小紋師・藍田正雄~江戸小紋に懸けた熱い想い~|和織物語

小紋師・藍田正雄~江戸小紋に懸けた熱い想い~|和織物語

江戸小紋、一見無地にも見える細やかな柄は緻密な技術の結晶から生まれる。江戸時代には武家の裃柄として重宝がられ、現代では着物好きの人達に礼装用にもお洒落用にも使える「粋」な着物として好まれている。小紋染の担い手のひとり、藍田正雄は最後の「渡り職人」だ。彼の技術は縞柄でもっとも生かされ、「毛万筋」は、一見の価値がある。そして彼にしか生み出せない「板引き杢」。長年の経験から生みだされる染には、「職人技」というだけではなく、そこに藍田の鋭い感性と人間的な温かさが加わる。「藍田正雄の江戸小紋は、身に纏っていると身体になじんで温もりがある。」と着た人は言う。確かな技術と感性に裏打ちされた藍田の江戸小紋はその人柄と共にずっと持っていたい一反となるだろう。

小紋師 藍田正雄

小紋師・藍田正雄さん 制作の様子
屈託の無い笑顔、優しい目、気取らない人柄、会った瞬間につい声をかけたくなる。そんな雰囲気を持つ藍田正雄。それが板場に立つと一気に変わる。口を真一文字にし、目は反物に吸い寄せられ鋭くなる。板に霧を吹き、白生地をのせ「地こすり」で平らにしていく。シュウシュウと音を出しながら手の中にすっぽりおさまる黒檀の「地こすり」。これは父の代から百年以上使っている欠かせない道具。板に反物を延ばした後は、これも百年以上使っている「地貼り木」の出番だ。最後に型紙をのせ、ヒノキのヘラで群青の顔料を混ぜた薄い水色の糊を置く。

何ともリズミカルにヘラが動く。簡単に見えるがこの糊置きの鉄則は「紙一枚分を残す位に糊を置く。」こと。ほぼ三往復のヘラの動きで糊が置かれ、型紙をゆっくり持ち上げて次の型置きに入る。この時の足の運びも三歩半。白生地と型紙を前にして行ったり来たりの無駄が無い。歩幅も型を置く姿勢も腕の動きも全く変わらない。
そんな彼でも「何年やっても型紙を置くときは神経を使うよ。季節によってまた反物の素材によって型紙にも反物にも伸び縮みが出てくるからね。」と言う。湿気のある梅雨時、秋の長雨、そして雪でおおわれる一月から三月が糊置きに一番適した時期だという。「親父は七十歳の時に『俺が失敗したら型紙まで駄目にする。俺の職人人生はここで終わりだ。』と言って板場から降りました。私もあと何年出来るかわかりません。だからこそやれるだけ頑張りたい。私には後継者を育てていくという使命もありますから。」

藍田正雄の生い立ち

1940年茨城県生まれ。父は職人肌で小紋染めに命を懸けたと言っても過言でない人生を送った。その次男が正雄である。父親が板場で仕事をしている姿が大好きで、小学校から帰ると直ぐ板場に入り、夜遅くまで見ている子供だった。父の時代でもプリント柄の発展と大量生産の風が吹き職人技はどんどん軽視されていた。収入も安定しない。それでも正雄は父の仕事が好きだった。ある日板場に行くと珍しい事に父が最後のひと型をやり残したまま板場を離れていた。門前の小僧は、見よう見まねでやってみたくなった。型を動かし最後のひと刷けまで来たときに事件は起こった。
小紋師・藍田正雄さん 制作の様子

型紙がずれたのだ。「しまった! 」と正雄はすぐに物陰に隠れた。
そこに父が戻って来た。案の定「誰だ! こんな事をしたのは! 」と怒声を上げた。震える正雄。が、次の瞬間父がにやっと笑って「なかなか腕が良いかもしれんな。」と言ったのである。それが正雄を小紋師にする大きなきっかけとなった。中学生になっても相変わらず生活は苦しい。家計を支えるため新聞と牛乳配達をし、学校から帰るとすぐに父の手伝いに入った。夜も遅くまで板場に居るので授業中によく居眠りをし、先生に出席簿で殴られた。それでもその生活を苦だと思ったことは無かった。

