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店主・泉二啓太の産地めぐり ~伊勢型紙のふるさと、三重県・白子町へ~ 

私たちは「伝える職人」として、 産地の空気を伝えたいという思いから、 自分の目で見て、自分の耳で聞き、自分の手で触れて感じたことを、自分の言葉でお客様にご紹介をする、ということを大切にしています。

今回は、江戸小紋や長板中形、和更紗を染めるためには必要不可欠な「伊勢型紙」の魅力を探るため三重県鈴鹿市白子(しろこ)町に行ってきました。
今回、ご案内くださったのは、伊勢型紙・突彫り師の内田勲さんと和更紗・染師の中野史朗さん。2日間に渡り、型彫り師の仕事現場や歴史資料館を訪れ、彫刻技法や型地紙 、歴史 について多くの事を教えて頂きました。

【目次】
1. そもそも伊勢型紙とは
2. 伊勢型紙はどうやって彫るの?
3. 伊勢型紙の紙は何からできているの?
4. 伊勢型紙の歴史には本能寺の変が関わっていた?

1. そもそも伊勢型紙とは

小紋や友禅、浴衣などの柄や文様を染めるために使用する型紙で、500年以上の歴史を誇る伝統的工芸品(用具)。
昭和30年には、南部芳松、六谷紀久男、児玉博、中島秀吉、中村勇二郎、城ノロみゑの6名が「伊勢型紙」の重要無形文化財技術保持者に認定され、昭和58年4月には、当時の通商産業大臣より伝統的工芸品(用具)の指定を受けています。

素材は、渋紙(薄く漉いた和紙)を3枚、縦横に互い違いに柿渋で貼り合わせた「型地紙」と呼ばれる、彫刻と染めに耐えうる水に強く伸縮しにくい紙を使用。 そして、その型地紙を複数枚重ね合わせて、熟錬した職人が手彫りすることで型紙が完成します。
※縞柄の型地紙は4枚が1セット。彫る前に2枚に剥がして縞を彫り、その間に糸入れをする。

現在、伊勢型紙の生産量は、三重県鈴鹿市の白子と寺家で約99%を占めているとのことです。

2. 伊勢型紙はどうやって彫るの?

伊勢型紙には「突彫り」「錐彫り」「道具彫り」「引(縞)彫り」の4つの彫刻技法があり、それぞれに特徴があります。例えば、大きな柄を彫る場合には、「突彫り」や「引彫り」を。細かい柄を彫る場合には、「道具彫り」や「錐彫り」が適しているなど、どの技法にもそれぞれの良さがあります。

突彫り*内田 勲(うちだ いさお)さん

伊勢型紙の中で最も古い技法。
型地紙を5~8枚重ね、彫る部分を「穴板/あないた」と呼ばれる板の上に置き、小刀を地紙から離さずに垂直に突くように、上下させながら前へ彫り進めていきます。

 

<画像>穴板(内田さんが先代から譲り受けたもの)

突彫り専用の刃先を鋭く尖らせた小刀は、曲線や折線の彫り出しに適しているため、小紋や中形に使用される、植物柄などの有機的な絵柄文様を得意とします。

小刀の刃は幅約3mm、厚さ約1mm。右手の親指と人差し指で柄(え)を回転させ、中指と左手の人差し指で刃先の角度を調整して1mm以下の曲線を彫り進めます。

<画像>突彫り用の小刀
<画像>突彫りの様子

刃を地紙から離さないため、イトノコを前後させる動きに近く、彫り口が微妙に揺れるので、独特で味わい深い暖かさのある柄行となります。
地紙が6~7枚重なるとそれなりの厚みが出るのですが、内田さんの指の動きは滑らかで且つテンポよく、その動きを見ていると、自分の呼吸を忘れてしまうほど目が離せなくなります。

<画像>彫られた型紙

 

