泉二弘明のおすすめの逸品
藤山千春作プラチナボーイ角帯
「わたしは、お客様に現代の街並に馴染むきもの姿をご提案していますが、藤山さんの作品は、まさに大変都会的なセンスで制作されています。
わたしの着ているこちらのきものも藤山さんの吉野間道の作品です! 地色は、生成色や白に近いのですが、格子を成す浮織の部分が畝となって、薄銀鼠を感じさせる陰影が醸し出されていて、大変表情豊かなこちらのきものに一目で惚れてしまいました。
このきものは私の勝負服なんです! ここぞ、という大事なときに着させていただく一枚です。自然の草木で丁寧に染められた藤山さんのこの作品は、清清しさを感じさせてくれ、気持ちがとても引き締まるのです。」

藤山千春さんの吉野間道との出会い

そこで、柳悦孝氏らが復元した南蛮渡来の縞織物である「吉野間道」に出会い、柳悦孝先生のもとで吉野間道の染織を学ばれます。
1978年には、現在の工房である品川区大井町にて染織業を始められて以来、着物通の方にも幅広く支持される素晴らしい作品を作り続けられています。
吉野間道とは
江戸時代初期の寛永年間、“吉野太夫”という、京都の遊廓島原の遊女で、舞や和歌、茶道などの諸芸に秀で、知性と優しさと美貌を兼ね備えた、天下随一の太夫と謳われた名妓がいました。
藍染めの際、藍を発酵させるために用いる木炭の「紺灰(こんぱい)」の商いで財を成した京都の豪商、灰屋紹益(はいやしょうえき)が、その吉野太夫という名妓をめぐって、後に関白となる近衛信尋(このえのぶひろ)と争いを繰り広げますが、吉野太夫は灰屋紹益に身請けされます。

灰屋紹益が、妻として迎えた吉野太夫に贈ったといわれる裂が、その名を冠し“吉野間道”と呼ばれるようになり、名物裂として知れ渡ります。風流茶人として名高い、かの松平不昧公も好んだ織物といわれています。
藤山千春さんの色彩世界
裂を通じて歴史ロマンを感じさせる恋物語を秘めた吉野間道。
藤山千春さんは、その吉野間道をすばらしい織の技術と美しい配色やグラデーションを草木染で表現し、現代によみがえらせ、染織作品として独自の作品世界を完成させながら、世に送り続けていらっしゃいます。まるで平安時代の雅な装いの世界を思わせる色彩世界と品格で、多くの着物ファンを魅了し続けています。