父親の職人魂を知る

中学卒業と同時に品川の更紗を中心とした型染め師の元に修行に入った。最初は覚えることがあって楽しかったが、父の手伝いを五年近くしてきた正雄である。あっという間に目新しいことが無くなった。三年と言う歳月が経つ頃には親方の型染めは殆どマスターし怖いものが無かった。そこで正雄は父と仕事を始めようと、勝手に親方の元を出て来てしまった。意気揚々と実家に戻った正雄を迎えた父の顔は怒りに満ちていた。「おめえなんかと一緒にやる気はねえ! 」あっという間に玄関から荷物と共に放り出された。「もう二度と父ちゃんの元になんか帰ってくるもんか! 」走り出した正雄を必死で追い駆けてきたのは母親だった。「正雄! 父ちゃんの気持ちが分からないか! その慢心した思いを見抜いて言ったんだ。職人はこれで良いと思ったらお仕舞いだ。親方に謝ってやり直して来い。」そう言って菓子折を持たせてくれた。母の顔を見ていると改めて父の怒りの意味が心にしみて来た。正雄は東京に戻ったが、親方の元には戻れる訳もなく行く場所がない。自分の慢心を 悔やみつつ、その後は自分の技術で勝負した。平井で三年、熊谷で三年、本庄で二年、児玉町で三年、短い期間を入れれば数え切れないくらいの親方の元で仕事をし、そこの親方や職人達の技術を眼で盗み渡り歩いた。どこへ行っても当時は「型置きの位置、立ち方、足運び」で技量が読める職人が揃っていた。三十歳を過ぎる頃には正真正銘の技術が身についていた。

高崎で小紋師として

小紋師・藍田正雄さん
高崎の実家に戻り、所帯を持ち自らの工房を構えた。技術には自信があったが、世の中は大量生産から大量消費そしてオイルショックの時代を迎えていた。職人仕事に価値を見出す風潮は消え、どんどん仕事は減って行った。工房を出ると、六畳一間の家では卓袱台に向かって女房が万年筆のキャップを取り付ける内職をしていた。年端も行かない娘二人が一生懸命手伝っている。その姿を見た時「こんなに苦労を掛けていたのか。」と愕然とした。女房からも「ご飯が食べられる仕事をしてくださいな。」と懇願された。

この一言が決定打となった。翌日から就職口探しが始まった。同じ頃、高崎に弁当屋が出来、職員を募集していた。試験を受けたらすんなり合格した。明日は仕事場がすべて片付くと言う晩、手放せない一反の反物を抱えて寝た。「未練だ! 」と言い聞かせても涙が止まらない、どうしても諦められない。 翌朝早く藍田は女房に頼んだ。「最後にこの一反を持って東京に行かせてくれ。汽車賃は有るか? 」「お父さん、これ渡したらもう今晩ご飯を食べるお金がない。でも最後だから行ってらっしゃい。」と快く送り出してくれた
大急ぎで反物を抱え、家を飛び出し上野行きの電車に乗った。大小の着物問屋がひしめく日本橋から浜町、人形町とありとあらゆる店に飛び込んでは反物を見せた。が、どの店も「今はそう言う職人技はねえ。」と取り合ってくれない。どんどん日は落ち問屋街もシャッターが下りていった。「神様は居ないんだなあ。」そう思って上野に向かい始めたとき一軒の店が目に入った。「江戸小紋 岡巳」、ウインドーには素晴らしい江戸小紋が掛かっていた。「最後の一軒だ。」そう思って飛び込むと一人の男性が応対してくれた。そこに恰幅の良い男性が通りかかり「珍しい、良いお仕事をされていますね。」と言ってはくれたが、直ぐに二階に上がってしまい、それ以上話は進まない。とうとう反物を返され藍田は店を出た。「今晩の飯はどうする。」高崎駅に着くのが辛くて仕方が無かった。玄関では労わる様に微笑んだ女房が迎えてくれた。

希望の光

翌日、仕事場で最後の片づけをしているところに電話が鳴った。「今頃、電話なんて? 」そう思って受話器を取ると相手の声はこう言った。「岡巳の者です。今上野から社長と専務が揃って高崎へ向かいました。駅に迎えに来てくださいますか? 」と。びっくりした藍田は駅に向かった。車を停め、構内に駆け込む。「あの時間だとこの電車か。」駅の時計を見て一度車に戻る。すると、なんと警官が車の横で「駐車禁止」の手続きをとっていた。慌てた。駐禁を取られても払うお金がない。藍田は必死に事情を説明した。
小紋師・藍田正雄さん 作品