<型紙製作のキーポイント>

その1:小本/こほん(型紙を彫るための“柄の基礎”となる、連続する最小パターンの型紙)

この小本を上下左右へ移動させながら型地紙に柄を写し取っていくため、小本が完璧に作れないと全ての柄送りが狂い型紙が作れません。そのため、この小本作りは型紙制作の基礎となる、非常に重要な工程です。

<型紙の制作手順>

 

1、見本帳から選んだ図案の中の柄の最小パターンを見つけて、それを切り取る。
2、最小パターンの紙を折り、図案と照らし合わせながら、上下左右の柄が繋がっていることを確認する。 
3、カーボン紙で図案を型地紙に写し取り、柄を彫り抜いて小本を制作。
4、その小本を今度は型地紙の上に乗せ、上下左右の柄が合うように平行にずらしながら、刷毛を用いて墨で柄を刷り込み、型地紙に図案を写し取る。

※上下左右の柄がしっかりと繋がっていないと、小本ムラ(小本の型の線が残ること)が出来てしまい、染め上がりに影響がでてしまうそうです。

その2、口紙/くちがみ(型紙の天地の柄を合わせるための地紙)

通常、型地紙は5〜8枚重ねて、こよりで数カ所固定し、一度に彫り抜きます。
その際、1枚目と2枚目の間に8cm程度の細さの地紙を下部に差し込み、一緒に彫り抜き、口紙を制作します。

その口紙を柄の上部に写し、柄の繋がりを確認します。

錐彫り*宮原敏明(みやはら としあき)さん

江戸小紋三役「鮫小紋」「行儀」「通し」や「霰」など、連続した柄の組みあわせによって構成される型紙に用いられる技法。

刃先が半円形の小刀を地紙に対して垂直に立て、くるりと回転させることにより穴をあけ、その連続で柄をつくっていきます。常に一定の大きさ、同じ角度で彫ることが求められ、刃の尖を一定に保つためにも、砥石は常に横に置いて作業します。

<画像>溝金(みぞがね)
<画像>砥石で刃を研ぐ様子

「アテバ」と呼ばれる作業台に両肘を固定し、利き手の薬指を地紙にあてて錐を持ち、もう一方の手の親指と人差し指で柄(え)の最上部を回転させます。同じサイズの錐を用いても、わずかな力加減で穴の大きさが変わってしまいます。

錐彫りの様子

単純な柄だからこそ、ほんの僅かな穴の狂いが命取りとなる、非常に集中力を要する技法です。「極鮫」は彫るのに約2か月かかるとのこと。

宮原さんは、故・藍田正雄さんの型紙を数多く制作されており、最後に発注した「立ての連子格子」の型も制作。残念ながら、ご存命中には間に合わず、、、

<画像>藍田先生発注の連子格子の型

 

この錐彫りの後継者は、現在、宮原さんのご子息のみという状況です。
ご子息はもともと、車の型などを制作していたエンジニアのため、手先も非常に器用でいらっしゃるそうで、これからの錐彫りを担ってくださる方です。

<画像>彫られた型紙

道具彫り*兼子吉生(かねこ よしお)さん

刃自体が花や菱、扇など型の形をしている彫刻刀で、ひと突きで彫り抜く技法。
彫りたい文様に合わせて道具を作ることから始まり、「いかにいい道具を作るか」が型紙を完成させる上でもっとも重要となります。

刃を地紙に垂直に立て、一気に彫り抜くため、柄が均一に彫り上がることが特長。割付柄なので、同じ柄が続く場合は道具彫りが一番適しています。

江戸時代に武士の裃が普及したことにより、大量生産するために、江戸後期から発展した技法。4技法の中では最も新しい技法です。

<画像>道具

道具は全てご自身で作られます。彫刻刀の柄(え)は近所の大工さんよりいただいたヒノキを丸かんなで研いで作り、刃は約7cm×厚さ0.25mmの板金を切り、曲げたり叩いたり削ったりして形を作り、焼き入れし砥石で刃を入れ調整しながらつくります。その柄(え)と刃を固定するために、丁寧に糸を巻いて固定し、ようやく道具が完成します。刃は錆びやすいので、糸は水を吸収せず乾きやすいナイロン糸を使用します。また、刃を研ぐときは糸を外し、一旦ばらす必要があるとのことです。

