕事を迷いなく続けることに決めました。
着物には、日本人の慎ましやかな美とその人の教養と品格が現れます。それは、お召しになる方々が数日前から準備にかかり、着物、帯、帯揚、帯締、髪型、装飾品、化粧に至るまですべて考えるからです。結果、コーディネートにその人の育ってきた環境や、身につけて来た教養とセンスが現れる。それがその人の個性の演出になるのです。お召しになっただけでこれだけ世界観の変わるものは着物以外にはありません。この素晴らしい世界を衰退させるわけにはいかないと、その 後は更に田畑家の創作活動を進めるチームを作り、本当に信頼出来る職人たちと連携してものづくりをしています。
五代喜八氏は言います。「私ひとりは微力でも一生懸命にやり続けることで、この世界の生き残る道が必ず見つかると思っています。」

「お召しになった女性を更に美しく輝かせる事に男のロマンを感じる」と言う五代田畑喜八氏。
銀座もとじが田畑家のコレクションの中からデザインを選び、それを五代喜八氏が新たに現代のエッセンスを吹き込んだデザインにし、厳選して色挿しした作品が並びます。

お召しになる人が「華の主」。
ぜひ、あなたもそのお一人になってみませんか。