読谷山花織 新垣隆さん / 泉二の一口対談


第18回:読谷山花織 新垣隆さん

<新垣隆氏 プロフィール>

沖縄県読谷村に生まれる。
九州産業大学で工業化学を専攻。卒業後地元に戻り、知人の勧めで「村おこし」の手伝いを始める。その折に、染色を始め、読谷山花織の事業協同組合長となる。
現在は組合の染は専属でこなし、一方で自身の織の世界を作り出している。

<読谷山花織とは>

沖縄の代表的な織物のひとつ。東南アジアと直接交易を行っていたと言われる読谷山花織は色柄や技法に南方色が強い。
大きく分けて二つの織り方がある。ひとつは「手花(ディバナ)織」といい「平織りの地に別糸を織り込み刺繍をしたように花の文様を織り出す」方法で比較的自由な柄が作りだせる。もうひとつは「綜絖(ヒャイバナ)花織」と言い綜絖を使って緯糸を浮かせてあることで文様を出す。どちらも花文様は、「銭玉(ジンダマ)」「風車(カジマヤー)」「扇花(オージバナ)」を基本にしている。
それぞれの柄には以下の意味がある。

  • 「銭玉」・・お金に困らずに生活していけるように
  • 「風車」・・長寿のお祝いには必ず使う
  • 「扇花」・・末広がりで子孫繁栄

沖縄 読谷山にて

工房にお邪魔して、新垣隆さんと澄子さんと。

泉二:ご無沙汰しています。今日は宜しくお願いします。

新垣:こちらこそ暑い中お越しいただいてありがとうございます。沖縄の 7 月は暑いでしょう。

泉二:そうですね。東京が梅雨真っ只中で意外と涼しかっただけにこちらに来てびっくりしました。やっぱり南なんだなあああ・・って思いましたよ。

でもこの暑さの中、新垣さんは読谷山花織の組合長として組合を通る織物の染めは一手に引き受けてしていらっしゃるんですよね。

新垣:そうですね。染の一工程には 3 日間の日程が掛かるんですよ。まず染料を作って染める。浸けて寝かす。乾かす。また染めると言うのの繰り返しです。これがワンクールです。染めている間は身体中びっしょりの汗をかきますから午前と午後で着替えますが殆ど意味が無いほどの汗ですね。これでビールでも飲めれば美味しいんでしょうが、私は下戸なのでペットボトルのお茶を抱えてやります。脱水症状を起こさないように気をつけるのが精一杯ですね。

泉二:いやあ、先ほど染めている作業場を見せていただきましたが、煮出している横で染めるのは本当に辛いですね。サウナの中に居るみたいで私達じゃ殆ど出来ませんわ。

新垣:あはは・・でも染めないと皆、織手さんが待っていますからね。出来る限り頑張らないとと思っていますけどね。

読谷山花織に入ったきっかけは

泉二:新垣さんは、どういう経緯からこの織物に入ったのですか?

新垣:まず読谷山花織の歴史からお話ししたほうがいいですね。
読谷山花織は、軍雇用で働いていた母親達の仕事として何かできる仕事が無いかと探していた矢先に候補に上がったんですね。 読谷村 では村興しが「シークワーサー」と「花織」になった。昭和39年には皆さんご存知の「与那嶺貞さん」が中心として読谷山花織の復興を始めていた。この当時織の技術を持っていたのは「おばあ」と呼ばれるお年寄りだったんですよ。そしてどんどん与那嶺さんの活躍によって復興が始まった。
私に声が掛かったのは昭和49年です。それまでは女性が中心で織手さんが中心。そこに「“染と商売”の両方が出来、より読谷山花織を活性化させる人がいないか。」ということで村役場の人が候補者を探していた。たまたま私の友人が役場に勤めていたのと、私が化学を専攻して卒業、その後まだ就職していなかったと言うタイミングが合ってその友人から「大学で得た知識を故郷で活かして活性化に手を貸してくれないか」と頼まれたんです。

泉二:え?じゃあ、特に織物を体験していたわけじゃなかったんですね。

新垣:そうです。泉二さんと一緒で、とりあえずやって見ようから始まったんですね。まずは役場の調理室で糸染めの研究です。化学をやっていたおかげでなんとなく媒染液との反応具合は自分ではかれたのですが、糸の扱いが下手で出来ていなくて結構大変でした。沖縄県の工業試験場に行って3ヶ月間2グラム単位で染の研究を続けました。
どうにか糸に染を施して製品化できる段階までこぎつけるのにずいぶん掛かりましたね。それでも最初は織手のおばあたちに「糸繰りがやりにくい」といわれていました。

