大島紬盛衰の歴史~文献を紐解き神代の時代から現代まで~|和織物語

大島紬盛衰の歴史~文献を紐解き神代の時代から現代まで~|和織物語

「大島紬の起源」

古い文献を紐解くと奄美大島で、紬が作られるようになったのは、神代の時代からと言われています。

そのころ神のように崇められていた「阿麻弥姑」が、毎日珍絹で頭を覆っていたのを見た島の女性達が、その人を慕い少しでも近づきたいと願って「珍絹や珍首」を使用したのが起源とされています。

大正時代の大島紬絣模様図案
大正時代の大島紬絣模様図案

その当時の織り方は「手紬」で「浮織りの花織」でした。別名「ヒレ」と言う名で大正末期頃まで使用され、徳之島、沖永良部島、与論島でも発見されています。これらは、今も資料として大切に保存されています。

「江戸時代の大島紬」

大正時代の 大島紬絣模様図案
大正時代の大島紬絣模様図案
奄美大島は亜熱帯性の気候で、昔から砂糖きびや夜光貝などが豊富に取れていました。特に夜光貝はその美しさが珍重され、高値で取引されていました。奄美大島の人々は、大陸と交易し、島の特産物と交換に様々な品物を手に入れ、豊かな生活を送っていました。また、島の北側では品質の良い糸芭蕉が沢山取れ、人々の生活着の殆どが芭蕉糸で作られていました。

その後、琉球王国が官吏を派遣して島を統治下に置き、そのまま官吏を移住させて、この豊かな島を直轄地にしてしまいました。

江戸時代に入ると大島紬の源流とも言うべきものが作られ始めます。江戸初期は、真綿から紡いだ手紬糸を植物染料で染め、地機じばたで織る無地または縞柄で、絣柄はまだ無かったのです。

1609年には薩摩藩が、琉球王国と奄美大島の両島を攻略し支配下に置きました。特に、物産類が豊富だった奄美大島は、琉球王国から分離して薩摩藩直轄の蔵入地として管理されました。そして奄美大島で作られる紬が他では類を見ないほど高品質だったため、琉球紬と共に琉球国高として江戸幕府に報告されるようになってしまいました。

そのため当時の奄美大島の紬は「琉球紬」として扱われ、記録は一切残っていないのです。これを境にして奄美大島には厳しい税が課せられ、島民は圧政に苦しめられます。

1720年、奄美の五島に対して「絹布着用禁止令」が出されます。『島役以下、一般島民の絹着用を禁止した』この令を見ると、当時すでに島民が大島紬を絹糸で作り着用していた様子が分かります。

また、元禄元年(1688年)に井原西鶴が発表した「好色盛衰記」には、当時の遊客のいでたちを「黒羽二重に三付紋、紬の大島の長羽織」と記しているように、大島紬の中でも特に泥染めの大島紬が珍重されていたことが読み取れます。

「絹禁止令」と言う厳しい規制により、島民は衣食住のすべてが制限され、日常着は「からむし(苧麻)」「芭蕉」「木綿」のみの使用となり、染料は「椎」「ヤマモモ」「はぜ」その他さまざまな草木の染汁や泥に限られました。

それでも島民は統制下で手紡ぎの糸を使い、地機で織るという原始的な染織に心血を注ぎ、大島紬独特の織りを守っていったのです。

この頃、主に織られた文様は、「絣、縞、格子」などシンプルなものが多かったようです。当時から奄美大島の絣文様は、琉球独特の動植物の絵文様とは違い、小さな点絣文様が多くなっています。

「明治時代の大島紬、画期的な高機が生まれる」

1873年(明治6年)、奄美大島はようやく薩摩藩の支配から開放され、本格的に大島紬の生産が始まります。

1877年(明治10年)9月の「西南の役」終結以降、大島紬は鹿児島県を始め大阪などの市場に出され、初めて島民による商品取引が開始されました。そして1883年(明治16年)、大島紬の機織に画期的な変革が起こります。

大正時代の大島紬絣模様図案
大正時代の大島紬絣模様図案

それは昔から伝わっていた「地機じばた」を、『笠利村仲金久、赤木名の人、永江伊栄温(弘化元年生・当時40歳)氏』が効率のよい長機(現在の高機)に改善した事でありました。従来の地機は座り作業の上、全身の力を必要とし女性にとっては重労働でした。また慣れないと、機の引き方の加減で糸が切れたり、折り目が揃わなかったりと能率も悪く、色々と弊害がありました。そのため織り手も育たず、その結果、生産量の伸びにも繋がらず、需要があっても供給が追いつかないという悪循環をくり返していました。

永江氏は、名瀬に高機数台を備えた工場を開設して、織工を雇って大島紬の生産体制を整えました。余談ですが、綿薩摩の第一人者で武者小路実篤氏から銘を賜った永江明夫氏は、この方のお孫さんにあたります。

