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菊千代が織り上げる与論島の芭蕉布|和織物語

芭蕉布。今では沖縄が有名ですが、その昔、芭蕉布の原料は奄美大島から運んだことを知っていますか? 奄美大島に程近い与論島。そこの大自然の中で芭蕉布は生まれました。 畑を耕し、糸芭蕉を植え、育て、刈り取り、皮をはいで糸を取り、紡いで農作業の合間に織り上げる。涼しさと肌触りの良さから普段着として使われていました。その芭蕉布を織り続けて68年。いい糸だけを集め、無地の芭蕉布を今も作り続ける菊千代さんをご紹介します。

菊千代さんとは

大正15年(1926年)1月24日生まれの寅年。幼い頃は嘉永6年(1853年、12代徳川家慶の時代)生まれの祖母と明治28年(1895年)生まれの母と三世代家族で暮らしていました。母は物を大変大切にする人でどんなものでも長く使い続け、その目的が達せなくなると違うものに作り直して使い続けるという人でした。与論島独特の方言も民具も芭蕉布を織ることも母から教わりました。なかでも千代さんの機織の腕前はめきめきと上達し、子供やご主人の普段着の殆どはこの涼しくて軽い着心地の芭蕉布で作り、芭蕉の中芯の上等な部分が取れた時にはそれを使って晴れ着を織ったりしていました。芭蕉布は、涼しくて軽いのがモットー。特に千代さんが織る芭蕉布はゆったりとして柔らかいので布にゆとりがあり着心地が良いのです。

母を泣かせてまでも辞められなかった民具集め

菊千代が織り上げる与論島の芭蕉布
既に小学生の時には周りの子供よりずば抜けて良い機織の腕を持っていました。母はそれを見て「こんなに上手なら結婚後は家族のために大島紬を織りなさい。芭蕉布は自宅の普段着用として作ればいい。大島紬は工賃が高いから子供にも良い物が買えるし、良い教育も受けさせられる。」と励まし、代わりに自らが早朝から陽が落ちるまで農作業を続けました。
与論島の炎天下で天秤棒を担ぎ、畑を耕し、農作物を収穫する。その母のお蔭で自宅でせっせと大島紬を織り続けていた千代さんでした。 が、何時しか関心は、郷土の民具に移ります。昭和30年代(1955年~)に入ってどんどん本土から人が往来し、便利なものも増えてきました。すべてが使い捨てになり、学校でも標準語を授業で使い、与論島独特の方言や大切な風習がどんどん失われて行ったのです。三世代の同居を通して与論島の良き風習を見聞きしてきた千代さんにとってそれはどうにも耐えがたいことでした。居ても立ってもいられず、とうとう千代さんは一人で動き始めます。取り壊される民家、捨てられる民具をひとつひとつ集め始めたのです。ゴミ集積所を歩き、捨てられた民具を集めては自宅に持って帰る。取り壊される民家があると聞けば、大島紬で稼いだお金を持ち出して買い取る。そんな姿を見た島の人は皆一様に言いました。「菊ん家の千代はゴミを漁っている。」「菊ん家の千代は、ゴミやがらくたばかり集めて来よる。」それを農作業に出ていた母親は毎日聞き、泣きながら戻ってきては「千代、お願いだから大島紬を織ってくれ。どんなにみんなの生活が助かるか。子供が喜ぶか」と懇願しました。夜は「母の言い付けに従おう」と決心するものの、夜半には失われて行くものへの、はやる気持ちが抑えられず、翌日の朝にはまた家を飛び出して民具集めを続けていました。 そんなある夜、お風呂上りの母の後姿を見て千代さんは愕然としました。小さな母の両肩は農作業で背負う天秤棒の重さで、皮膚はめくれ、傷に成り、真っ赤な血さえ流れていたのです。「母にこんなに無理をさせていたのか」と涙が流れ、自分のして来たことに後悔が募りました。「民具集めは辞めよう。大島紬を織ろう」と決心し機に向かいます。が、それも束の間。やはりどうにもじっとしていられず、島中を歩き民具集めに回りました。最後には母親がとうとう諦め、「千代のしていることも何時か実を結ぶときが来るかもしれない。好きなようにしなさい。」と許してくれました。 その後も、民具集めは続き、今では与論島で「民俗村」を作るまでになりました。