<画像>道具作り

道具彫り師の方は、ご自身のやりやすい方法を実現するために独自の方法を生み出すこともあります。例えば、柄の割付をしやすくするために独自の方眼紙を作成したり、型紙が動かないようにするために、型紙の下に菜種油を塗った新聞紙を引いたりなど、小刀だけでなく、型紙をつくる過程で必要な道具全てに対し、常により良いものを求めて研究を重ねていらっしゃいます。

兼子さんは明治時代から続く彫り師の3代目。彫刻刀は代々受け継いでおられ、4000~5000本近くの彫刻刀が柄の種類によって、綺麗に引き出しに整理されていました。また、工房内は道具を作る為の機械がずらりと並び、「道具彫りは理数系」と呼ばれるのも頷けました。

<画像>工房の写真
<画像>彫られた型紙

縞彫り*佐々木正明(ささき まさあき)さん

縞彫は、鋼の定規に小刀をあて、手前に引いて彫ります。現在では小刀を引いて彫る技法を広く引彫と呼びますが、もともとは縞彫りのことを指して使われていた呼び方でした。

重ねた地紙を力まかせに彫ると紙がズレて使い物にならないので、少し湾曲している定規を上から押さえつけながら、同じ個所を三度続けて小刀でなぞります。そのため定規、ひじ、手の位置は一度決めたら決して動かすことができない、極度に集中力を要する技法です。一度、目を休めてしまうと感覚が狂うため、基本的には1日で引き切るとのことです。

縞彫りの場合は、別の紙に一寸曲尺間の縞の本数に合わせた櫛状の「目突=小本」を作り、地紙に縞筋の目印となる星目をつけます。
※縞彫りだけは曲尺を使います。

 

佐々木さんは今まで、1㎝幅に最高11本もの縞を彫ったこともあるそうです。 縞柄には、3cm幅に彫られる縞筋の本数によって名前が付けられています。

《糸入れ》

<画像>糸入れ前
<画像>糸入れ後
※型紙の横に糸入れの生糸が見える

縞柄や彫り残しの少ない型紙は、そのままだと型付けの際に紙が動きやすく不安定なので、彫った後、紙を固定するために「糸入れ」という加工が施されます。

縞彫りの型紙は2枚に剥がし、縞を彫りあげ、その間に縞に対して横方向に生糸を何本も挟み、それを柿渋で元の一枚に張り合わせます。細かく彫られた柄の2枚の紙を1枚に貼り合わせるので、非常に手間と熟練が必要とされます。

かつてはすべての技法に「糸入れ」が用いられていましたが、大正10年頃に絹の網を型紙にかぶせ漆で固定し補強する「紗張り」の技術が開発されてからは、紗張りが主流となり、熟練した高い技術を要する糸入れをできる方がほとんどいなくなり、現在、糸入れは縞彫りだけに用いられています。

佐々木さんの型紙の糸入れは、佐々木さんのお姉様がなさっています。
糸入れは息の吹き加減が重要で、昔から肺活量の少ない女性の方が得意としてきたそうです。縞彫りの型紙には糸入れの職人さんの名前も彫られていることがありますが、縞柄の完成度は糸入れ次第といっても過言でなく、糸入れは重要な役割を果たしています。

<画像>縞彫りの様子

彫った型紙のその後、、、

基本的に縞彫り以外の型紙は、5~8枚重ねて彫るため、1番上と下から2番目は自分でキープし、内側の綺麗な型紙のみ染め屋へ納品します。1番下は、擦れたり切れたりしている事もあるので処分されるとのこと。 

3. 伊勢型紙の紙は何からできているの?