警官は一通り聞くとにっこり笑って「幸運を」と言い去っていった。その後姿に思わず最敬礼をしていた。 到着した二人に会い、昨日の恰幅の良い紳士が実は岡巳の社長だったと知り、びっくりしながらもう一度反物を見せた。「良い仕事をなさる。私が探していたのはこういう仕事です。一緒に頑張りましょう。」これには藍田も仰天した。嬉しさと「本当に信じていいのか? 」 と言う気持ちと。藍田は正直に話した。「既に道具一式整理してしまいました。反物を買う資金もありません。」と。それを聞いた岡巳の社長は微笑みながら「白生地は私が手配しましょう。取り急ぎ二百反送ります。」
数日後、約束通り段ボール七箱に入った白生地が届けられ六畳一間の自宅は寝る場所も無い状態となった。その日から藍田は殆ど寝ずに仕事を始めた。眠りたいとか疲れたとか、思う間も無かった。「未練だ」と振り切り続けたこの大好きな仕事が続けられ、家族を養える。自分の腕を信じ惚れてくれた岡巳の社長の期待を裏切っては成らない。そんな思いが溢れて藍田は自分が納得できるものを黙々と作り続けた。藍田に伝統工芸展の存在を教えてくれたのも岡巳の社長だった。新作を作って届けると社長が厳選し、藍田に内緒で伝統工芸展に出してくれたのだ。入選した時はとても嬉しかった。そしてそれ以上に嬉しかったのは藍田の反物を沢山の人が見てくれ、意見や批評をしてくれた事だった。これが大きな励みになった。

伊勢型紙縞彫の人間国宝 児玉博氏との出会い

ある程度仕事が続き周りを見回せるようになった時、藍田はふと伊勢型紙の腕の良い職人が減りつつあることに気づいた。これは小紋師にとって致命的だった。急いで自分の希望する型を彫ってくれる職人探しに伊勢に出掛けたが、誰も取り合ってくれない。特に藍田がほれ込んだ縞彫の人間国宝、児玉さんには相手にもされなかった。何度目かの訪問で「そんなに俺の型紙が欲しいのか。これならやるわ! 」と一枚の型紙をくれた。藍田は直ぐに高崎に戻ってこの型紙で一反の白生地を一週間で染め持って行った。これには児玉さんが驚いた。そして藍田の腕に惚れ込んだ。「いい仕事をする。どんな型紙が欲しいんじゃ」と。これが縁で藍田は児玉さんが亡くなるまで型を彫って貰った。今も工房には児玉さんの型紙が大切に保管されている。

江戸小紋を後世に残すために

藍田正雄さん 江戸小紋を後世に残すために
藍田は江戸小紋を後世に残すために資料の収集も欠かしていない。児玉さんが亡くなったとき身内の方に頼んで残っていた型紙を譲ってもらった。また「岡巳」がなくなる時、収集していた裃八十点、江戸時代の打掛なども譲り受けた。藍田は言う。「私は職人ですから技術を次の時代に伝えていかなければならない。一方で現代に合う工夫もしていかなければならない。それにはまず昔の技術がどんなものだったのか基礎を知ることが必要です。それを伝える人がどんどん居なくなっている。だから借金してでも自分が見本帳みたいなものを作っておきたい。

自分の欲や名誉ばかりを追っていてはならない。次の世代を育てていくことが『日本の染織の道』だと思うんです。今、私の元には四人の弟子がいます。この中から私の後を継ぐ者が出てきます。その弟子達にすべてを託したい。だから今頑張るんです。」

プラチナボーイと出会って

昨年、藍田は泉二が生み出したプラチナボーイを初めて染め、白生地の質、染料の染み具合、糊の置き具合に驚愕し惚れた。職人としての血が久しぶりに騒いだと言う。今年の二月には一か月以上掛けて日が落ちてから夜明けまで一人板場に入り黙々と糊を置き、染を繰り返し、藍田独自のそして藍田にしか生み出せない江戸小紋を作り上げた。そして今、藍田自身が春繭から生まれたプラチナボーイの白生地を染めるのを楽しみに待っている。「プラチナボーイの白生地は本当に良い。泉二さんのお蔭で私の小紋師人生で最後の大きな課題が出来たような気がします。
小紋師・藍田正雄さん 作品

親父が引退した年を超えてもやってみたい。大好きな毛万筋を限りなく染め込むことにチャレンジしてみたい。また新しいデザインの型紙を手配して今までに無いものを作ってみたい。時間が掛かるが掛けたら掛けただけ良い物が出来ると思う。待っていてくれますか? 」
藍田正雄さんが心を込めて作り上げた江戸小紋が銀座もとじに揃います。男性も女性も……是非この機会に藍田さんが半世紀に亘って積み上げてきた技術の結晶を手にとってごらんください。 藍田さんの心が貴方にもきっと届くはずです。