釜我敏子~ひたむきな命の躍動を着物に託す~|和織物語

釜我敏子~ひたむきな命の躍動を着物に託す~|和織物語

ひたむきに生きる野の花。環境に順応しつつ、つつましく、でも自分を失わずたくましく生きていく野の花。その花の存在感と生命力の輝きを見ていると心底感動するという釜我さん。自分が感動したその野の花を、意匠化して、着物や帯という限られた空間の中に息づかせていく。
どんな小さな花にも生きている証があるように、着物や帯に染め込む型に、釜我さんは野の花が生きた証を丁寧に細かく彫り込めて行く。野の花がそこに息づいているかのようにデザインされ彫り込まれ、染め上げられた着物や帯は、釜我さんの手を通して、また新たな生命を注ぎ込まれ、その花の息遣いが聞こえてくるかのように、活き活きと着物や帯に生まれ変わる。
型作りから染めまで一人でやり遂げる釜我さん。作った着物を見ているとその年に自分になにがあり、どのように生きたかが見えてくるという。
だからこそ今は、出来るだけ良い環境に身を置き、自分の心が素直に感動できる状態を作っている。
野の花を見て心が突き動かされた時に初めて物づくりをするのが鉄則という。だから決して妥協で物を作ることはない。
限られた空間の中で作りだされる作品は、野の花の命の輝きが見え、人を魅きつけ、勇気づけ、わくわくドキドキさせる。
45年間の物づくりの結晶が揃います。ぜひご覧ください。

釜我敏子さんの歩み

1938年福岡県生まれ。1958年に福岡県立福岡高等学校を卒業し、就職します。1年半勤めた後、花嫁修業の日々を過ごしていた釜我さんはある日、母親の勧めでロウケツ染の教室に通う事となりました。初めて経験する物づくりは自分の性に合っていたようで、2年後には先生の助手を務めるまでになります。しかし、あくまで趣味の稽古事、助手と言ってもただの手伝いで、図案はすべて先生が作っていました。「自分ですべてを作ってみたい。」そう思い始めていた釜我さんにとって、この状態は中途半端で物足りないものでした。
絵羽「さわぐるみ」
絵羽「さわぐるみ」

1968年、佐賀県に出かけた折、偶然、故鈴田照次先生の型絵染の作品に出会います。限られた世界に無限に広がるかのような型絵染の美しさは、釜我さんを一気に魅了しました。すぐに佐賀大学へ向かい鈴田先生の指導を受けたいと願いますが、非常勤講師は務めていたものの、弟子も聴講生も受付けていません。なんとかして鈴田先生に型絵染を習いたいと、伝手を探し、鈴田先生の教えを受けた人に型絵染のいろはを習いました。
デザインの基礎は佐賀大学名誉教授の故城秀男先生の研究会に聴講生として通い学びました。
その後はすべて独学で習得し、1970年に初めて第5回西部伝統工芸展に出展し、見事入選します。

松原四兄弟に型絵染の基礎を学ぶ

型絵染を学んだとは言え、ほんの数回、あとは独学だった釜我さんの技術ではまだまだおぼつかない部分が多くありました。西部伝統工芸展に出展した時も「技術を磨かないとね」というアドバイスをもらい、どこかで基礎を学びたいという思いがいつもありました。「さてどこで学ぼう? 」と悩んでいた時、偶然会合で、二晩続けて隣席に座った人がいました。それが「長板中形の人間国宝 故松原定吉さんのご子息」でした。恐る恐る「習いに行きたいのですが」とお願いすると、快く「どうぞ」と許可が出ます。早速、福岡空港から羽田空港へと飛び、松原工房へ行きました。最初に「今まで通りにやってみて」と言われて、型に糊を置いたところ利男先生に「ええ? ! こうやっていたんですか? よくこれだけの型をこのやり方で付けてきましたね」とビックリされてしまいます。「型付け3年、糊8年、ヘラは9年でなりかねる」と江戸小紋の職人さん達が言うほど、糊置きは本当に難しく、また出来栄えを左右するとても大切なところです。当時の釜我さんは、見よう見真似で、型紙の上にどんと糊を載せ、それをヘラで付けていくという大雑把なやり方でした。2週間みっちり糊置きの指導を受けると、今までどうしても出来なかった部分が出来るようになり、分からなかったコツがどんどん見えてきます。
方法を習ったら福岡の自宅に帰って半年間毎日3反の糊置きの実習です。半年後、作り上げた着物を持ち、松原工房へ向かいます。出来上がった反物で、糊置きの悪い点の指摘を受け、再度糊置きの実習、その後は型の付け方を習いました。こうやって改めて型絵染のやり方を順々に習い、習っては自宅に帰って半年間実習、そしてまた2週間習いに行くという生活を繰り返し続けました。
松原家の四人の先生はいつも温かく迎え、そしてすべての技術を包み隠さず教えてくれました。
今、自分が教える立場になり、改めて松原家の先生方の偉大さを感じ、心から感謝しています。

