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型絵染作家・釜我敏子さんのぎゃらりートークを開催しました

2014年3月6日(木)〜9日(日)まで、銀座もとじにて開催した『型絵染 釜我敏子展』。 3月8日(土)には、釜我敏子さんと、女優の壇ふみさんをお迎えして、ぎゃらりートークを開催させていただきました。 「釜我さんが作る作品はうっとりするほどきれい。先生そのもののよう、本当にお美しいですよね。」と会場へ語りかけた壇ふみさん。釜我敏子さんはとてもきれいな女性で、やわらかな笑顔や優しいお声は、作品からもあふれ出すよう。釜我さんの当日の装いももちろんご自身の作品。「おだまき」を染めた着物は、釜我さんに大変良くお似合いです。お二人とも“犬好き”という共有点も上がりながら、楽しいお話がスタートしました。

型絵染との出会い、鈴田照次さんの作品の衝撃

釜我敏子作 「野ばら」
釜我敏子作 「野ばら」

昭和13年福岡県生まれ。兄と三姉妹の真ん中だったという釜我さんは小さい頃は不器用だったそう。「姉や妹ができることでも 自分だけできないことも多くて。でも色や洋服は小さい頃から大好きでこだわる方だったかもしれません。」普通科の高校を卒業後、就職しましたが1年半後には退職、花嫁修業へ。「学校を出たら、お稽古をして、花嫁修業する、そんな時代でした。
ロウケツ染は母が興味があったのでしょうね、私はそれほどでもなかったのですが、すすめられて、時間もあったのでお稽古に通ってみることにしたんです。始めてみると楽しくて、どんどんのめり込んでいきました。」2年後には先生の助手をするまでになられたと言います。 30歳手前の頃、佐賀の美術館で衝撃的な出会いがありました。それが木版摺更紗の人間国宝 鈴田照次さんの作品「もくまお」です。 釜我さんの型絵染との初めての出会いでした。「当時は“染め”と言えば三大友禅(京友禅、東京友禅、加賀友禅)でしたので、 型絵染という技法があることを初めて知り、衝撃が走りました。そして、有名作家はやはり東京や京都などにいると思っていたので、 同じ九州でもこんなことをしている人がいる! と知り、もう無我夢中になりました。」すぐに弟子入りをアタック。当時、佐賀大学の非常勤講師をされていた鈴田照次さんの元へ向かいましたが、残念ながら弟子も聴講性も受け入れられませんでした。 それでもなんとか鈴田照次さんの教え子であった卒業生に型絵染を学ぶことができ、その後、佐賀大学名誉教授の城秀男さんにデッサンも学びました。 32歳の頃、第5回西部伝統工芸展へ初めて出品、見事入選を果たしました。美術評論家の河北倫明さんに「中央(全国展のこと)に通用する作家が生まれた」 と言われたことが嬉しく、釜我さんが作家の道へ進んだ力になったと言います。

長板中形 松原家との出会い、東京と福岡往復の修業の日々

支部展へ出品、入選を重ねていた釜我さんでしたが、それでも中央(全国展のこと)への壁の厚さを感じ「日本伝統工芸展ではこれでは通用しない、もっと技術を向上させたい」と思っていたそう。 そんな中、日本工芸会が主催する勉強会へ参加。くじ引きで偶然にも2日間で2度、隣の席になったのが長板中形の人間国宝 松原定吉さんの子息、松原利男さんでした。「あぁ、これはチャンスだと思いました。
釜我敏子作 「烏麦文」
釜我敏子作 「烏麦文」
当時の自分は、技術がないばかりに自分の思うものが実現できないことがとても悔しいと感じていたので、 技術を学びたいと強く思っていました。この方に型絵染を教えていただきたい! と思いましたが、すぐには言えずにいましたが、2日目を終わろうとしていた頃、意を決して言ったんです。型絵染を教えてください!って。利男さんは驚きつつも、来たらいいよ! って気軽に言ってくださって。 たぶん、あの時代に福岡から、女性一人で、本当に来ると思わなかったのでしょうね。笑」
釜我敏子作 「なずな文」
釜我敏子作 「なずな文」

長板中形の第一人者である松原家の工房は、東京・江戸川区。 釜我さんは住み込みではなく、東京で2、3週間、工房の近くで下宿して通いながら技術を学び、福岡に帰って半年その技術を毎日訓練して、その成果を持って東京へ行き、また指導を受ける、という繰り返しの修行。 釜我さんが一番驚いたのは“糊置きのヘラの使い方”だったと言います。
「使っている道具の形も全然違い、今までやってきたやり方を見ていただいたら、笑われてしまいました。型に防染糊を置く時に使うヘラの“板こすり”という動作は、向こうに押す時は親指を使い、こちらに引く時は人差し指を使う。これをテレビを見る時も一日中ずっとして、身体にしみつけなさいと言われました。母いわく、寝ている時も手が動いていたそうです。」 釜我さんは型絵染の基礎をここで一から学び直し、さらに技術を高められました。(現在ご活躍で、銀座もとじでも個展をさせていただいている利男さんの子息、松原伸生さんが小学生の頃だったそうです。)

