「信念で育む喜如嘉の芭蕉布」平良敏子と芭蕉布織物工房展|和織物語

「信念で育む喜如嘉の芭蕉布」平良敏子と芭蕉布織物工房展|和織物語

小柄な身体に優しい微笑み、穏やかな声。
寄り添うと、暖かくふわっとした空気が私達を包み、心が癒される。 この人が、戦後から今日まで幾多の困難を乗り越えて、「喜如嘉と言えば芭蕉布」と言われるまでに築き上げた人だ。
芭蕉布は糸芭蕉から作られる。糸芭蕉は切り倒す際に芯近くから外皮へと4種に選別される。そして「チング巻き」で更に選別を行う。糸を績む時にも徹底的に色、質、細さで選別される。自然界で育てる芭蕉は、その時の気候によって微妙に成長が違うため、上質の着尺を織り上げるには、績んだ糸を何年も貯め色を揃えていく必要がある。織り上げるまでは、切れやすく扱いの極めて難しい芭蕉の繊維は、織り上げられたあとはどの繊維にも増して強い布になる。根気よく、飽きずに、湿度を保った環境の中で黙々と作り上げられるものが芭蕉布だ。
平良敏子さんは、20代で勤労隊として倉敷に赴き、帰郷の折に倉敷紡績の社長の大原総一郎氏と民藝運動のリーダーの一人外村吉之助氏からかけられた「沖縄の織物を守り育てて欲しい」との言葉を真摯に受け止め、誠意で応え続けた。様々な出来事を乗り越えて、芭蕉布と共に生き、技術を徹底的に磨き、そして後継者育成に励んだ。
2000年に人間国宝に認定されて、現在でも第一線の制作現場に立つ。
はにかんだ笑顔とたたずまいは、91歳と言う歳とは無縁の、少女のように感じる。「信念」と「至誠」で守り続けた芭蕉布は、平良敏子さんの生き様そのものかもしれない。

平良敏子さんが主宰する芭蕉布織物工房の貴重な作品が揃いました。
琉球の島々で生き続けた芭蕉布を引き継ぎ、それを更に斬新に、精緻にとデザイン化し、プロデュースを進めた平良さん「心で織る」作品の数々をぜひご覧ください。

平良敏子さんの歩み

<ハイカラ敏ちゃん>

平良さんは、大宜味村喜如嘉の旧家、屋号を「真謝(マジャ)」と称する裕福な家の長女として誕生しました。「真謝」の家は、代々地頭代や区長を輩出する家で、祖父は船主、父も、昭和初期に喜如嘉の区長を勤め、芭蕉布の品質向上と販路の拡大に努めた人でした。
1921年(大正10年)2月14日敏子さんは誕生しました。旧暦では年末のすす払いが終わり、神様に一年の無事を感謝する頃で、この時に生まれた子は「福をもたらす子」と言われ家中で祝う習わしでした。
左:芭蕉布帯 右:芭蕉布藍着尺
左:芭蕉布帯 右:芭蕉布藍着尺

母は敏子さんを大変可愛がり、新しい柄の反物が入ると直ぐに買って着せていました。喜如嘉で洋服を着て学校に行ったのも初めて、お下がりとは言え、靴も持っていたというお洒落さん。近所でも「ハイカラ敏ちゃん」と呼ばれる存在でした。
恵まれた子供時代を過ごしていましたが、やがて祖父が没し、事業が苦手だった父の代になると不況も手伝い、真謝の家は傾いていきました。小学校卒業後は敏子さんも進学を諦め、遠縁の手伝いをし、やがて親戚を頼って東京に仕事を求めて出て行きました。

<第四次沖縄県勤労女子挺身隊として>

第二次世界大戦が始まり、戦況が厳しくなってくると、喜如嘉の実家から「畑仕事に人手が足りないから帰ってくるように」との呼び出しが入りました。しぶしぶ実家に戻ると翌日からは畑仕事と勤労奉仕の毎日、くたくたに成るほど働き続けていました。
1944年、敏子さんに青年学校の先生から本土の工場で働く「女子挺身隊」への参加の誘いが来ました。直ぐに応募し、友人たちへも声を掛け、総勢110人が3月30日に第四次沖縄県勤労女子挺身隊として輸送船に乗りこみました。ひっそりと船団を組んで出た船も、途中で一艘が沈められるという危険をはらんだ航行でした。3週間余りを掛けて4月20日に倉敷に到着。倉敷紡績工場が当時は国策に従い航空機を緊急増産する工場になっていました。呼び名も「万寿航空機製作所」、軍機の翼部分の製造、組立てを行っていました。「お国のため」と朝から晩まで交代制で働き、時には徹夜の仕事にも成りました。
沖縄からの一団はほとんどが本州の寒さを知りません。慣れない仕事に追い打ちをかけるようにこの冬は氷点下の寒さが襲いました。冷たいジュラルミンを触り、徹夜仕事で手足はしもやけ、身体を壊す人も出ていました。挺身隊の隊長だった女性も病に倒れ働けなくなり、とうとう副隊長だった敏子さんがリーダーになりました。当時は色々と差別もあった時代です。敏子さん達の合言葉は「仕事でも余暇でもなんでも一番を目指して頑張ろう」と言うものでした。

