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Colours of Japan - 色彩古道~吉岡幸雄 古稀記念展~|和織物語

著者:田中敦子(工芸ライター)

今、日本の色を植物で染め上げる工房として、国内はもとより海外からも高い評価を得ている染司よしおかは、京都の南、伏見区にある。かつては伏水とも表された名水の地で、酒どころでもある。 最寄りの駅は、京阪宇治線の観月橋だ。ゆかしいこの名前、もともとは豊臣秀吉の命で架けた豊後橋が、月見の名所となり、通り名になったという。宇治川に沿った駅の改札を抜け、橋のたもとに出ると、川を見渡すことができる。うららかな青空、緩やかな川の流れ。土手の緑に黄色い蒲公英や菜花が色を添える。 橋を渡り、川沿いを歩いて、向島小学校の手前で土手を下る。 以前、タクシーで訪ねたとき「こういう風情の町家は貴重になりましたなあ」と運転手さんがしみじみ語った、木造長屋が工房だ。生垣や庭木が建物を覆い隠すように繁っている。門扉の脇にある石を穿った手水は、清らかな水をたたえている。ふわっと薬湯のような匂いが運ばれてくる。染料を煮出しているのだろうか。

四大文明に通じる和の色

紫草の根っこで染める紫色。茜(あかね)の根っこからは赤。紅花の花弁の赤は華やかだ。刈安(かりやす)という芒に似た葉からは黄色。くちなしの実や柘榴の実の皮も黄色だ。タデ藍からはもちろん青。緑を作るなら、この青と黄色の染料を掛け合わせる。あたりを見渡すだけでも樹々の緑に満ちているのに、なぜか緑は植物単体からは染まらない。また、植物染料には、媒染剤という発色と定着を促す化学的な力が存在する。それぞれの植物の発色にふさわしい、決定版の媒染剤も存在する。たとえば、紫草の根っこ、紫根の場合は椿の灰。万葉集の中でも歌われ、十世紀に編纂された律令つまり法律の施行規則である『延喜式(えんぎしき)』にも技法が記されている。 「この匂いは、蘇芳(すおう)ですよ」と迎えてくれたのは、染司よしおか五代目当主・吉岡幸雄(さちお)さんだ。 蘇芳とは、赤を染める染料で、木の芯を使う。 「正倉院の宝物にも残っている古い染料なんです」 つまり奈良時代からあるということだ。しかも、「暑い国の植物で、日本では育たない木やね」。だから今も昔も変わりなく、海外から入手しているという。 日本の色を染める工房で、外国産の染料が使われていて、しかもそれは古い歴史を持っている。もちろん、ほとんどの染料は国内調達のものだが、それさえも、ルーツを辿れば国内に留まらない。紅花はエジプトが原産。柘榴はインド、というふうに。 ならば、日本の色とはいったい何なのだろう。 『日本の色辞典』『源氏物語の色辞典』『日本の色の十二カ月』など、日本の色にまつわる吉岡さんの著書には、紅梅色、香色(こういろ)、薄色など、美しい和名を持つ色が並ぶ。工房から生まれる染め布も、和らぎと透明感ある、まごうことなき日本の色だ。 「日本の色の歴史を遡れば、行き着くのは四大文明ですよ」 四大文明、つまりメソポタミア、エジプト、インダス、黄河。小さな島国の伝統色のルーツが、遠大な歴史の中にあるとはにわかには信じがたい。しかし、吉岡さんの色の考察は、そこが原点であり、揺るがない。地球全体の歴史の中から、日本の色を見ている。色と同時に、麻、木綿、絹という布の歴史も深く関わり、それぞれの土地の風土、支配者の思想、宗教などが色に影響を及ぼす。ユーラシア大陸全体に散在する植物や技法が、シルクロードや海洋を経て、日本に伝わり、そして、日本独自の発展を見せていく。吉岡さんのイメージには、遥けき〝色彩古道〟の姿が確かにあるのだ。

古法に従うという選択

家業を継いだとき、吉岡さんは40歳を過ぎていた。それまでは出版や広告の仕事に関わっていた。日本文化を理解する貴重な人材として重用され、33歳のときには『染織の美』という雑誌の編集長に。広く深く、染織の世界に入り込み、知識と人脈を広げた。 日本の美術館や寺社、古美術商、コレクター。大英博物館やメトロポリタン美術館など海外の名だたる美術館。エジプトのピラミッドやシルクロード、ペルーなどの発掘現場。夥しい数の染織品に触れ、古い裂のもつ奥深い魅力にはまっていった。 「じっくり見ていると、何かしら奥底に光るものがあるんです。恐ろしいほどの力やね」 現代の布とは比べものにならない高い技術と感性が、眼に焼きついた。そんな経験を重ねる途上で、父・吉岡常雄氏が亡くなり、いやおうなく家業を継ぐことになったとき、吉岡さんは三つのことを決断する。 工房規模の縮小、井戸を掘り直す、植物を見直す。これは、驚くべき脱近代化宣言であった。 「いいものを作るには、作りっぱなしにしないこと。手渡す相手の見える仕事をしようと考えました」 そのためには規模を小さくするしかなかった。 「染めは水質が肝心。伏見は名水の地ですが、井戸を掘り直して、染織に向く、鉄分の少ない井戸水を使うようにしました」 鉄分は色を濁らせる。吉岡さんは100メートルの深さを掘ることに決めた。俄然、水質がよくなった。 「合成染料をやめました。父は化学万能主義だったんです。だから化学を通して自然を理解するところがあったけれど、自分は植物に徹しようと決めました」 常雄氏は大学教授でもあり、化学から植物染めを見渡す人だった。その教えを受けた先代からの職人・福田伝士さんが、吉岡さんの決意を支えてくれた。 「今やっているうちの仕事は、土に還る化学なんですよ」 吉岡さんは、自工房の仕事を簡潔に言い切る。植物染めと化学は、相対する言葉に思える。けれどそれは、私たちが産業革命後の現代人であるからだ。 「ケミカルなものが生まれる前は、天然自然の中に化学があったんです。先人たちは、何度も実験しては失敗して、その末に失敗しない最良の方法に出合ったわけですよ」 土に還るとは、自然を害さないということだ。植物染めも、ケミカルな媒染剤では、土には戻せない。 「発色も違うんですよ。たとえば、紅花の媒染剤には稲藁の灰を使いますが、成分は炭酸カリウムと一緒なので代用できる。でも、発色のよさは藁灰やね」 便利な顆粒だしを使うのか、きちんと出汁を取るのか、という料理に置き換えれば、理解しやすいかもしれない。だから吉岡さんは、明治維新より前の文献に数多く当たり、確かな植物染めの方法を探り続けた。 「明治維新後は、化学薬品や機械が欧米からどっと流れ込みましたからね」 それでも、家業を継いだばかりの頃は、植物染めの作業が、関西流に言えば「辛気くさい」、つまり非効率なことに仰天し、機械化して合理的にできないかと考えもした。しかし、「結局は手が一番だったんです」と笑う。今も目の前で、ゆっくりと布を手操りながら染める作業が進められている。
吉岡幸雄作 2点とも 袋帯 正倉院宝物写 (左)緑地葡萄唐草文様錦、(右)茜藍菱形紋