制作期間 50日余り。
特  徴 彫刻と染めに耐えうる水に強く伸縮しにくい
材  料 美濃和紙と柿渋
柿  渋 水や湿気に強い。和紙と和紙をくっつける接着剤の役割。
     渋紙は一晩水につけても破れない。

① 法造り
楮を手漉きした美濃和紙を、あらかじめ規格サイズに裁断しておく。

<画像>法造り

② 紙つけ
藁刷毛を使って和紙に柿渋を塗り、和紙を3枚重ねる。その時、縦、横、縦と繊維の向きを交互にし、裂けにくくする。

<画像>紙つけ

 

③ 生紙張り
紙つけをして2、3日寝かせた生紙を張板(檜板)の表裏に張る。張板1枚に2~4枚の生紙を張る。

<画像>生紙張り

④ 天日干し
張板に張られた生紙を天日で乾燥。乾燥させたら張板から剥がす。

<画像>天日干し

⑤ こそげ
型彫の際に道具を傷つけないため、地紙についたごみや渋かすなどを包丁で削るようにして取り除く

 

⑥ 室枯し(むろがらし)明治5年から始まる
室(燻煙室)の中に地紙を吊り下げて、杉や檜のおが屑をくすべ、1週間から10日間ほどいぶす。室から出した後、渋をつけて天日干し(※のばし、という)し、もう一度室でいぶす。これにより伸縮しにくい紙になる。

※引き彫り(縞)の型地紙は生紙(室枯しをしない)。そのまま1~2年ぐらい置いて接着するのを待つ。その他の彫の型地紙は室枯しをするので、柿渋が固定するまでの時間を短縮できる。

<画像>室枯し

⑦ 仕上げ
室枯しまで40~50日ほどかけて仕上げ、その後半年~1年ほど寝かせて出荷する。

和更紗のように一つの模様を何枚もの型紙で染める場合は、均質な紙が必要なので渋紙だと難しく、合成紙を使っているようです。江戸小紋や長板中形のような1枚型で染める場合は、あまり影響が無いので渋紙を使っています。

※画像提供:株式会社大杉型紙工業HPより

4. 伊勢型紙の歴史には本能寺の変が関わっていた?

型紙のおこりは、確固たる史料や伝承がないため、特定できる説はなく未だ解明されていませんが、いくつかの伝説や言い伝えがあります。

・奈良時代に孫七という人がはじめたという伝説
・子安観音の和尚が、不断桜の虫食いの葉を見て型紙を思いついたという伝説
・平安時代には、型売り業者がいたという説
・応仁の乱の時に京都から逃れてきた型彫り職人が型彫りの技術を伝えたという説
・京都から逃れてきた公卿が子安観音寺の門前で富貴絵という一種の切り紙細工をみやげものとして売ったという説

<画像>これが噂の子安観音寺の不断桜

もともと白子には、和紙も型染もなかったため、京都との結びつきや紀州からの伝搬など、他の地域との関連を考える説が有力のようです。

少なくとも室町時代末期には、狩野吉信(1552-1640)が「職人尽絵」で型紙を使用して糊置きをする染職人を描いていることから、型紙はこの時代に確実に存在していたと考えられます。

<画像>狩野吉信(1552-1640)
「職人尽絵」紺屋型置きの図

<徳川家康の伊賀越え>

天正10年6月2日(1582年6月21日)、本能寺の変が発生。
わずかな供連れで堺見物をしていた徳川家康は報に際して帰国を決意し、伊賀国を経由して三河国へ帰還。

明智勢や落ち武者狩りから逃れながら、伊賀の白子の浜から船で逃げ出すのを手助けしたのが小川孫三という人物で、家康はこの恩に報いるため、孫三に対岸の知多半島の藤枝宿の一角を与えました。孫三は後にここに居住し町名を故郷の白子町としました。子孫の小川家の前に町名由来記の石碑があるそうです。
三重県の白子も、その恩から紀州藩の天領になったといわれています。(諸説あり)

