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織の構造美を創造する 北村武資の世界 - 北村武資|和織物語

著者:外舘和子(多摩美術大学教授)

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北村武資は1995年「羅」の技法において、さらに2000年には「経錦」の技法において重要無形文化財保持者、いわゆる人間国宝に認定されている。今日、我々は、日本伝統工芸展や日本伝統工芸染織展、あるいは日本伝統工芸近畿展などで、この作家の羅や経錦の作品を観ることができる。その精緻で破綻のない織り組織、洗練された色彩は、品格をたたえ、雅な作品として深い説得力をもつ。まさに重要無形文化財保持者らしい織物である。 しかし、誤解を恐れずに言えば、北村武資は、単に「羅と経錦の人間国宝」ではない。それらの高度な技術を精力的に探求し、復元や再現、発展に貢献してきた作家には違いないが、北村を「羅と経錦の作家」という紹介で済ませるわけにはいかない。 むしろ、羅も経錦も一技法として相対化し、それらを含め、織物を広くグローバルに捉えて取り組んできたことで、今日の染織作家・北村武資が存在するのではあるまいか。 「織物の名称は沢山あります。紬だとか綴だとか、金襴や唐織など。技術として独立してるかのようですけど、織物は、基本は一緒。どう機をコントロールするかというだけで、全部一緒。羅も経錦も僕の仕事の一部です」(註1)。 日本の染織表現には、文字通り、染物と織物があり、織物の基本四原組織といわれるものには、平織・綾織・繻子織・綟織がある。しかし織の呼称は違ったとしても、それらは全て、経糸と緯糸とがどのような間合いやリズムで交差し、絡むのか、経糸と緯糸の〝関係〟を示すものである。その〝関係〟の構築が、結果として織物の模様を生み、布の厚みや風合いを生み出していく。換言すれば、経糸と緯糸で、どのような組織、構造を構築するかということが、〝織る〟という行為なのである。 だとすれば、前述の北村の言葉は、いわば織の本質を捉えたものといってよいだろう。そこには、あらゆる織物をファイバー・ストラクチャー、つまり繊維の構造体として捉える、北村の根源的な織物観がうかがわれる。一枚の帛(註2)を〝組織〟として把握するミクロの視線をもつと同時に、さまざまな技法による織物を総体として掌握するマクロの思考が存在するのである。それは北村が60年余りの制作の中で培った本質的かつ俯瞰的な織物観である。では、北村のそうした織物に対する考え方はどのように形成され、制作とどのように関係するのであろうか。

註1 筆者による作家への取材、於京都・北村武資工房2014年6月4日。以下、本文中の作家の言葉はこれによる。 註2 「布」は近世以後、繊維の材質に関わらず織物の総称を意味するようになったが、かつては植物繊維で作られた物を指し、絹織物や毛織物は含まれなかった。北村自身は現在も自作を麻や木綿と区別する意味で「布」ではなく「帛」と記している。

西陣で織の世界に

北村武資作 経錦着尺「長亀甲」 北村武資作 経錦着尺「長亀甲」
北村武資は1935年、京都市下京区五条に生まれた。表具師であった父親を早くに亡くし、遠戚が西陣で機仕事をしていた関係で、北村は1951年、15歳で織物の見習い工として西陣で働き始めている。周知のように、西陣は日本を代表する織物の産地である。西陣で織れないものはない、と言われるほどに、あらゆる織物技術の歴史的蓄積も最新の情報もある。この地で、北村は糸を巻き、機を一台、一台、機織り職人たちのためにセッティングすることから仕事を始めた。 1959年には業界をリードする織物メーカーの一つ「龍村織物」へ入社。
龍村の職人たちの中には、熟練の技術を持つだけでなく、織物に対する作家的な目線を持つ者もいたという。北村も、そうした人物と会話する中で、織に対する主体的な姿勢を徐々に身につけていったものと思われる。 つまり、北村は幸運にも、織物産業の最有力地域西陣で、織りの技術をゼロから一つ一つ体得していく中で、〝織物とは何か〟を掴んでいったのである。