<倉敷紡績の大原総一郎氏との出会い>

芭蕉布帯
芭蕉布帯
そんな沖縄挺身隊のメンバーにとりわけ気を配ってくれたのが、琉球文化に造詣の深かった倉敷紡績の大原総一郎社長でした。万寿航空機製作所の社長を兼任していた大原氏が、人一倍頑張って働く第四次挺身隊のメンバーを親身になって励まし支えてくれました。

日増しに戦争が激しくなっていく中、切れ切れに聞こえてくる情報は「沖縄本島攻撃開始」「米軍の本島上陸」「沖縄決戦」と言う不安な内容でしたが、それも20年の6月を過ぎる頃からはふっつりと聞こえなくなりました。「沖縄が玉砕したらしい」と知らされても、家族の安否を知る手がかりもないまま、倉敷から更に疎開先に移り「軍人さんの役に立つものを少しでも多く作る」と夢中で働きました。そして8月15日の終戦を迎えます。工場の作業は中止となり、挺身隊のメンバーにも「身寄りあるものはそこを頼って移りなさい」と言う命令が出ました。行く当ての無い60名のメンバーはそのまま倉敷紡績工場に移りました。敏子さんには東京に伯母がいましたが、「私は隊長だから皆を置いてはいけない」と60名と共に倉敷に残りました。郷里の様子がわからないまま働き続け、1~2カ月が経った頃、大原社長から呼び出しを受けました。柳宗悦氏の民藝運動に熱心に参加していた大原社長は「沖縄の文化を倉敷に残そう。織を勉強しないか? 」と提案し、会社の事業計画に「織物の勉強会」を組み込みました。
そこに外村吉之介氏が招かれ、敏子さん達の織の指導に当たりました。「会社の費用で織り方まで教えてくれる。なんてありがたいこと。」と敏子さんは感謝をしつつ、必死で織を勉強しました。
この時「織は心」「ものを見る目を養いなさい」と外村氏から教えられ、柳宗悦氏著書の「芭蕉布物語」の存在を知りました。
1946年秋、異国になった故郷、沖縄への帰郷がやっと認められ2年半の倉敷生活に終わりを告げることになりました。別れの日、大原社長と外村氏が揃って倉敷駅まで送ってくださり「沖縄へ帰ったら、沖縄の織物を守り育てて欲しいなぁ」とつぶやくように告げました。これが、敏子さんの心に深く残りました。

<芭蕉布への道>

やっとの思いで沖縄に着き、喜如嘉に向かいました。途中は一面焼け野原でしたが、喜如嘉周辺だけは焼けずに残っていました。芭蕉の畑はマラリア蚊の発生源になるという理由で、米軍によって切り倒されていましたが、山の奥に自生している芭蕉の樹から繊維を取って細々と芭蕉布は織り続けられていました。暫くの間は日々の暮らしを支える事に必死で、敏子さんも芭蕉布に向き合うことは出来ませんでした。
芭蕉布帯
芭蕉布帯

1951年頃になってやっと芭蕉布の織に向き合いましたが、当初は着尺を織るだけの良い糸を作ることができず、「喜如嘉の芭蕉布の質を落としてはいけない」と肝に銘じつつも、状差しやネクタイ、バッグ、テーブルセンターなど小物類を作っていました。
芭蕉布は一人で全部の工程をやり遂げる事は出来ない織物です。芭蕉を育て、手入れをし、切り倒す、すべての工程に人手が必要になります。芭蕉の糸は扱いが難しいうえに熟練を要するので、作り手が辞めないようにと敏子さんは、自分の生活に困窮が見られても、他の仕事に携わる人と遜色の無い手間賃を払う努力を積み重ねました。そんな困難を一つずつ乗り越えながら芭蕉布一筋に進もうと決めた矢先、芭蕉布の価値を知らしめてくれた「芭蕉布物語」の著者で民藝の柳宗悦氏が亡くなりました。ふっと、10年以上も音信不通にしていた倉敷紡績の大原社長への不義理が思い出され、居ても立てもいられずに船に飛び乗りました。「会いたい一心」で急に訪ねて行った敏子さんに、大原社長は驚きながらも大変歓迎してくれました。外村氏も元気にしていて敏子さんが「織って手持ちした芭蕉布」を見て感激してくれました。

