染色作家・萩原いづみさんのぎゃらりートークを開催しました

2012年11月22日(木)〜25日(日)まで、銀座もとじにて『萩原いづみ展』を開催させていただきました。

11月24日(土)には、萩原いづみさんと、美術史評論家(元茨城県つくば美術館主任)の外舘和子さんをお迎えして、ぎゃらりートークを行いました。父に人間国宝 山田貢さんを持つ、友禅作家 萩原いづみさん。でも染色の道をずっと目指してきたわけではありませんでした。萩原さんは保母さんを10年された後に、30歳でこの道に入られたという、異色の経歴を持つ作家です。

染色作家 萩原いづみさん

保母さんを10年、30歳でスタートした染色の世界

萩原いづみ作 九寸帯

萩原さんは昭和22年4月27日、人間国宝 山田貢さんの次女として父の疎開先、そして父の師でもあった染色作家 中村勝馬さんの居た山梨県で生まれました。その後、自宅兼仕事場であった東京都世田谷の家で、父の仕事を見て育ちました。二人姉妹でしたが、父の展覧会出品作品制作時のピリピリとした精神、日ごとに痩せていく様子を見て、二人ともに「父と同じ仕事は自分にはできない」と思いこんでいたそう。

父の仕事を継ぐという意識はどうしても持てずにいたそうです。

姉は美術や工芸とは全く無縁の世界へ。妹の萩原さんは、幼い頃から父の仕事を手伝っていたこともあり、美術や工芸には興味がありました。高校時代には美術部に所属。進学を決める際、一度、父と真剣に仕事と進学の話をすることに。結局、父も厳しい職人の世界で我が子を同じ境遇に置くのは忍びなかったのか「継いでくれ」という言葉は出さず、「好きな道に進みなさい」という言葉で終わったのだそう。

萩原さんはこれを機に迷いを捨て、父の仕事とは全く別の、“保母さん”になる道を選びました。短大に進学し、卒業後は公立保育園の保母さんとして就職。楽しい日々を送っていました。その後、結婚して二人の子供を持ち、保母さんの仕事もしながら暮らしていました。保母さんとして10年間勤務していた頃、ご主人の都合で住まいを立川に引っ越すことに。引っ越し先でも保母の仕事を続けたかった萩原さんは求人を探しましたが、あいにくどこも欠員がありませんでした。

これまで仕事と家庭、子育てを両立してきた萩原さんにとって仕事はひとつの生きがいでした。
「仕事をどうしようか? 今度は何があっても続けられる仕事がしたいな。」と考えていた時、ふと浮かんだのは昔言った母の言葉でした。
「『染色の仕事は家にいてもできる仕事だから、覚えていてもよいわよね。』

萩原いづみ作 訪問着 かやつり草

この言葉を思いだして、やってみよう! と思いました。」
仕事を教えてほしい、その言葉に一番喜んだのは父の山田貢さんだったそう。 「父の方に拍車がかかっていきましたね(笑)。まずは目標を持ちなさいと言われ、京都の新人展へ出品することになりました。」 初めての新人染色展、ここでいきなり「大賞」を取ることになります。眠っていた血が騒ぎ出し、次は伝統工芸展出品を目指すことになりました。ただこちらはたやすくは通らず、4回立て続けに落選。やはり向かないのでは? と迷ったこともあったそう。その後、見事に入選を果たし、4回目には賞も受賞。それでも自信が持てずにいた萩原さんでしたが、40代半ばになって伝統工芸展で2度目に受賞を受け、この時にやっと「この道でやっていこう」と決心が生まれたと言います。

父が亡くなり10年、一人になって出て来た“自分”の10年

萩原いづみさんと、図案

技術は父である人間国宝 山田貢さん、そして父の師である中村勝馬さんに学びました。中村勝馬さんは“作家の友禅”という分野を切り開いた初代の染色作家。伝統工芸展を主催する日本工芸会の創始者の一人であり、山田貢さんは代表的な弟子の一人です。

大変厳しい方で有名で、山田貢さんはその指導を受け継ぎ、萩原さんもその昔ながらの糊糸目友禅の技法にこだわっています。

「修行を始めた頃は父のテイスト、好みに合う作品を作っていました。寒色をメインにして、糸目が美しく見える作品が多かったように思います。亡くなって10年。この間に別の自分が出て来たような気がします。父が扱わなかったような、明るい色や、愛らしい蝶やスズメのモチーフもそう。自分一人になると自分が出てきました。」

萩原さんのデザインのヒントは形の面白さやシャープさ。波、貝、かやつり草、鳥など自分で本物を見ながら、それを形、イメージで捉えます。紙にざっとメモしておいて、それをまた自分の頭の中でいろいろと変化させて描いてみる。紙を思い描いたものの形に何枚も切って並べていく。それを着物の形に創った紙に乗せて、透かして見てみるなど、一気にデザインを描くというよりも、その時その時、瞬間でひらめいたことを、パズルのように組み合わせて全体の柄に決めていくことが多いのだそう。「花」であれば具象化したり、写実化するよりは、デザイン化したものが好み。「花」は「花らしいものとして造る」のが、萩原さんが求める今の形と言います。

「萩原いづみ」として作品をつくる

なぜ「萩原いづみ」の名前のままなのですか?お父様と同じ道を進んでいるのに「山田姓」を名乗らなかったのですか?
と尋ねてみました。
「実は深い意味はないんです。最初に出品した時に本名で出したからそのままの名前で来ました。

萩原いづみ作 九寸帯

皆さんに『え? お父様が山田貢さんですか? 山田姓を名乗れば』と仰る方もいますが、私は今自分の足で歩き始めましたし、私の作品を作っていますから名前は何でもいいと思います、こだわらないんです。」と。

30歳からこの道に入り35年。初めての個展開催をさせていただいた今年は、父 山田貢さんの生誕100年の年でもありました。父が頑なに守り続けた古来の糸目友禅の技法を用い、糸目の線の強弱や天然糊ならではの自然な色目、そのものの持つ豊かさを作品の命とする萩原さん。デザインを捉える遊び心ある独特の視点は、“保母さん”を職業に選ばれたことがあるというあたたかな感性も生きています。繊細さとおだやかさ、時には気高さと力強さ、相反するものを併せ持つ、萩原さんにしか描きだせない世界をぜひお楽しみください。

(文:伊崎智子)