創作への目覚めと素材感の探求 ― 千変万化の「変わり織」

1960年、北村は装束や法衣の注文を受けるようになり、北区紫野に小さな機場を借りて独立する。約束事の多い装束や法衣の仕事をしながら、自分の色や模様で仕事をしたいと考えるようになった。1963年には、後の重要無形文化財「友禅」保持者・森口華弘が主宰する染織作家の研究会に、友人に誘われて参加。ここで〝創作〟という概念を自身の内に築いていく。 その頃、まだ創立して10年ほどの日本伝統工芸展は、今以上に熱気があったという。1965年、北村は伝統工芸第二回日本染織展に初出品した《菱重市松文様帯》で日本工芸会会長賞を受賞、同じ年の第十二回日本伝統工芸展にも《名古屋帯 厳流》で入選している。それらの展覧会に出品した理由は「日本工芸会が創作を志す作家集団であることを知ったから」。この作家が早々に強く作家意識を獲得していたことが窺われるのである。 1968年には第十五回日本伝統工芸展で《帯 漣》がNHK会長賞を受賞。この作品に代表されるように、北村の織文様は、確かな織の規則性や秩序を保ちながらも、しばしば有機的と言っても良い模様のうねりや、豊かな奥行きを伴い、 一種幻想的なまでの深い〝空間〟として認識される。 当時、日本工芸会の染織にも、木竹工や漆芸部門などにみられるような〝素材感〟が求められたという。1960年代の北村の「変わり織」と呼ばれるオリジナリティ溢れる織物には、糸と糸とが織り成すダイナミックな結びつき、その連続性によって生まれる素材感が生き生きと感じられる。「糸の太さが変わるだけでも、違う織物になります」と北村が言うように、素材としての糸選びに対する厳しい視線も、そうした織の創作性に関係していよう。 「布は薄くとも立体である」(註3)ということを、この作家の織物はその初期からはっきりと示してきたのである。
註3 外舘和子「構造としてのかたちとイズムとしての実材表現、あるいは日本的造形史観」『素材×技術からフォルムへ ― 布と金属』茨城県つくば美術館、2007年、11頁。

羅の復元から「透文羅(とうもんら)」へ

経糸と緯糸を自在に操る北村の創作姿勢は、早くも1960年代末には、櫛状の筬(註4)の発案なども含め、羅に通ずる織への布石を示している。伝統工芸第十回日本染織展に出品された《帯 夕涼み》はそれにあたる。奇しくも1972年、中国・長沙漢墓写真展で羅を見つけ、その感動も消えぬ間に、事実上1年で織り上げた《織帯 羅》が、翌秋の第二十回日本伝統工芸展に入選したのであった。 羅は、紀元前にさかのぼる前漢時代の中国に出土例があり、日本では七世紀の刺繍作品の下地裂や正倉院の染織品に見られるが、中世以降衰微し、近代になって復元された綟織の一種である。
北村武資作 上 経錦袋帯「六稜華文」 下 煌彩錦袋帯「重ね松菱」 北村武資作
上 経錦袋帯「六稜華文」
下 煌彩錦袋帯「重ね松菱」
紗(しゃ)や絽(ろ)などと同様、薄く繊細な軽やかさを特徴とする。全ての経糸が緯糸を介して綟れあいながら、地と文様を築いていくことを基本とし、組織としては、綟織の内でも最も複雑な織物である。しかしその複雑な綟れによって、布に美しい〝隙間〟が生まれ、軽やかな文様を生み出すのである。 昭和に入って羅の復元に取り組んだ喜多川平朗が、1956年にこの技法で重要無形文化財保持者に認定され、また佐々木信三郎の羅に関する研究も大きな蓄積となっていたが、何より布の構造を織りの経験から解析する北村自身の意欲が、この作家の確かな成果を生み出したものといえるであろう。 注目すべきは、北村はその高度な技術を理由に再現のみで満足することはなかったという点である。前述の第二十回展に、復元的な羅の帯だけでなく、《織帯 結》という変わり織風の帯とともに2点出品しているのは、北村があくまでも日本伝統工芸展を創作の発表の場として捉えているからであろう。その姿勢は、とりわけ「透文羅」として90年代に開花する。それは、独自のリズムを刻む透かし文様が有機的な糸の力を引き出したシリーズであり、〝現代の羅〟を見事に示したのであった。
註4 筬(おさ)は、織物の幅、経糸の配列、密度を定め、製織の時に緯糸を織前まで打ち寄せ、経糸と緯糸が交錯したものをしっかりと組織させる道具。