<重要無形文化財 喜如嘉の芭蕉布>

芭蕉布づくりは、材料集めから栽培、伐採、苧績み、染め、織りとどの工程をとっても短時間で習得できるものはありません。
長年の経験と優れた技術が必要となります。敏子さんは、喜如嘉の女性の誰にでも「芭蕉布を織りなさいよ」とひたすら声を掛け、「苧績み」をすれば笑顔ですべてを買い上げました。また、芭蕉布を織る人達にも他の仕事で得られる日当と変わらぬ、いやそれ以上の賃金を払い続け、作る人を守り育てて来ました。こうした努力から、1965年には「沖縄タイムス文化賞」を「芭蕉布の平良敏子」として受賞しました。この時も敏子さんは「芭蕉布に関わる人の代表としていただきました」と言い、賞金も関わった人、皆で分けた程でした。
1972年に沖縄が日本に復帰します。そして喜如嘉の芭蕉布が1974年(昭和49年)に国の重要無形文化財に指定されます。
指定を受ける団体としてこの時、「喜如嘉の芭蕉布保存会」が作られました。

鏡と誠の心

沖縄タイムス文化賞を受賞した時、大宜味村の有志の方が「なにか敏子さんに記念品を」と申し出てくれました。その時に敏子さんは「心を映す鏡が欲しいです」と言いました。その鏡は今も自宅の玄関に飾ってあります。
敏子さんは言います。「戦後、会社の再建さえ危ぶまれた時期に、沖縄の文化再興を事業計画に入れ織りの教育をし、『沖縄の織物』に力を注いでくれた倉敷紡績の大原社長の熱意とその心。そして今日まで自分を支えてくれた喜如嘉の芭蕉布に関わったすべての人に心から応えて行きたい。だから毎朝、玄関先でこの鏡に向かい、『今日も嘘偽りの無い仕事をさせてください』と念じ自分の心を映すようにしています」と。
そしてもう一つ。物づくりをする時は、いつも夜、空を見ながら自分を振り返ります。良く出来た時は感謝の気持ちで空に向かって手を合わせ、上手くいかなかった時は「私には何が足りなかったのでしょうか? 」と空に向かって自問し、一日を振り返り反省しながら手を合わせることを続けているのです。
いつも誠心誠意「芭蕉布」に向き合う敏子さんです。

今もなお第一線で

芭蕉布帯
芭蕉布帯
細めた優しい目の奥に一瞬何かが見えた気がした。工房の片隅に座り、右手に小刀を持ち右手の薬指と左手の薬指、人差し指、親指を巧みに使って苧績みしていく。リズミカルに動く手は、私達の目では追いつかない程の速さで、糸をしっかり結んでいく。
息を飲んで見つめているとふっと顔を上げ、笑顔で「芭蕉の糸を藍で染めましょうか」と優しくひとり言のように囁いた。

ゆっくり椅子から立ち上がり、杖をついて歩き出す。ゆっくりゆっくり歩きながら私達を染め場にいざなう。藍甕の蓋を開け、藍を覗きこんでまた私達に囁く。「いい藍でしょ」その笑顔が何とも言えず可愛い。徐々に優しい微笑みの中の眼差しが鋭くなっていく。今までの歩みが変わり、凛とした雰囲気が漂う。芭蕉の糸を持つと一瞬にして空気が変わった。赤子をお風呂に入れるかのように、優しく糸を抱き、大事に大事に藍に浸け、優しく揉み込んで、藍染めをして行く。15分以内に染めて8分乾きの状態でまた藍を染める。そして1時間干す。また染める。この工程は芭蕉布製作のまだ一部、芭蕉布は織り上げるまでに20数工程の手作業を経る。敏子さんはそれを現役で続けている。

芭蕉布とは

天然染料による染めと精緻な手織り、喜如嘉の芭蕉布はそのしなやかな風合いから世界にも類を見ない存在になっています。
その作品を作り続ける平良さんの仕事は、決して楽なものでも、また苦労が十分に報われるものでもありません。それでも輝くような笑顔で作り続けるのが平良敏子さんです。
伝統の織物が盛んな沖縄でも、糸から地元で作り、精練して織り上げるという織物は「喜如嘉の芭蕉布」だけになっています。
今、義理の娘、美恵子さんを筆頭に弟子や仲間達が敏子さんを支え、敏子さんの芭蕉布に掛ける精神を受け継ぎ、物づくりを続けています。喜如嘉の芭蕉布の灯は、幾多の困難を超え、平良敏子と言う「誠の心」を持った女性の力で生き続けて来ました。
そして、これからも伝えられた人々の心にゆるぎなく根ざしていくでしょう。
実際に使う人の希望を取り入れ、敏子さんの体験的な知恵や色の応用によって今の街並みにも活き活きと映える芭蕉布が作り上げられました。
今回も、素晴らしい着尺、そして女性ものの帯、さらに店主泉二がお願いした男性の角帯も出来上がります。
このまたとない機会をぜひお楽しみください!