母の支え

東京へ修行に通っていた頃、釜我敏子さんは専業主婦。現実問題として、染色家としてものづくりと続けていくにはどうしても生地や染料代をはじめとする資金が必要でした。 当時、男性の給料平均が2万円。3万5千円あれば結婚相手としてかなり理想的とされていた時代だったそう。そんな中、白生地代はなんと1反で1〜2万円(悪いものでも8千円)。到底、主婦の小遣いで買えるものではありませんでした。そんな中、支えてくれたのは母でした。
釜我敏子作 「なでしこ文」
釜我敏子作 「なでしこ文」
夫を早くに亡くし、4兄妹を女手一つで 商売を切り盛りしながら育て上げた母の苦労をずっと見ていた釜我さんは、とても甘えるわけにはいきません。でも、娘の夢に共感し、応援し、バックアップを申し出てくれた母の支えを有難く受け入れ、その想いを胸に「早く一人前になりたい。中央で認められたい」と作品作りに努めました。40歳手前の頃、昭和51年第23回伝統工芸展へ初出展、見事入選することができました。 「連続4回入選すると、日本工芸会正会員として認められる。必ず連続入選したい! 」とものづくりに励んでいた矢先、母の病がわかりました。看病とものづくりの両立の中、「母への恩返し、母が安心する娘になるんだ! 」とものづくりを進め、昭和52年第24回伝統工芸展へ「ねむの花」を出展、見事2度目の入選を果たしました。この入選の知らせが来てしばらくして母は他界しました。 「『ねむの花』は、特別な想いを感じながら作ったもの。今でも家の裏山に大きなねむの木があって、見る度に胸がつまる想いがします。今でも大切に作品を作り続けている花です。」

野の花を題材として

釜我敏子さんの型、ヘラ、刷毛
釜我敏子さんの型、ヘラ、刷毛

釜我さんがモチーフとするのは野に咲く花や草、樹たち。切り花ではなく、土からにょきっと生える植生をスケッチしに、野や山に出かけます。 植物の全体の流れを大切に捉え、デザイン化するからこそ、釜我さんの作品は特有の美しいリズムが表現されます。型彫りももちろんご自身で。絵羽の着物では、すべてが上向けに柄がくるように仕上げることはもちろんのこと、特に肩山の部分では前後の模様がきれいに繋がるように、とても複雑な計算をして、肩山専用の特別な型を作り、染めています。型が出来たら、まずは試し染め。「この試し染が楽しいの。ハンカチほどのサイズの布に、何種類もの色のパターンを染め上げます。
そのアイデアの数の多さは重要で、それにより技術や感性の幅が広がっていったように思います。」 会場には使われているたくさんのヘラや刷毛をお持ちくださいました。釜我さんの型絵染は、型で防染糊を置いたあとは、すべてこの刷毛で手仕事で染め込んでいくもの。帯の無地場の部分は大きな刷毛で染めますが、他の花草の細やかな部分は、小さな刷毛で、ひとつひとつ染めていくので、同じ柄の繰り返しでも良く見るとぼかしの仕上がりが少しずつ違い、温かさがあります。

純国産 世界初の雄だけの極上の絹“プラチナボーイ”を染めて

「今回、銀座もとじさんからいただいて染めた、プラチナボーイの絹布は、染めていてとても気持ちがよかったです。」 釜我さんは生地にこだわりがあり元来、ご自身で選ばれた生地にしか染められず、持ち込みの生地はほとんどされていません。今回、お渡ししたプラチナボーイの生地は、大変染めやすかったとその上質さを認めていただけました。「良い生地は、筆を通じてその良さが伝わってくる快感があるんです。染料の吸いこみと発色が大変良かった。プラチナボーイのこの生地は、とても快感で、染めていて嬉しくなりました。いい生地を染めさせていただくと、本当に快感で嬉しいんですよ。」
釜我敏子作 プラチナボーイ「忘れな草」
釜我敏子作 プラチナボーイ「忘れな草」
釜我さんの生命力あふれる野の花の作品に包まれた会場での1時間のぎゃらりートークは、釜我さんと壇ふみさんのたくさんの笑顔に満ち、あっという間にすぎてしまいました。 野の花の命の輝きを温かな眼差しで感じ取り、自然が生み出す植生豊かなリズムを絹に託す釜我敏子さんの型絵染作品は、召す度に、たくさんの笑顔に包まれる幸せを運ぶ着物です。
写真左から:檀ふみさん、釜我敏子さん、店主 泉二 写真左から:檀ふみさん、釜我敏子さん、店主 泉二
(文:伊崎智子)

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