与論の方言辞典の作成

民具集めとともに千代さんがこだわったのは民具に込められた方言でした。民具が失われて行くのと同時にその言葉も失われて行きます。千代さんは、使われなくなった方言や今消えつつある方言をノートに書きとめていきました。1986年までに書きとめた方言は19.000語になりました。その後、民俗村に訪れた言語学者がそのノートの存在を知り「是非」と乞われて見せたところ『方言辞典』を作ることを熱心に薦めてくれました。最初は、どうして良いのか分からず、「きちんと学校にも行っておらん私に、まとめる力は無い」と諦めていた千代さんですが、沖縄国際大学の教授がお力添えをくださり、実現へと漕ぎ着けました。2005年夏に15.000語に集約された『与論方言辞典』が出来上がりました。

芭蕉布に力を入れて

幼い頃から、芭蕉布作りは続けていました。主に自家用が常でしたが、民俗村を訪れてくださったお客様がその織り上がりを見て、「千代さん、いつまでも待つから織って欲しい」と頼んでいくようになりました。商売で売ったことの無い千代さんですからどうして良いかわからずなかなか引き受けられません。また無地を中心に織る千代さんは、帯用、着尺用と用途に応じて芭蕉の糸を選別していきます。細くて良い糸が取れるまで無地の着尺は絶対に織らないので、糸を採ってから出来上がるまで5年の歳月を掛けた着尺もありました。
菊千代が織り上げる与論島の芭蕉布|和織物語
「民族村」の運営と一緒ではなかなか商品まで漕ぎ着けることができませんでした。 千代さんの糸芭蕉の畑は島内に3箇所あります。糸芭蕉は比較的育てやすい植物ですが、暴風雨を浴びてしまうとキズがつき良い繊維が取れません。また一手間、ニ手間とかけてに発育途中に葉を何度か刈り落とすと、より一層茎から綺麗な芭蕉の繊維が取れます。手間をかければかけるだけ良い糸になるのです。一反の着尺を作るのに200本の糸芭蕉を切り倒します。齢82歳にとっては大層「骨の折れる仕事」です。それだけ手間隙を掛けても自分で納得のいく物が織り上がるまでは、決して妥協しません。「難が出たら自家用にする」というのが千代さんのモットーです。

孫娘の為にも

千代さんのところには中学3年生になるお孫さんがいます。この子が千代さんの姿を見て、見よう見まねで機織を始め、まだ機踏みに足が届かない3歳のときから特製の椅子を作ってもらって高機で芭蕉布織りを始めました。今、彼女の夢は、千代さんの後を継いで沖縄芸術大学を卒業して、芭蕉布を作り続けて行くことです。

菊千代さんの三つの夢

菊千代さん
千代さんには三つの夢がありました。ひとつは「民具や民家を後世に残していくこと」。二つ目は「与論独特の方言を正しい形で残すこと」。三つ目は「芭蕉布で個展をひらくこと」でした。二つの夢は叶いましたが、最後の夢はもう叶わないことと諦めていました。
しかし、自分を目標としてくれる孫娘の為にも今では『実現したい』と言う大切な夢となりました。 そんな折に、泉二と出会い「菊千代さんの腕は確かで作品もいい。だから今度はちゃんと東京の皆さんにも受け入れてもらえるように、是非作品を作っている間だけは集中して「民族村の運営は息子さんたちに任せ、芭蕉布つくりに没頭してみたらどうですか? 」「私にできるじゃろうか? 」「できますよ。但し無地は染みになりやすいから虫が飛んでいない部屋で集中して作ってください。銀座のお客様の希望するレベルに近いものが作れますから私を信じて努力してください。寸法も反物の長さももう少し長く作ってくださいね。」「はい! スタッフの方を見てもみなさん大きいですものね。頑張ります」 3年前の出会い以来、菊千代さんは泉二との約束を守り一生懸命作り続けてきました。 「何時まで作れるだろうかねえ? でも“東京で展示”と言う夢があると毎日が楽しいです。働くことがより楽しくなりました。仕事は私の生きがいです。夢があると新しいものが作れます。本当にとーとぅがなし。」と深々と頭を下げる千代さん。 こちらが「とーとぅがなし(ありがとうございました)」と御礼を言いたくなりました。 そしてこの度、出会いから3年後の今、菊千代さんの三つ目の夢が『銀座もとじ 和織』で実現します。 芭蕉布の無地にこだわって68年。82歳という年齢で1人で糸作りから織りまでして行きますから、出来上がる作品数には限りがあります。 是非、菊千代さんの作品とともにそのお人柄にも触れてみてください。

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