織り手・清田の紹介|銀座生まれの大島紬

大島紬,銀座生まれの大島紬

絵本の中で見た機織りの姿に憧れて

「織り手」さんになりたいと思ったのはいつ頃ですか?きっかけは?

実は4〜5歳の頃からずっと憧れていました。幼稚園のときに読んでもらった絵本「瓜子姫とあまのじゃく」の中に、女の子が機織りをしているシーンが出てくるんですね。私は体があまり丈夫ではなかったので、家でお休みしているときに絵本を眺めて過ごすことも多くて。機織りの出てくる昔話では「鶴の恩返し」が有名ですが、あの物語では機を織るところは見せませんよね。「瓜子姫とあまのじゃく」は機を織るシーンが大きく出てきて、幼心に「機織りって何だろう?」「なんか、かっこいいな」と、強く印象に残っていました。

小さい頃は「アイドルになりたい」「宇宙飛行士になりたい」と自由に夢見るものだと思うんですが、それが私はなぜか「織り手」さんだったんです。

「瓜子姫とあまのじゃく」
日本の昔話。ウリから産まれた機織り上手の瓜子姫は、おじいさんとおばあさんに大事に育てられるが、ある日天邪鬼にだまされて連れ出されてしまう。

織り手さんに憧れつつ、卒業後は別の仕事を?

中高は美術部で、絵画を含めた「ものづくり」全般に興味を持っていました。将来の仕事を具体的に考え始めたとき「手に職をつけたい」「人が好き、人に関わる仕事がしたい」と思い、高校卒業後は小児福祉や老人福祉を専門とする学校へ進みました。

「いつかは織り手に」という気持ちは常にどこかにあったのですが、心の片隅に思いを閉じ込めたままでした。

インタビューに応える清田

「いつか」ではなく「今」。12年続けた仕事を辞め奄美へ

会社を辞めて奄美で織り手になる決断はいつ?なぜ思いきれたのですか?

21歳で社会人になり夢中で働いて10年経った頃、誰しもそうだと思うのですが、この先の「人生」について考え直す時期があったんですね。自分はこの先どう生きたいんだろう、何をしたいんだろう、とあらためて考えたときに、「織り手」になりたいという思いがどんどん大きくなっていきました。「いつか」なんて、自分が行動を起こさない限り永遠に来ないんだ。いつかじゃない、今、行動しよう、と。そう心に決めたときから、どうすれば織り手になれるのか、真剣に考え始めました。

全国に織物の産地がある中で、奄美の大島紬を選んだ理由は?

機織りをしたいと思ってはいましたが、最初から大島紬と決めていたわけではなかったんです。 ただ、修行をするなら織物の産地で、と思っていました。織物の聖地・沖縄へ向かおうかと思った矢先、その前に下調べとして祖母の出身地でもある奄美大島へ立ち寄ったんですね。大島紬はもちろん素敵な織物だと思っていましたし、島の人たちがとても親切にしてくださって、機織りする工場(こうば)の雰囲気も良くて。生活の一部として機織りがある、産地ならではの空気感が心地よくて、自分もこの中に仲間入りしたい!と思いました。

ご家族から引き止められませんでしたか?

時間をかけて決めたことでもあったので、家族はすんなりと受け入れてくれました。小さな頃から娘の意志を尊重してくれる親でしたし、二人姉妹なんですが妹も応援してくれました。

昼は機織り、夜はアルバイトの日々

機織りの工房(工場)はどんな環境ですか?

私が入った工場(こうば)は商工会議所の二階にあって、広いスペースに織機が15台「コの字」に並んでいました。全員女性で60代が中心。締め機などの力仕事は男性が中心ですが、機織りはどの工場も女性が中心ですね。

生活はどうしていましたか?

