「紅型」の人間国宝・玉那覇有公氏とご子息の有勝氏をお迎えしてぎゃらりートークを開催しました

銀座もとじでは、2012年6月21日(木)〜24日(日)まで、1996年「紅型」で重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定された玉那覇有公氏が、お客様の期待に応え、初めて弊社で個展を行いました。
玉那覇有公氏

玉那覇氏しか出来ない素晴らしい両面染めの絵羽、もう殆ど作られなくなった藍型の着尺4反、芭蕉布に紅型を染めた帯など普段見られない作品や、
銀座もとじプロデュースのプラチナボーイの白生地に染めていただく作品作りの依頼も特別に受けて下さり、玉那覇氏渾身の作品が揃っての見事な作品展となりました。

「紅型」の世界が必要とした出会い

人間国宝 琉球紅型 玉那覇有公展 ぎゃらりートーク
玉那覇有公氏は、昭和11年10月22日沖縄県石垣島に生まれ、学校卒業後は石垣島の鉄工所で働いていました。

古くから紅型を伝える紅型三宗家(「城間家」「知念家」「沢岻(たくし)家」の三家)の一家、城間家の14代・城間栄喜氏の娘、道子さんと出会われ、ご結婚をきっかけに20代半ばでこの道に入られます。そして、義父の工房で厳しい修業を積まれた玉那覇有公氏、染織とはかけ離れた分野から入られた紅型の世界で、平成14年(1996年)には重要無形文化財保持者(人間国宝)の認定を受けられたほど、

紅型の世界になくてはならない無二の人となられました。
昭和17(1942)年に50枚の貴重な型紙を携さえ、大阪に向かったまま沖縄戦となり、妻子と離れ離れで終戦を迎えた玉那覇有公さんの義父、城間栄喜氏は、命からがら戻った沖縄に、たったひとりで残っていた道子さんと疎開から戻ってきた息子と共に何もない所から、この50枚の型紙に希望を託し、紅型一筋で生き抜いてきました。

生き残った長男と長女の二人を助手として工房を作った栄喜氏、「紅型に関しては全く妥協を許さない」厳しい人でした。何人か弟子も抱えていましたが、「すべて公平、身内には厳しく」を実践している義父は、他の人より遅い25歳と言う年齢で飛び込んできた義理の息子を特別扱いすることはなく、玉那覇氏の工房への出入りは「ある程度技術が身につくまではまかりならん」と一切許されることのない日々でした。

「紅型」は、型紙に始まり型紙に終わる、というほど型紙は大切なものでしたが、当時の城間家には型紙を彫れる技術を持った人はいませんでした。そんな中、「型紙づくりは私がやります」と無謀にも手を上げた、玉那覇有公さん。

「僕がやります、と言いました。でも、一度もやったことが無かったので、何もできないのです。型紙を彫るのも初めてならば、道具を研ぐのも初めてで、義父には『自分で手を挙げておいてこんな彫も出来ないのか!』と何度も彫った型紙を突き返されました。」

人間国宝 琉球紅型 玉那覇有公展 ぎゃらりートーク

しかし、朝から晩まで立ちっぱなしで毎日練習を続け、2週間目で型彫りが出来るようになったといいます。今では、紅型の世界になくてはならない存在の玉那覇氏、紅型の世界を歩むための天賦の才能や勘を備えていた、といえそうです。そして二の足を踏まず挑戦するという男気ある勇気を持って玉那覇氏は、その次に図案へも挑戦します。

人間国宝 琉球紅型 玉那覇有公展 ぎゃらりートーク

「もちろん図案もやったことがありませんでした。染めたものを見たこともなかったので(笑)、図案もできませんでした。」

そこから夜通し練習するようになったそうです。それからは、人間国宝となられた現在でも毎日スケッチをしていらっしゃいます。車の中にはいつでもスケッチのための道具一式を備え、奥さんの道子さんとともに山まで車で出掛けては、心に触れたものを描くなど、毎日毎日欠かさずスケッチをされてきました。

工房への出入りも許されない間、昼間はただただ工房の下働きに徹し、水汲み、掃除などの雑用をこなし、夜は徹夜で型彫りの勉強と紅型の勉強に明け暮れていました。
そんな独学の日々、一番の良きアドバイザーは奥様の道子さんでした。