泉二:師匠も無く自分で研究ですか。凄いですね。

新垣:ははは・・・でも泉二さんだってそうでしょう。初代でここまでのお店を展開してくるのに誰かに教わったわけではなく自分で色々とやってこられた。失敗もあったでしょうがそれを乗り越えて今の地位を築かれた。凄いと思いますよ。

泉二:いえいえ・・私はいつも勘で走っていましたから、地道に積み上げてきた新垣さんとは違いますよ。

読谷山のティサージ

泉二:読谷山花織には昔「想いのティサージ」と言うのがありましたよね。

新垣:「うむいのティサージ(想いのティサージ)」ですね。昔は着物一反を織りながらその残り糸を使って一枚の手ぬぐいを作ったんですよ。織子さんの考えでそれぞれ手で花織を入れ込んでいくので本当のオリジナルだったんですね。

泉二:なんか凄く素敵な話ですね。

新垣:そうですね。手織の布は織手さんが皆それを着る人のことをいつもいつも思いながら作ったんです。それが娘に当てるものであったり息子に宛てるものであったり、夫だったり、愛する人だったり。「想いのこもった布」を身に付けると「想い」が身に付けた人の守り神になって色々なことから身を守ってくれると信じられていました。
なので織手は一生懸命自分の想いを込めて人と違うものを作ったんです。だからこそ、手花(ティーバナ)は無制限で模様がつくれるんですよ。

夫婦で読谷山花織を

工房にお邪魔して、新垣隆さんと澄子さんと。

泉二:新垣さんの所はご夫妻で花織をしていらして、素晴らしいですね。

新垣:最初は染は私、織は澄子ってなっていたんですけどね。昭和56年頃から自分自身も織を始めてみました。最初は女房に教えてもらうから喧嘩ばっかりしていましたけど、60年からは私も1人で本格的に折り始めまして、今は染と織の両方をしています。

泉二: 奥様とは図案の相談から始まるんですか?

新垣:そうですね。図案の段階で「こういう色を染めて欲しい」と言う依頼が出されることもありますし、私が先に糸染めして「これらを使って花織を作って欲しい」と依頼することもあります。なるべく夫婦で色んなものを見るようにしているんですよ。刺激を受けていないと新しいものは作れませんから。

奢侈禁止令

泉二:沖縄も奄美大島も昔は規制が多かったですよね。

新垣:そうですね。芭蕉布以外は身に付けては成らないって言う時代もあったそうで。寒いときには芭蕉布を2枚重ねて着ていたと言いますよね。

泉二:そうなんですよ。今では喜如嘉の芭蕉布が有名ですが、その昔「糸芭蕉」の発祥地は奄美大島だったって言う話しもあるんですよね。

新垣:そうなんですかあ。こちらでは、芭蕉布以外で身に付けるものは「紺」か「黒」以外は駄目だと言うときがあってね。
当時上流階級の人は外側は読谷山花織の紺を地にして花織を少し入れて、内側に紅型をつけて袷にして、今で言うとリバーシブルみたいな感じですね、にして着ていた時代もあったんですよ。

泉二:そうやって古の人は、自分達の技術を守り繋いできたんですね。そんなのばれたら打ち首ですよね。

新垣:そうだったと思います。そうやって守り伝えられた織物だからこそ今私達が守って伝えていかないといけないなって思っています。

挑戦するものは?

新垣さんの染めた糸

泉二:これから挑戦するものはありますか?

新垣:ひとつ考えているのは、読谷山花織は昔は木綿で作られていたんですよ。それを復活させてみたいですね。

泉二:凄いですね。

新垣:それと今の現状に甘えないで行きたいです。産地が一致団結して取り組んでいくからこそ良い物が出来るし、値段も上下動しないで済む。今、組合長を勤めていますが、流通経路の確保と作り手の歩調をきちんとあわせていきたいですね。

泉二:素晴らしいお考えですよ!私もそう思っています。とかく何処の世界でも「これが良い」と言うとそれに群がって直ぐにコピーを作り出して一気にブームを作って直ぐに下火になってしまう。それでは先人が命を掛けて守り伝えてくれたものが全然残らなくなってしまう。だから地道にきちんとした「正しい道」で歩んで生きたいと私も考えていますよ。

新垣:私も組合長としてそこをきちんと守ってもっともっと「読谷山花織」を価値ある大切なものにしていきたいです。

泉二:是非そうしてください。身体に気をつけて頑張ってくださいね。

[対談日:2005/07/20 筆:荒井博子]