一方、紬の文様も従来の縞、格子などの幾何学的な柄から、花鳥の曲線文様を織り出す技法が考案されました。登山伊次郎氏(大正13年61歳で没。日本教図社長、登山俊彦氏の父)が苦心の末に、花鳥の絵の上に糊付けした絹糸を並べて墨で印をつけ、手括りで絣を作り、染色して花鳥の絵文様を織り出す技法を考案したのです。今で言う、「笠利赤木名地方の庸実柄」「龍郷地方の龍郷柄」が盛んに生産されたのはこの頃のことです。

大島紬が鹿児島や大阪の呉服問屋で本格的に取引されるようになったのは明治16年頃からです。奄美大島特産の車輪梅(テーチ木)の煮汁で糸を染め、泥染めを施すという伝統の染めと織りによって作られる大島紬は、高い評価を得て、評判は全国に広がりました。そのため手紡ぎでは生産が間に合わず、紬の原料糸は暫時、手紡ぎ糸から玉糸に変わっていきました。

名瀬に「大島紬同業組合」が結成されたのもこの頃です。需要の伸びにしたがって、粗悪品が出回るようになり、大島紬の真価が問われる事態が起こり始めたのです。

大阪で紬の販路拡張と品質改良に心血を注いでいた松元弥一郎氏は、この事態を憂慮し、同業組合を結成するために奔走しました。まず、奄美大島に戻り、紬の盛衰の歴史ならびに現況を、福山島司氏に説明して賛同を得、彼を紬同業組合の初代理事に立て、同業者を集め、製品の選別を厳重にし、品質向上に努めました。

しかし組合設立当時は、合格基準が余りにも厳しかったために組合に加入するものが少なく、折角の組合機能が活かされないという事態が続きました。しかし、初代理事の福山氏や松元氏など熱意ある人々の働きかけにより、徐々に加入者が増え、大島紬は本来の品質を保つ事が出来るようになりました。

「締機の出現」

地機(じばた)から高機(たかばた)に改良されたものの、肝心の絣括りは従来の手括りのままで進められていました。しかし手括りでは、能率が上がらず緻密な絣出しにも難点が生じていました。

明治34年ごろ、当時の先覚者であった重井小坊氏は織締めによる絣作りを研究し始めていましたが、明治40年に36歳で早逝したため、実用化には至りませんでした。この工房に出入りしていたのが、前述した「永江伊栄温」氏です。彼は明治40年に「普通締」と言う絣締加工法を完成させ、明治42年ごろに公開しました。これが現在行われている「絣作りの締機」です。この技術により精緻な絣模様の紬が生産できるようになり、大島紬の声価はますます高まって行きました。

「明治の柄と大正、昭和の柄」

明治時代の大島紬の柄は、現在ブームになりつつある「縞、格子、無地」が中心の泥染めでした。どちらかと言うと細かい柄、幾何学的な文様が多かったようです。

それが大正時代から昭和の初期にかけては、「大正モダニズム」の影響を受け、泥染めが中心だった大島紬にも色大島が増え、柄も大柄で大胆な花鳥風月が流行しました。

大正時代の大島紬絣模様図案
大正時代の大島紬絣模様図案

当時の図案が少し残っていますが、小柄な日本人のキモノ柄にしては、考えられないほど大柄な文様です。またその図面はとても精緻で「手作業で良くここまで作られた」と感心するほどです。

「昭和の大島」

第二次世界大戦の終戦を迎え、奄美大島全域は、昭和21年2月より昭和28年12月25日までアメリカの占領下に置かれます。占領下で紬の施設や販路を失った生産者の中には、鹿児島に渡り「大島紬」の生産を始める者もいました。この時から、それまで奄美大島で使用されていた日本の国旗をデザインした「旗印」が鹿児島産「大島紬」の商標として使われるようになりました。

一方、奄美大島に残った組合員は、父祖伝来の伝統を守りながら、紬復興に努力を重ねていましたが、占領下で原材料の調達が難しく、昭和25年の生産は681反にまで落ち込み、生産ストップという事態に直面しました。しかし、「大島紬の火を絶やしたくない」という生産者の熱意で、米軍政府を動かし、「ガリオア資金」を受け、原材料を本土より調達し、翌26年には2万3千反を生産するまでになりました。これを機に、奄美大島では「地球印」を商標として使用することになりました。

このような経緯を経て「奄美大島紬協同組合」は、昨年「設立100周年」を迎えました。奄美大島紬が今日まで品質を維持し続けてこられたのも、これら先人達の努力の賜物です。

明日の光を信じて、奄美大島紬は前進しつづけます。

〈参考文献〉
「本場奄美大島紬協同組合創立80周年記念誌」
本場奄美大島紬協同組合編 昭和56年発行
「奄美染織史」茂野幽考
奄美文化研究所 昭和48年発行