桝屋高尾 – 高尾弘から朱子への継承の旅展|和織物語

桝屋高尾 - 高尾弘から朱子への継承の旅展|和織物語

今月のぎゃらりー泉は、京都で織物業を営む「桝屋高尾(ますやたかお)」当主、高尾弘氏そして現在跡継ぎの道を歩み始めた娘、朱子さんとの親子展を行います。

高尾弘氏は1978年に名古屋の徳川美術館から難解な「無地ねん金裂(むじねんきんれつ)」の復元を依頼され、それをやり遂げ、その後はその技術を発展させ、彩ねん金(いろねんきん)、ねん金綴錦(つづれにしき)として帯地を考案しました。また、40余年に亘り世界中を旅し織りのルーツを探り、世界の民族衣装となる裂(れつ)や、装飾用の布などを独自の美意識によりアレンジし、シルクロードを中心とした世界の五代文明を意図した作品作りをしてきました。

弘氏は言います。「私は美しい布、キレを大切にしています。“世界の織物を創作る(つくる)”というのが私の信念です。帯や着物という形だけでなく、その使い方から離れても美しいと言われるものを創りたい。例えば、古代インドのサリーを用いて日本の陣羽織を作るというような、どんな形に転用されても素晴らしいと感じてもらえる裂を創りたい。それが生涯かけての私の仕事です。」

今回は父から子へと引き継がれていく「桝屋高尾」のエッセンスを凝縮した作品と、弘氏自身が実地検分して得た五代文明を表現した作品、そして娘が父の生き様から感じ取ったインドへの思いで作り上げた作品を一堂に会します。すでに材料面などの諸事情で再度作るのは難しいと言うものもあります。弘氏が生涯を掛けて製作してきた正倉院から中国、中国から中東、そして南米まで広がっていく織の道、そのエキゾチックなエッセンスを含んだ作品の数々をぜひご覧ください。
桝屋高尾 作品

高尾弘氏とは

まずは高尾弘氏についてご紹介します。1935年3月11日に京都の西陣に生まれました。父親は戦前から織屋をしていましたが、第二次世界大戦の激化にともない生家は、政府政策の一環として強制撤去されるという憂き目に逢い、一家は疎開、やがて終戦を迎えました。

父親はその後直ぐに他界、17歳で跡を継ぎ、伯父である高尾菊次郎氏の援助を受けて家を切り盛りしていきました。10円でも稼ぎたい時に伯父は「弘、博物館へ毎日行け」と言います。伯父の真の意味が分からないながらも博物館へ毎日30円を持って出かけ、何度も同じ展示物を見て歩く生活を始めました。そのうちに不思議と自分の中に「これは良いな」と言う美意識が芽生えてきたのです。

今振り返って「美しいものを見てそれを美しいと感じる感性の基礎」を伯父は美術館巡りから体得させてくれたのだと感謝する日々を送っています。 高尾家は西陣でも特殊な高級織物を作る織屋、かわり物屋と呼ばれる地盤がありました。やがて、「桝屋高尾」を設立。意匠作りから機織(はたおり)装置の設置にいたるまで総べて自ら手掛け、独自性の強い織屋を作り上げました。

ねん金の再現から高尾弘のねん金綴錦

弘氏は、伯父の「高尾菊次郎」氏をはじめ、陶芸の「河井寛次郎」氏。「浜田庄司」氏、「近藤悠三」氏、木工芸の「黒田辰秋」氏などの薫陶(くんとう)を受け、「柳宗悦」氏の民藝運動にも傾倒し、芸術や学問に対しても造詣を深めていきました。

そして名物裂の復元、正倉院の織物の研究などの実績を買われ、ある日名古屋の徳川美術館から、「尾張徳川家伝来の金袱紗(きんふくさ)」の複製依頼が舞い込みました。明時代のものとされ、おそらく徳川家康から尾張徳川家に引き継がれた由緒深い品々のひとつであろうと推測されました。

そして中でも特に珍品とされたのがこの「無地ねん金の袱紗」」でした。全面が黄金色(こんじきいろ)に輝いていて絢爛(けんらん)たる印象であるにもかかわらず、織の全面にたくさんの不規則な凹凸があり、その為に燦然(れきぜん)たる輝きに無数の陰影が作られ、裂全体がしっとりとした落ち着きと奥行きを持っていました。また手に取ると麻のようにシャキッと、さっぱりした感じがあり、黄金色から連想されるずっしりとした重さとは無縁のものでした。

俄然自分の美意識が刺激され、一も二も無く引き受けました。このとき依頼された「織物を分解せずに復元する」方法は、実際に実物に触れるのは一回、「手袋をはめ、マスクを懸け、眼鏡で覗く」、と言うことしか許されず「自分の美意識と経験」が頼りの織の経験を積んだ人でも容易には出来ない仕事でした。