母の想いが後押し

上段: 糊置き型付けをする釜我さん 下段: 左/ 彫っている途中の型紙 右/ デザイン画と図案
上段: 糊置き型付けをする釜我さん
下段: 左/ 彫っている途中の型紙
右/ デザイン画と図案
技術が身についてきたこの頃の釜我さんはまだ専業主婦、当然家庭を優先させる事が求められました。自分の物づくりは、家事が終わった後、リビングの片隅で細々と始める日々。「仕事場が欲しいなあ」「せめて型を付けるための広い場所が欲しい」そんな思いで毎日を暮らしていました。ある日、釜我さんのもとを母が訪れます。そして突然こんなことを言い出したのです。

「敏子ちゃん、あなた本当は仕事場が欲しいんでしょ」唐突な質問でしたが、釜我さんの心の底を見抜いたものでした。ためらいながらも思わず「うん」と頷いた彼女に母は続けます。「今のあなたは専業主婦、旦那様の稼ぎで自分の趣味の仕事場を作るわけにはいかないでしょ。お母さんあなたに何か感じるの。何も残してあげられないからせめて仕事場を作ることの援助をしましょうね。」これには釜我さん自身がビックリしました。
夫を早くに亡くし、女手一つで商売を切り盛りしながら4人兄妹を育て上げた母の苦労はずっと見ていました。とても甘えるわけにはいきません。「お母さん、大丈夫よ。いつか仕事として出来るようになったら自分で作るから。それに私にはそんな才能ないかもしれないし」と辞す釜我さんに母はさらに尋ねます。「敏子ちゃん、いつかと言っていたらその日は来ないわ。あなたは、本当はどうしたいの? 家庭の主婦だけでいたいの? 違うでしょ。あなたなら家庭と仕事の両立が絶対に出来るはずよ。お母さんはそう信じてる。だから、人生、悔いの無いように精一杯やってみなさいよ。」これには思わず涙がこぼれました。
この母の言葉に背中を押され、仕事場作りが始まりました。家の隅に2階に上がる階段が作られ、反物が半分ほど広げられる細長い部屋が出来上がっていきます。嬉しい反面、仕事場が出来るに従い「本当に良かったのだろうか」という気持ちが募ります。仕事場が出来上がると、今度は仕事場に入っただけで「大変な事をしてしまったのではないだろうか。私は一人前になれるのだろうか? 」という不安な思いで胸が詰まります。
それを振り払い「中央に出よう。一人前なりたい。」という願いを込め、作品作りに励み、1976年に第23回日本伝統工芸展に初出展し、見事入選を果たしました。
「来年も絶対に日本伝統工芸展に出そう。出すからには連続入選したい。」そう決心して仕事にかかりだした矢先、気丈だった母が倒れ「余命3か月」と診断されました。ここから敏子さんの本当の戦いが始まりました。母の看病に通いながら「母への恩返し! 絶対に今度も日本伝統工芸展に出す。そして必ず入選する。進む先が見える、母が安心する娘になるんだ」
それを日々呪文のように唱え、自分の作品づくりに精魂込めて励みます。
必死で作り上げたこの時の作品名は「ねむの花」。1977年第24回日本伝統工芸展にこの作品を出展し、2度目の入選を果たしました。入選結果の連絡が来たとき、母は明日をも知れぬ身。それでも気丈な母は「私はまだ死にやせんから、東京へ行って来なさい」と娘の背中を押しました。釜我さんは日帰りで上京。会場で図録だけもらって飛ぶように帰ると、母は言葉通り、笑顔で待っていました。図録を見せながら会場での色々な話をした2週間後、母は他界しました。母の枕元には図録が大切に置いてあり、作品の掲載されたページには母の字で書かれた「しおり」が挟まっていました。

連続出展で連続入選を果たす

母を見送ってから3年。必死で型絵染の作品を作り、出展する日々が続きます。次の目標は「日本工芸会の正会員」になること。4回入選すれば正会員として認められます。23回から27回まで「鷺草」「ねむの花」「たんぽぽ」「からす麦」「ぺんぺん草」と野の花を題材に作品を作り続け、必死で出展していきました。1979年第26回工芸展に出展した「からす麦」で念願の日本工芸会正会員に認定され、結果5年連続入選を果たしました。
左: 九寸染帯「小歯朶文」 右: 九寸染帯「あざみとからす麦」
左: 九寸染帯「小歯朶文」
右: 九寸染帯「あざみとからす麦」