「幼い頃から紅型の世界で育った彼女の色使いに嘘は無いし、絶対に私はかなわないです。脈々と受け継がれた城間家の歴史は、道子の感性の中に生きています。城間家に伝わる素晴らしい紅型作品を見て、また父親栄喜氏の作品を見てと、毎日磨かれ続けたその色へのこだわりは、誰も追いつけませんし、かないません。色のアドバイスは的確で、紅型の世界で一番と言っても過言ではないです」

幼い頃から紅型の世界に身を置き、城間家に伝わる貴重な資料の数々を見て育った審美眼と熟練された技を持つ道子さんから貴重なアドバイスを受けながら、玉那覇氏は紅型に独自の道を開いていくのです。

新しいデザインと高度な技術 「いろ」と「かたち」

玉那覇氏の作品は伝統的な紅型のイメージと異なり、沖縄の植物を主なモチーフとして、優しい色彩の中にも凛とした表情があります。優れた構成力に裏打ちされた繊細なデザインは、大変洗練された印象で、一瞬にして見る者を魅了する力を持っています。玉那覇氏がとても大切にしているデザインは、身近な植物を欠かさず毎日スケッチすることから生まれます。散歩の道々に出会う草木や、工房の庭に季節ごとに咲く花など、目に留めたものそのものを写実するのではなく、対象を見つめて生まれた感情の機微やそこからつながるイメージの膨らみなどを描き、それらを着物や帯の紋様として意匠を凝らし、図案というものが生まれます。
人間国宝 琉球紅型 玉那覇有公展 ぎゃらりートーク

そしてその図案を元に緻密な型紙を彫りあげる高度な技術があるからこそ染めあげられる紅型作品の「いろ」と「かたち」、そこには玉那覇氏の物を見つめる優しい視点や仕事に対する真摯な姿勢が刻み込まれています。

「両面染め」の圧倒的な力

人間国宝 琉球紅型 玉那覇有公展 ぎゃらりートーク
琉球衣装は本来、両面染めが施されていましたが、今ではほとんど見られなくなったそうです。この両面染め、義父である栄喜氏によって戦後に復元されており、続いて玉那覇氏も挑まれ、今では紅型で両面染めをするのは玉那覇氏だけです。

「両面染めは、あまりにも難しいため、他の紅型作家の方々はされていません。うちの父は、本当に厳しくて『これをこうしなさい』と一言、一度言うだけで、二度は言いません。

両面染めの手ほどきといっても、たった一度、『こうやるよ』と簡単に流れを教えてくれただけでした。」

玉那覇有公先生は、そのたった一度教わったことをそのときにご自分で再現し、現在でも見事な両面染めをつくられています。毎年日本伝統工芸展に出品されていらっしゃる作品では、両面染めを手掛けられており、日本伝統工芸展支部展、本展、染織展の年3回は、制作をされていらっしゃいます。

玉那覇氏の背中を見てきた有勝さん、「両面染め」は、技術だけでなく、気持ちを常に張り詰めていなければならない精神力を要するものだとおっしゃいます。

「両面染めはその名の通り、表と裏を染めますが、単純に片面のみの制作の倍かかるというわけではなくて、5〜6倍の力を必要とします。ずっと気を張って細かい作業をするために、緊張している時間が長く続きます。型置きをするときは、2日くらい前から緊張します。」

型彫りからはじめて、1年ほどの時間を要する両面染め。手間暇も気力も要する大変な作業です。

「どの展覧会に出す場合でも、来年の何月はどこどこの展覧会に出すから、逆算して考えて、数か月前からやらないとできない、あるいは、1年前からやらないと作品はできないよ、といっても皆さん舐めてかかっているのです。期日が近づいてから始めても、出来ないし、間に合わないのです。慌ててやっても必ず失敗します。『失敗しました』、と言って私のところに持ってきますが(笑)」 と玉那覇氏。
今回銀座もとじでご紹介させていただいた両面染めに「ランタナ」という作品があります。八重山上布に染められた絽の両面染めで、和名では花色が次第に変化するところから「七変化」と言われる花です。
人間国宝 琉球紅型 玉那覇有公展 ぎゃらりートーク

こちらの作品は、沖縄の自然を感じさせる海の青や草木のやわらかい緑、太陽の光を浴びたような橙や黄の花色といった、玉那覇さん独特の美しい色世界が広がり、そしてまるでそこにランタナの花々が咲き誇っているかのような見事なデザイン性で構成されています。