桝屋高尾 作品
弘氏の考えでは、経糸(たていと)は植物性の繊維。麻か芭蕉(ばしょう)、藤蔓(ふじづる)の皮といった植物の長繊維。緯糸(よこいと)は真綿のような絹の繊維に金箔を手撚り(てより)で巻きつけている。ここまで分析した後、製作の過程でまず織のルーツを探りました。これは初期の李朝の宮廷工房か? 中国南部か? カスピ海近辺か? みずから中国、中東、南米まで織の現場を訪ね周り技法を習得していきます。

が、どこを廻ってもあの金袱紗のような種類の織は見つかりません。復元依頼の袱紗の緯糸は糸の太さは均一ではなく織りの過程で芯糸の色が覗いている不思議な織物でした。緯糸がねん金の最も大きな特徴であると気づいた弘氏は、真綿の不揃いの糸に細かい金箔をラセン状に巻いていく技法を研究開発し、真綿の自然呼吸のような糸の太さの違いを活かした「無地ねん金」を確立、徳川家の織物の復元に至ったのです。

その後は、「この素晴らしい技術を後の世にも残したい。民藝運動の考えから“用の美”、つまり締めても良し、使って良し、デザインも良いものとして残したい」と緯糸の芯を色糸にした彩ねん金、ねん金綴錦を開発。意匠登録し、自身の特許出願という偉業まで成し遂げました。 弘氏が作るこのねん金綴錦は大変細かい技術を必要とします。表に金糸が強調される織物と違い、織の目の中から垣間見えてくる金糸のため、大変上品で趣のある織物となり、弘氏が目標とした「用の美」を叶えるものとして着物愛好家の人々に支持されています。

名物裂に惚れ込んだのは

もうひとつ弘氏が大切に見聞しているのは「名物裂」です。茶の湯の発達に伴い、書画、茶器の名物と言われるものに付随して珍重された一群の染織品です。大半が渡来品で“茶人の選択を経た秀品”だけが残されています。種類は金襴(きんらん)、銀襴(ぎんらん)、緞子(どんす)、間道、モール、印金(いんきん)、金紗(きんしゃ)などなど400点に近く古くは足利義満の頃、新しいもので江戸中期のものといわれています。

これらが今も美しいと思い魅かれる所以は「茶人の選択を経た秀品」と言うところにあると弘氏は言います。いつの世にも通じる美というものは、それなりの物を観た茶人の美意識というフィルターを通して選別されているから長く愛されるのだと。だからこそ素晴らしいと言われ、例えれば、画家が古画のデッサンをするように、織に携わる人間にとってはこれらの裂を復元しよう、再現しようという思いが生まれてくるのだと言います。

シルクロードを辿って五代文明をテーマとした作品作りへ

織のすべてを見て勉強し再現してきた作品作りの中で、次第に弘氏の中にはそのすべての原点に還ってみたいと言う欲求が生まれてきました。そして一念発起して、40年の集大成として自らシルクロードを歩き、五代文明(中国文明、アンデス文明、メソポタミア文明、インダス文明、エジプト文明)をテーマにした作品を数年の歳月をかけて作り上げました。

それぞれの文明ごとにテーマを掲げて作られた作品の数々は、今までの弘氏の技術をすべて集約しその文明ごとの特徴を活かしたほかでは見られない作品として出来上がっています。

高尾弘から作家として歩き出した娘朱子へ受け継がれるもの

弘氏は17歳にして引き継いだ家業を自らの研鑽で確かな技術修得を果たし、一方では研究の成果で独自のテーマを描く作品として仕上げてきました。70歳を過ぎた今日でも絶えず研究を続け、昨年も娘朱子さんとインドへの研修の旅に出掛けています。

3人姉妹の末っ子で最初は家業を継ぐ予定ではなかった朱子さんですが、一度社会に出て様々な経験を積み、再び家に戻って家業を女性なりの視点で受け継いでいくことに決めました。

桝屋高尾 作品

小さい頃から両親と一緒に休みの日は美術館に出掛けていた朱子さんも自然と「美意識」が身についていたと今振り返って思うそうです。
父、弘氏は言います。「西陣には100年以上続いた機屋は非常に少ないです。織屋は三代は続かないのが常でした。桝屋高尾は、織物の文化性を何かに利用できたらいいなと思って私自身がここまで続けてきました。『美しい布』はたとえ用途を替えられても美しいと言われます。転用されてもどこの世界でも通用する『美』を作ることが私の信条でしたから、朱子にもその道を極めていってもらえたら嬉しいですね。但し、織屋のオヤジは、大工の棟梁でありながら、アーティストでも無ければならない。厳しい世界です。朱子はまだこの世界で10年あまり。まだまだです。美意識は確かにあると思います。「運、根、鈍」という言葉にもあるように、鈍は鈍なりに一生の仕事としてやってくれたらと思っています。」と。
朱子さんの修行はまだまだ続きます。

高尾弘氏 娘朱子さん
「用の美」を追求し続けてきた高尾弘氏。そしてそれを次の世代に継いで行こうとする娘朱子さん。「締めて良し」「使って良し」「デザインも良し」をモットーに他では作れないものを作り続けてきた集大成の作品をぜひご覧ください。