吉岡幸雄作 2点とも 袋帯 正倉院宝物写 (左)緑地葡萄唐草文様錦、(右)茜藍菱形紋

一筋の道でつながる日本の色

糸や布を鮮やかに染め上げる手法は、仏教伝来とともに大陸から渡ってきた高度な技術のひとつだった。 「色の名前は、染めの原料=色名がほとんどでした」 日本の色名の大きな発展は、平安時代の王朝文化のなかでだった。 「四季折々の自然の色の微差を、色名にしていくんですよ。王朝貴族の教養が日本人独特の色名を生み出していったんです」 紅梅色は、梅で染めるわけではないし、若竹色も竹で染める色ではない。近い色の染料で工夫して、自然のなかにある美しい色彩を写す。色と色を重ねて季節や植物を表現し、装いを凝らす〝襲(かさね)の色目〟も登場、そのセンスと教養が殿上人の恋愛には不可欠となった。 次に武士の世になれば、質実で武勇を誇る人達にふさわしい色名が生まれる。 「焦げ茶に近い褐色(かちいろ)は勝つに通じることから、好まれた色ですよ」 また、町人が実質的な力を持てば、町人好みの色が生まれでる。江戸時代は、四十八茶百鼠という表現があるほど、茶色や鼠色の色名が広がった。 「時代時代の主役が、新たな色と色名を生み出して、日本の色を豊かに広げたんです」 さらに、色の文化を育んだ背景には、日本の歴史が断絶することなく繋がっていることも大きいという。 「豊かな四季の景色と湿潤な気候が生んだ色彩が、千年以上の時間をかけて育まれてきたことは、他の国にはないことかもしれないですね」 それゆえ、日本の色は世界にアピールできるのだろう。 しかし、肝心の私たち日本人がその美しい色に無頓着になっているかもしれない。だからこそ、吉岡さんは私たちに、自然からいただいた色の美しさと、色を育んできた豊かな文化について、倦むことなく語りかける。 家業を継いで以来、東大寺修二会(しゅにえ)や石清水八幡宮のつくり花の染め紙など、伝統行事を支え続けるだけでなく、正倉院や法隆寺の古裂をジャカード機以前の空引機で復元する大プロジェクトや、源氏物語に登場する襲の色目の再現など、知識や解釈力はもとより、気力、体力、資力が必要な難題に取り組み、前人未到の成果を出してきた。染織史家として精力的に執筆し、数多くの著書も出版した。その功績により、2010年には菊池寛賞、2012年にはNHK放送文化賞を受賞している。 が、直後、重なる無理がたたって吉岡さんは病に倒れた。だれもが工房の存続を心配したが、その一大事のとき、立派に代役を果したのが三女の更紗さんだった。厄転じて、とは失礼な謂(いい)かもしれないが、染司よしおかの後継者として、更紗さんの覚悟が定まるタイミングとなった。養蚕の里として知られる愛媛県の野村町で養蚕、染色、織りを学んだ更紗さんは、工房の新しい風として期待されている。 家族や友人に支えられ、吉岡さんの病は無事完治した。今は、以前よりも精力的に仕事をこなしている印象すらある。そしてこの4月、吉岡さんは古稀を迎えた。来し方を振り返れば、倒木や蔦がはびこる忘れ去られた古道を切り開き、一歩一歩進むような年月だったことだろう。いや、まだ最中かもしれない。 実は20年前、銀座もとじの泉二弘明社長は吉岡さんの誘いで、後に更紗さんが修業することになる野村町に赴いている。そこで優れた絹糸を目にし、「いつの日か糸作りから始める!」と決意したという。そして後に、プラチナボーイという雄だけの蚕種と出合うことになる。今回、布海苔を使う古来の〝壺糊〟による縮緬地のプラチナボーイを染司よしおかに託すことになった。ぜひ多くの人に目撃していただきたい夢の結晶である。 世界を俯瞰し、その上で日本の色を尊ぶ豊穣な色彩世界は、これからさらに重要性を増していくにちがいない。世界が、時代が、染司よしおかの仕事の真価を、驚きをもって迎えるのだ。

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