奄美での生活を始めたときは、安いアパートを紹介してくださったり、島の方に本当にお世話になりました。技術が未熟なうちは一反を織り上げるのに半年もかかるので、昼は機織り、夜は居酒屋のアルバイトという生活を送りました。バイトを通して、島の生活に徐々に馴染んでいくこともできました。

インタビューに答える清田(正面)

大島紬に未来はある!この目で確かめたくて、銀座もとじを訪れたことがあります

織り手をはじめてから一度、銀座もとじを訪れたことがあるそうですね

はい、奄美で織り手を始めて1年過ぎ、2年目の頃でしょうか、銀座もとじの和織・和染のお店に入ったことがあります。

大島紬は最盛期から生産数が激減して、奄美には大島紬の将来に悲観的な人も多いんです。
「大島紬の織り手になって、大丈夫?」と言われたこともあります。

一生大島紬を織っていきたい、携わっていきたいと思っていても、地元の人にそういうことを言われると不安になってしまって、真実を確かめたいと銀座もとじに潜入(笑)したんです。「奄美の人が大島紬は売れないって言うんですけど、本当ですか?」と質問をぶつけたいと思って乗り込みました(笑)友人に同伴してもらって恐る恐るお店に入ってみたら、着物を楽しんでいるお客様がたくさんいらっしゃって、何よりも社長が、プラチナボーイや大島紬のことを楽しそうに誇らしそうに語っている。銀座でこんなに熱く、大島紬っていいでしょう!と自信満々に宣伝してくれる方がいる。それを目の当たりにして大きな安心感を得て帰りました。

奄美の若い作り手たちに、新しい未来像を見せられたら

銀座もとじへの入社はどういう経緯で決まりましたか?

「銀座もとじ大島紬」の5周年記念で発刊された「南海日々新聞 銀座もとじ特集号」に私のインタビュー記事が掲載されて、それを見た社長(店主 泉二弘明)から声をかけてもらったのがきっかけです。

「銀座で大島紬を織りませんか?」と誘ってもらったのですが、最初はリップサービスだと思っていたんです。それを織り手の先輩に話したら「そのチャンス、絶対に掴みなさい!」と強い口調で言われて、ハッとしました。私が銀座で大島紬を織ることで、奄美の未来が変わるかもしれない。若い人たちに新しい作り手の姿を見せられるかもしれないと、そう思い直して、絶対に採用されよう、銀座で大島紬を織ろうと心に決めました。

南海日日新聞に掲載された清田

「ドレスコードは大島紬」とした開店5周年記念のパーティーはどうでしたか?

はい、誘っていただいて、親方(前田紬工芸代表 前田豊成氏)と一緒に参加させていただきました。350名以上のお客様が皆さま大島紬をお召しになって、もうキラキラと眩しくて夢のようでした。初めての帝国ホテル、しかも誰一人知っている方のいない会場で所在なく佇んでいたら、自分たちが織った大島紬をお召しになっている方の姿が目に留まったんです。嬉しさがこみあげてきて、いてもたってもいられず、思わず「写真を撮らせていただけますか?」と声をかけてしまいました。

一本一本の糸をどれだけ美しい布にするか、手元10cmの世界が織り手としての奄美での生活の全てです。パーティー会場では美しい布がお客様の体の一部になって、布に命が宿っていました。お着物を愛する気持ち、楽しむ心が布を生まれ変わらせていました。今も忘れることができません、夢のように美しい場所でした。

奄美と銀座、世代間の架け橋となって、大島紬の魅力を伝えていきたい

銀座もとじで大島紬を織ることの意味、役割は何だと思いますか?

産地や作り手とお客様との懸け橋になること、お客様に大島紬の魅力を伝えて全国、世界にファンを増やしていくこと。

それと、大島紬が次世代へと引き継がれていくときに、サポートできる存在になれたらいいなと思っています。何か新しいことをはじめようというときには、その旗振りを応援する人間が必要です。しっかりと知識と技術とを身に着けて、新しい大島紬の展開を支えられるようになっていきたいです。

私は奄美では機織りの「職人」でしたが、銀座もとじに入社したからには織る職人であり、かつ「伝える職人」です。私と同世代の方や若い人たちをも惹きつけてやまない大島紬の魅力を、奄美大島の風土や文化とともにご紹介していく、それが使命です。そしていつか、私のように大島紬の作り手に憧れる方がでてきたら嬉しいですね。

インタビューに答える笑顔の清田