圧倒的な美しさと、身に纏う者を引き立てる不思議な力を持った「両面染め」、身に纏った瞬間にどこか心地よい異空間へと誘われるようです。長期間に渡って、精神を張り詰め、細やかな神経を行き届かせながら完成に至る両面染めには、作り手の魂が込められるのか、生き生きとした圧倒的な力が宿ります。

玉那覇有公氏から息子の有勝氏へ

人間国宝 琉球紅型 玉那覇有公展 ぎゃらりートーク
玉那覇有公氏が、異なる分野から紅型の世界に進まれたように、ご次男の有勝さんも33歳の時、2001年に工房に入り修行をはじめられました。驚くべきことに、その後2008年には伝統工芸展の新人賞、2009年には日本工芸会奨励賞を受賞され、次世代の担い手として期待される作り手となられています。

「1996年に、父が紅型の人間国宝の認定を受けました。その後、僕には兄がいるのですが、母づたいで遠まわしに、父が僕に跡を継いでほしいと考えていることを知りました。

多分、父の考えでは兄よりは、自分のほうがセンスがあるだろうと思っているのだと、自分なりに解釈しました(笑)」
33歳であらたな道を選ぶという大きな決断をされた有勝氏、敢えて厳しい道を選ばれた理由を伺ってみると、

「もちろん、厳しい世界であることは覚悟の上でしたが、父が元気なうちに早く継いだほうがいいと思いましたし、若いときはあまり親孝行はできなかったものですから、親孝行をしたいという思いもあってこの世界に入りました。」

と、あたたかい親子の絆を感じさせる答えが返ってきました。

父親であり師匠である玉那覇有公氏、有勝さんに対しては、義父のときとは違って、聞けば何でも丁寧に教え、ガミガミ言うことはなかったそうです。

「図案は毎日描きなさい」
「型は、いつでも選べるくらいに沢山彫っておきなさい。」
「作品をつくるときには、逆算してスタートさせなさい。」

といった大切な基本的なことを常に言われたといいます。

「やはりその通り、せっぱつまると絶対失敗しますし、失敗したら終わりです。年に3点つくるときは、4点、5点くらいの中から選べるくらいの余裕のあるものづくりをしなさい、と言われていました。それは守って、図案は毎日考えています。型彫りも毎日しないと手が動かなくなるので、夜の1時間でも2時間でもやります。」

人間国宝 琉球紅型 玉那覇有公展 ぎゃらりートーク

厳しい職人の世界に身をおかれ、師弟という間柄でありながら、有公さんと次男の有勝さんの間には穏やかに流れている愛情や優しさが深く感じられます。玉那覇有公先生の世界観とそれを継がれながらもご自身の作風へとさらに歩みを進められようとしている有勝さん、師匠と弟子以上の親子の心の通い合いは作品づくりにおいても大きな味方となって、素晴らしい魅力を増していくようです。

今回、有公氏と有勝氏の親子での作品展示が叶った、銀座もとじでの個展に際して、有公氏より息子の有勝氏に「玉那覇有勝」の名で、落款を入れるお許しが出たのです。父からの思いがけぬお許しに、有勝氏も驚かれているご様子でした。

人間国宝 琉球紅型 玉那覇有公展 ぎゃらりートーク
14世紀前後から続くとされる歴史ある紅型の世界が、戦後には義父、城間栄喜氏のただならぬ努力により復興を遂げ、その意志をついで玉那覇有公氏が紅型の世界を今に伝え、

そして今、ご子息有勝氏がそのバトンを受けて、後世につなぐ確かな歩みを続けていらっしゃいます。
古くから大陸の影響も受けながら確立した「紅型」という特殊な作風と技法を持った伝統文化が、いかに日本人にとってかけがえない宝物であるか、我々にとってもあらためて教えていただいた催事となりました。

多くの人々が本物を実際に見て、五感で感じとること、それがその真の価値を若い世代、そして後世に伝承していくための一番の近道となりえるのではないでしょうか。玉那覇有公氏、そして有勝氏が手掛けた、凛とした美しさにやさしさを備えた見事な紅型作品を一堂に目にしながら、日本の多くの人々に、そして世界へも「紅型」の伝統文化とその価値が伝わっていくことを深く願わずにはいられない、忘れがたい貴重な催事となりました。