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Ginza’s Willow Dye銀座の柳染め

「銀座の柳染め」とは

銀座といえば柳。1993年、銀座もとじの店舗がまだ銀座一丁目の柳通りにあった頃、店主泉二が春先にふと空を見上げると、まだ初々しい黄緑色の柳の新芽が風に揺られてキラキラと煌めいていました。その清らかな美しさに心を打たれ、何と美しい命の輝きだろう、この柳の命をなんとか草木染で表現できないかと始めたのが「銀座の柳染め」です。

全国各地の草木染めに触れながら、銀座の柳でも染める方法がないかと考えていたところ、毎年、中央区が銀座の柳を刈り込んで処分するという話を聞き、剪定した枝葉を分けていただけることになりました。それから、全国各地の信頼している作家たちへ銀座の柳を送り創作を依頼しています。草木染めは、草木の成長の度合いや採取する季節、また媒染剤によってさまざまな色が出るので、その年ごとに多様な色が染められて戻ってきます。

また、二代目の泉二啓太が銀座唯一の小学校、そして一世柳のある泰明小学校に通っていた時のあるできごとからご縁を持ち、 毎年5月には小学校5年生の課外授業「銀座の柳染め課外授業」も行っています。

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銀座と柳の歴史

銀座の柳

銀座と柳には深いつながりがあり、その歴史は明治時代にまで遡ります。1874年(明治7年)、欧米並みの街路樹を植栽しようと、桜や松、楓の3種が銀座通りの四辻に植えられましたが、海を埋立てた地である銀座は土中に水分が多く植樹が枯れてしまい、水栽培も可能な柳が選ばれました。

当時、柳は街路樹に選ばれるような樹木ではなかったのですがかえって新鮮にうつり、「銀座の柳」として定着。1884年(明治17年)には、銀座の街路樹はほとんど柳になりました。

しかし、それから紆余曲折がはじまります。

大正時代に入ると、車道を拡張するための柳の撤去や、関東大震災による消失。1932年(昭和7年)には再び、銀座四丁目三越前の交差点に柳が植えられるものの東京大空襲に遭い、柳も八丁目の40本を残して消失。戦後の食糧難のため柳が抜かれ畑に作り直されもしたそうです。

1968年(昭和43年)には銀座通り整備のため、203本の柳が日野にある建設省街路樹苗圃に移植。1984年(昭和59年)に「目黒に残る銀座の柳」と新聞に取り上げられたことから、「銀座の柳」の復活活動が開始されました。当時、現存はたったの3本、しかも2本はすでに移植できる状態ではなく、枝を50本もらい、さらにそれを150本に切り分けて「挿し木」にし、幸いにもそのうち86本を根付かせることができました。70センチに成長したところで2世柳として3本を御門通りに植樹したのです。

1986年(昭和61年)には中央区の木として柳が選ばれ、その翌年、泰明小学校の入り口に2世柳が植樹されました。1997年(平成9年)にはその2世柳から3世柳が育ったので、職員室前に新たに植えられ、1998年より泰明小学校での「銀座の柳染め課外授業」が始められました。

「銀座の柳染め課外授業」について

1998年より、銀座で唯一の小学校である中央区立泰明小学校 5年生を対象に「銀座の柳染め課外授業」行っています。
授業は全3回にわたり、1回目は校庭での柳の剪定、2回目は銀座の柳の歴史と染め方について、3回目は柳から抽出した染料で生地を染めていただきます。染めの授業では、それぞれがハンカチを3枚染めて、柳の染料で下染めした反物に絵を描きます。

きっかけは1996年にさかのぼります。当時小学生だった二代目泉二啓太の「着物って何からできているの?」という一言から店主泉二が発案し、店を2週間休んで「銀座蚕飼育展」を開催。泰明小学校の生徒たちも見学に訪れていたご縁で「銀座の柳染め課外授業」のお話をいただきました。日本の染め文化とものづくりの楽しさ、着物が命をいただいて作られることを伝えたいと始めた活動も、おかげさまで20年以上の歴史を重ねています。

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