<画像>家康の伊賀越順路
 出典:小川家由緒書写より

<江戸時代の発展>

紀州藩の天領になったこともあり伊勢型紙は藩の保護を受けて大きく発展していきます。

奢侈禁止令により、型染が流行し小紋の柄はどんどん細かくなっていきます。
裃には型染が用いられたため、型を彫る職人と染める職人が協同することで、更に発展をしていったとも言われています。

<画像>鑑札(行商許可証)
出典:鈴鹿市・鈴鹿市教育委員会 伊勢型紙資料館資料より

当時の型屋は紀州藩から、鑑札(行商許可証)や通り切手(荷物輸送の際の身分証明書)が与えられるなど優遇されており、非常に有利な条件で行商ができました。その藩のお墨付きを持って、「株仲間」を組織し、全国津々浦まで型紙を売り歩くことができたため、伊勢型紙は全国的に広まっていきます。
紀州藩が型屋を優遇した理由は、北は津軽から南は薩摩まで行商するため、隠密の使命を課したり、藩の重要な奨励策になっていたからとも言われています。

※この時期、型紙を効率よく彫る為に、「錐彫り」「道具彫り」が生まれました。

当時は、型彫りの技術は門外不出で、彫り師は誓約書を交わすほど。また、型の販売数も制限されており、むやみやたらに増やせないほどしっかりと管理されていたようです。

※1753年には、型屋は白子(37軒)、寺家(90軒)、合計127軒。
後に、江島の11~12軒を加え、139軒に。

<明治からの流れ>

明治時代になって、江戸時代に組織されていた「株仲間」は解散します。
近代化の煽りを受け、衣服文化も変わり着物を着る人も減少。それに伴い、型紙の需要も減少していきました。更には、太平洋戦争で大きな打撃を受けて、型紙業者がほとんどいなくなります。
終戦後に国内の復興が進むと、また着物の需要が増え、型紙業者も戻り、昭和40年代にピークをむかえます。ですが、現代の新しい技術の普及により、またしても型紙の需要は徐々に減っていきました。

<現代の型紙> 

着物の需要が減り、また、新たな染色技術の台頭によって、型紙の需要も減少しています。
この伝統的工芸品である「伊勢型紙」の技術を絶やさない為にも、技術保存会を立ち上げられ、現在では、照明器具や建築建具に応用するなど、新たな活用方法も模索されています。

<画像>渋あかり(ランプシェード)
画像提供:株式会社大杉型紙工業 HPより

~三重県・白子を訪ねてみて~

今回、実際に現場を見たことで、「ここまでやるか」というほどの緻密な型紙づくりに圧倒されました。
職人の方が黙々と型紙と対峙し、彫刻刀で丹念に文様や図柄を彫り抜いていく姿は、観ている私たちも息をするのを忘れるほどの緊張感があります。職人の卓越した手技に、並々ならぬ集中力と忍耐力が加わることで、緻密で繊細な型紙が生み出されます。
国の伝統的工芸品にも指定されている伊勢型紙ですが、あくまで「用具」であるという位置づけにも驚きでした。

型染めにはなくてはならない、伊勢型紙。
現在、型彫り職人は60~70代の方が、20人にも満たない状況です。この技術を絶やさぬために、技術保存会では若手育成に力を入れており今では30~50代の方が16名、日々技術を磨かれていらっしゃるそうです。
私たちも伝える職人として、この伊勢型紙の歴史や文化、魅力を一人でも多くの方に発信していきたいと思います。

お忙しい中、ご協力くださった内田さん、中野さん、伊勢型紙資料館様、伊勢型紙おおすぎ様、本当にありがとうございました。

江戸小紋についてはこちらから

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