経錦(たてにしき) ― 隙のない文様構成と厳選された色彩

経錦もまた北村武資の世界の重要な一角を形成している。 中国では漢代に発達し、日本では古墳時代の出土例が報告されているが、本格的には飛鳥時代以降のことである。経錦は複数(基本は3色)の経糸を一組として、その浮き沈みで文様を表していく織物である。経糸が密になる経錦は制約が大きく、歴史の上では次第に衰退する。 しかし、一台の織機で4000本もの経糸を操る羅を既に手中のものとしていた作家は、経錦に対しても躊躇することなく旺盛な探求心を持って取り組んでいった。 1983年、第30回日本伝統工芸展には経錦の作品《亀甲花文経錦着物地》を発表。以後、北村の斬新で大胆な経錦の文様は、技法の制約を少しも感じさせることなく展開していく。文様の図と地とが絶妙の配置で展開し、柄の大きな部分と隙間や細部とが一部の隙も無駄もない完全なリズムで繰り返されるのである。 また、この作家の厳選された鮮やかな配色は、文様を、より明快に、格調高く見せている。従来、呉服の世界では、どのような色であれ、ともかく彩度を落とし、一段「地味」に抑えることが「着やすさ」であるかのように思われてきた。 しかし、北村は化学染料を積極的に採用し、明度、彩度の高い色も躊躇なく使用する。 「糸だけ取り出してみたら、相当強烈な色だと思います」。 しかし単独では一見派手な色糸が、織物という組織に入り込み、帛(ぬの)を構成する物質として発色することで、洗練された色調へと変容する。また文様構成に併置される色同士の関係や面積のバランスが、どの色も最適な役割を演ずるようになるのである。 明度も彩度も高い色彩が、微塵の下品さにも通俗性にも陥ることなく、むしろ典雅で華やかな品格を形成する。北村の織物マジックともいうべき色彩の世界の背後には、やはり〝織物とは何か〟を熟知した織物ならではの色彩感覚がある。染織の色彩が、いわゆる塗料の色とは異なる性質、効果を発揮することを北村は充分に認識しているのである。 今回3回目となる銀座もとじの個展には、帯の他、初めて10数点の経錦の着尺が一堂に並ぶ。いずれも、色数を絞りながら、その厳選された組み合わせによって、図と地が等価にして最大の文様効果を発揮している。そのバランスの確かさは、しばしば帛(ぬの)の裏側にも表れており、一つの着尺をリバーシブルで楽しむことさえできるのである。

格調高きアヴァンギャルドの絹織物

北村武資作 経錦着尺「花連珠」 北村武資作 経錦着尺「花連珠」
北村は遅くとも1980年代以降、着尺や着物に仕立てたものではなく、積極的に幅広の織物を日本伝統工芸展に出品してきた。 織物の風合い、美しさや拡がりが、着物や帯、あるいは私たちの生活空間を建築レベルでも構成する要素になりうることを、北村の帛(ぬの)は語る。まず、美しい帛(ぬの)を創る。その美しさへの感動が帯になり、着物になりさまざまな形へと展開する。その原型としての織物が、日本伝統工芸展等に並ぶ北村の幅広の作品であろう。
北村武資は、織物を構造体として捉え、織の表現の根源に立ち向かうことで織物の創造性を示してきた作家である。それゆえに、色彩においても和装の通念にとらわれることなく、時に鮮やかな色も大胆に用いてきた。 その揺るぎない自信と確信は、それを身につける人々にも共有されるであろう。着た人が姿勢も立ち居振る舞いも自ずと変わってくるような着物や帯。身につけることで、どのような場でも毅然として微笑むことのできる織物。〝北村武資を着る〟ということは、常に染織の最前線に立って挑戦し続けてきたこの作家の格調高きアヴァンギャルドの精神を共有するということにほかならないのである。

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