大事にしていること

1. 生地はデザインの源、自分で選ぶ

デザインに合わせて染める生地を選びます。釜我さんにとって生地はデザインの源。生地と型の微妙な接点から生み出される表情を大切にしています。そのため、自分で見て触れて良いと思う生地はすべて買い求め、手元に置いておきます。デザインを作り型紙に彫りこみながら、このデザインに合う生地を頭に描きます。そのため、生地を事前に預かってそこに染めるということは一切しません。
銀座もとじの30周年の記念展で初めてプラチナボーイの白生地に染めていただきましたが、このような仕事を引き受けるのは異例中の異例だそうです。そして今回もプラチナボーイの白生地で帯を5点、着尺1点を作っていただいています。銀座もとじが目指している「国産の繭を大切にしさらに良質なものを作る」と言う信念に賛同していただき、プラチナの白生地も数点の中から釜我先生の目で選び作って頂きました。

2. 作風は野の花をイメージ化する

野の花が大好きで一日見ていても見飽きることはないと釜我さんはいいます。草花の造形の美しさにいつも魅かれ、お気に入りの野の花を見つけてはスケッチをしていきます。どんな小さな花にも生きている証があり、環境に順応しつつ、たくましくひたむきに生きていく。その誠実な姿に感動しスケッチに入ります。スケッチはデザインの基礎となるので、何度も何度も「捨て紙」に描き続けます。これにしようと決まると図案にしていきます。図案は墨絵で描き、この段階ではモノクロの世界で型の美しさを出すことに注力しています。

3. 着物の配色のイメージは、水彩画で絵羽に大きく描く

一方でその野の花から受けたイメージを、まずは縮小版の絵羽着物の用紙に水彩画で大きく色を入れていきます。
全体の色の配色を決めた後、それを個別に細分化し、型紙の置き方と一緒に個々の色を決めていきます。この工程を経て、釜我さん独自の野の花の生命力を表現している型絵染の世界が築き上げられます。

4. 型彫用の小刀や彫刻刀は自分で研ぐ

型紙は柿渋で固めた茶色い和紙でつくられ、そこに鋭く研いだ小刀で切り絵のように型を切り取って行きます。小刀は型紙に当てたら一気に引き、この切れ味が命になります。
型彫で使う刃はすべて自分自身で研ぎます。研ぐ頃合いは、型を彫る時の刃先の音の具合で分かり、常に3種類くらいの刃を使用しています。

5. 限られた世界に無限の可能性を表現する

型絵染は、型紙という限られた空間と着物というさらに限られた空間に無限の世界を作るものだと釜我さんは思っています。不自由に感じるこの世界で作り上げる一連の作品には、小さな野の花がひたすら懸命に生き続ける姿が描かれ、その命の尊さや趣があります。作った着物は、その時々に感じていた思いや感動が、はっきり見えると釜我さんはいいます。

これからの日々を

絵羽「はまえんどう」
絵羽「はまえんどう」
「妥協で物をつくると後悔する。心が動き感動した時に物づくりをする」と釜我さんはいいます。
どんな小さな草花でも瞬間、瞬間に命の輝きが見え、その光が自分の心に飛び込んで来た時、感動が生まれ、デザインや制作の一連の流れが一気に繋がり進んでいく。
松原先生のもとで学んだことでさらに技術に磨きがかかり、母のあと押しが大きな支えとなり、一途にひたすら走り続け、一主婦から作家へと研鑽した日々。

そして…今では、日本伝統工芸展には常に入選し続け、2007年には奨励賞も受賞しました。
今、釜我さんが作り上げた作品の完成度は、誰もが認め一目置くものとなりました。それでも常に日々勉強という意識は失っていません。
「私の周りでは物づくりで生きている人はいませんでした。あの時、母のひと押しがなかったら、今の自分はないかもしれません。」「子供の頃から野の花は母や家族と見てきました。特にタンポポが好きで、懸命に咲いたあと、綿毛に命を託して飛ばし、次の場所でまた可憐に咲く。どこに飛ばされようと新たな環境で一生懸命に命の光を放つたんぽぽのような野の花を、私はとても愛おしいと思うんです。だから、これからも野の花を染め込んでいくでしょう。」

釜我さんが作り出す型絵染の作品は、野の花のひたむきに生きる命の輝きが垣間見え、見る人を着る人を魅了し続けている。どんな環境にいても自分を損なわず、つつましく上品に意志を持って咲き続ける野の花。
もしかしたら、野の花こそが釜我さん自身なのかもしれない。
いつまでも強く、慎ましく…
野の花の力強さを永遠に着物に残して…

野の花のひたむきな命の輝きを息づかせる釜我さんの作品展を今回、銀座もとじで初めておこないます。
「伝統と創造」その担い手といっても過言でない釜我さんの型絵染の世界をぜひご覧ください。